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ファンサービスをしない監督 落合博満は野球ファンに何を与えたのか 第21章

 第21章 なぜ常勝チームのセットアッパー岡本を流出させたのか
     ~2008年~

 前年に日本一になったとはいえ、中日は、圧倒的な戦力で勝つチームではなかった。そのうえ、主力外野手の福留孝介が大リーグのカブスへ移籍することになった。

 幸いなことに西武の外野手和田一浩がFA宣言で中日移籍を希望し、入団してくれた。そのため、落合は、補強に動かなくとも、福留が抜けた穴を和田が埋める形は整えられた。

 しかし、今度は逆に和田の人的補償として不動のセットアッパー岡本真也が西武に移籍することになったのである。

 現代野球においてセットアッパーは、重要である。

 1990年代前半頃までは、中継ぎと一括りにされており、役割は敗戦処理が主だった。しかし、時代が変わり、1990年代後半からは先発完投型の投手は激減した。1996年からは中継ぎ投手のタイトルが創設された。
 勝っていても大抵の試合で中継ぎ投手が必要な時代になったのである。

 最近では8回に投げる投手をセットアッパーと呼んで、区別するようになった。

 もちろん、現在でも先発投手が最も重要で、次に抑えが重要なのは変わりないが、抑えにほぼ匹敵するほど8回を投げるセットアッパーの存在は大きくなっている。

 岡本は、落合が監督就任後、セットアッパーとしての素質が開花し、2004年には最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得。2007年にも5勝2敗38HP、防御率2.89で中日の日本一に大きく貢献した。岩瀬の前の8回を主に投げて、剛速球と鋭いスライダーを武器に奪三振が多く、中日の勝ちパターンと言えば、平井・岡本・岩瀬のリレーだった。

 にもかかわらず、人的補償をするときのプロテクト枠28人に岡本が入っていなかったのは、相手チームの西武ですら驚きを隠せなかった。
 通常であれば、セットアッパーをプロテクト枠から外すことは考えられなかったからだ。

 当時、常勝チームのセットアッパー岡本がプロテクト枠を外れた理由は一切明かされず、いまだに明かされていない。
 様々な憶測が飛び交い、年齢による衰え、安定感に欠けること、世代交代、球団との確執、和田と釣り合う選手の西武への譲渡、といった諸説が流れた。

 岡本のプロテクト洩れがたった1つの要因によるとは考えにくく、おそらくは複数の要因が重なった結果そうなってしまったのだろう。2004年の段階であればプロテクト洩れすることはなかったであろうし、和田が入団しなければ放出されることもなかったはずである。

 ただ、この当時、西武は、中継ぎ投手が弱体化して苦しんでいた。そのため、落合は、和田をもらった代わりとして中継ぎエースの岡本を提供した、と考えても納得できる。

 FAやトレードで大量に選手を獲得し、飼い殺しの選手を多数抱える球団もあるが、落合は、そういったやり方は野球界のためにならない、と考えていたように思う。

 なぜなら、落合は、楽天が新規参入球団として選手集めに困っていたとき、土谷鉄平、小山伸一郎、関川浩一、紀藤真琴、川岸強といった中日の選手を楽天に提供している。中でも鉄平は、首位打者を獲得するまでに成長し、小山は、セットアッパーや抑えとしても活躍した。

 落合は、中日ではレギュラーとして起用するのは難しいが、他球団ならレギュラーとして活躍できるような選手を積極的に提供した。
 選手の人生と野球界全体の底上げや発展を多角的に考え、社会貢献をしたのだ。

 2007年終了当時、岡本は、中日にとって、どうしても抜けられては困る存在ではなかった。2006年の防御率3.14、2007年の防御率2.89を見てもセットアッパーとしてまずまずの成績と言えなくはないが、たまに打ち込まれる脆さを抱えていた。

 また、岡本は、2008年には34歳になり、今後のさらなる成長が見込める存在でもなかった。ゆえに、どうしても抜けてはならない選手と若手の有望選手を中心にプロテクトした結果、岡本の順位が28位を下回ってしまったのだろう。
 ここでも落合は、情に流されず、シビアな判定を下したのだ。

 実際、中日ではセットアッパー候補となる若手投手として、浅尾拓也、高橋聡文、小林正人、鈴木義広らが成長してきていた。

 岡本は、2008年に西武で47試合に登板して16HPを上げる活躍を見せたものの、翌年からは不振に陥り、韓国プロ野球を経て2011年に楽天で引退する。

 岡本をプロテクトから外したのは、落合や森の決断だろうが、岡本の翌年以降の成績を見ると、その判断は妥当だったと言わざるを得ない。

 それでも、中日は、岡本が抜けた穴に2008年は苦しんだ。8回を投げるセットアッパーを固定できなかったことは、チームが優勝できなかった要因の1つともなった。

 とはいえ、岡本が抜けたことによって浅尾や高橋が大きく成長を遂げ、2009年後半になって8回のセットアッパーに浅尾が固定できるようになる。

 結果的に見れば、岡本の放出は、チームのターニングポイントであり、2009年後半までセットアッパーを固定できなかったことで、中日は、2008年を犠牲にした形となった。

 しかし、それが大きく成績を落とさずに世代交代に成功し、後の球団2連覇につながるのである。


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