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ファンサービスをしない監督 落合博満は野球ファンに何を与えたのか 第23章

 第23章 なぜファンは2008年の3位を悲しみ、2020年の3位を喜ぶのか

 2008年のペナントレースは、のちにメイクレジェンドと呼ばれるほど劇的な結末を迎えることになる。

 その呼び名の語源は、1996年だ。この年、巨人の長嶋茂雄監督が11.5ゲーム差をひっくり返した大逆転優勝をメイクドラマと呼び、流行語になった。  
 2008年は、巨人が1996年以上の14ゲーム差をひっくり返す大逆転優勝を果たしたから、メイクレジェンドと呼ばれたのだ。

 2008年の開幕当初から主導権を握ったのは、阪神だった。シーズン前に広島から主砲新井貴浩、オリックスから内外野をこなせる平野恵一を獲得。その補強が効果を発揮して開幕ダッシュに成功する。
 圧倒的な強さで4月から7月までを駆け抜け、7月22日には優勝マジック46を点灯させたのである。

 一方、中日は、5月半ばまでは阪神を僅差で追いかけたものの、森野の左ふくらはぎ肉離れによる離脱もあって徐々に突き放され、7月19日には14ゲーム差をつけられてしまう。

 それは、巨人も同じだった。7月8日には阪神と13ゲーム差を付けられ、リーグ連覇は風前の灯となってしまったのである。

 しかし、8月に入り、各球団から北京五輪日本代表選手が抜けると、風向きが変わる。2人しか日本代表に選出されなかった巨人が一気に独り勝ちの様相を見せ始めたのだ。

 その一方で3人選出の阪神は失速し、5人選出の中日は足踏みする。三者三様のチーム状況に分かれていった。

 この年の巨人は、ヤクルトから主砲ラミレス、エースのグライシンガーを獲得し、さらに横浜から抑えのクルーンを獲得するという信じがたい大型補強によって、チーム力は圧倒的だった。さらに、大量に保有する育成選手の中から成長した山口鉄也が急成長し、選手層が分厚くなっていた。

 そのうえ、北京五輪で2人しか抜けなかった状況も味方し、巨人は8月から圧倒的な強さを発揮する。8月を12勝7敗で加速すると、9月を17勝6敗で一気に首位と0.5ゲーム差まで詰め寄る。そして、10月8日の直接対決で勝利してついに阪神を逆転して首位に立つのである。

 その陰で、中日は、前年の日本シリーズ、アジアシリーズ、北京五輪予選をフルで戦い抜いた主力選手が疲弊し、さらに8月には北京五輪で主力選手が抜け、調子を崩して帰ってきた。大型補強をせず、必要最小限の選手で戦い抜いてきた中日にとって、この状況は、壊滅的と言う他なかった。

 その結果、主力選手のほとんどが過去最低とも言える成績にあえいだ。チーム打率は、リーグ最低の.253、チーム防御率も3位とはいえ3.53と沈んだ。特に同じようなチーム形態をとる阪神とは対戦成績6勝17敗と屈辱的な惨敗に終わった。再起を図るクライマックスシリーズこそ、阪神に2勝1敗で制したものの、この年からアドバンテージ1勝分がついた巨人には1勝3敗1分で敗れた。

 その結果、残ったのは落合政権唯一となった3位という最低成績である。
 落合が監督を務めた8年間の成績は、1位4回、2位3回、3位1回。

 他の7年間がすべて2位以上であったため、この年だけ目立つ。
 一般的にはAクラスというまずまずの成績であるにもかかわらず、屈辱的な成績にしか見えないのだ。

 しかし、落合退任から10年を迎え、直近8年間の中日の成績は、3位1回、4位1回、5位5回、6位1回。
 もはや、真逆の結果と言っても過言ではないだろう。

 2020年には中日が8年ぶりに3位となって、私は、喜んでしまった。2008年に6年ぶりに3位に落ちて悲しんでいたのが、もはや幻のように思える。

 同じ3位なのに、どうしてここまで感覚に差が生まれてしまうのか。

 恐ろしいもので、我々の感覚は、置かれた環境の力で、無意識のうちにアップデートされる。
 落合にハイレベルな野球を見せつけられて、1位か2位が当たり前になってしまった中日ファンは、3位が屈辱的な結果にしか感じないほど、感覚がアップグレードされていた。

 その感覚を最近10年間で徐々にダウングレードせざるを得なくなるなど、私は、2008年時点では想像すらしていなかった。

 2008年の不測の事態が連続しての3位をファンが屈辱的と思ってしまうことこそ、監督落合の突出した実力がなせる業だったのだ。
 そして、2020年の3位にファンが歓喜してしまうのも……。

 それゆえ、落合退任から年月を経るたびに、落合の評価は、高まり続ける。そして、ファンは、もはや誰も落合の代わりになれないことを悟るのだ。

 2008年の中日は、岡本が抜けたセットアッパーを除いて、レギュラー選手を完全に固定して戦える体制が整っていた。確かにレギュラー選手は、年齢的にも、心技体においても、充実した選手で固めることができていたのだ。
 落合も、この年の初めに、自らが技術を認める選手が揃ったことで「理想的な戦いができる」と意気込んでいた。

 私も、シーズン当初は完全優勝を信じて疑わなかった。にもかかわらず、結果は、残酷なまでに落合政権最低の成績に沈んだのである。

 そんな結果を生んだ要因を一言で語ることはできない。前年に日本一、アジア一に上り詰めた達成感と疲労感、そして、北京五輪アジア予選と本選での主力離脱。レギュラーが固定されたことによりチーム内競争力が低下が低下したこともある。

 チーム外では、巨人・阪神が大型補強したのに対し、中日は流出の方が多く、選手層に差がついてしまったこともある。

 2006年にシーズンを通した強さでリーグ優勝を果たし、2007年に日本一、アジア一となったことで、チームとしては完成の域に達していた。しかし、それを固定して維持しようとしたとき、思わぬほころびが顔を出した。

 2008年は、落合が4年間かけて積み上げたものが難なく崩壊してしまったのである。

 2009年、落合は、巨人・阪神という大型補強球団に対抗するため、周囲の想像を超える形で新しいチーム作りに取り組むことになる。


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