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ファンサービスをしない監督 落合博満は野球ファンに何を与えたのか 第5章

第5章 はじまりはサプライズ 開幕投手川崎憲次郎~2004年~

 もはや世間で語られ尽くした感のある開幕投手川崎憲次郎。しかし、監督落合を語る上で、この話題を避けて通ることはできない。

 その大きすぎるインパクトのせいで、中日では落合が先発投手をすべて決めていたと誤解している人々もいるほどだ。しかし、8年間の中で落合が先発投手を決めたのは、たった1度、2004年開幕投手の川崎憲次郎のみである。
 実際は、川崎憲次郎を開幕投手にしたせいで、本来の開幕投手川上憲伸を第3戦に回すというのも決めなければならなかったわけだが・・・。
 あとは、投手コーチの森繁和が決めていた。

 なぜ、開幕戦だけ落合が先発投手を決めたのか。それは、様々なメディアによって明らかになっている。
 落合が川崎先発を本人に言い渡したのは、2004年1月2日である。

 かつてヤクルトのエースだった川崎は、2000年にヤクルトで8勝を挙げて通算勝利数を88に伸ばした後、2001年から中日へFA移籍した。
 だが、2001年の開幕前に右肩を故障してしまい、2001年から2003年までの3年間、1軍登板はなかった。つまり、中日では1勝すらしていなかったのだ。

 2003年、川崎は、2軍で13試合に登板し、59回2/3で4勝4敗、防御率5.58の成績しか残していない。右肩故障の影響で往年の球威はない。
 それどころか、2年以上1軍登板をせず、年俸2億円をもらい続ける川崎に対する反感から、ネット上では「見せしめとしてオールスターゲームに出場させよう」という運動が起こった。メディアが乗っかるようにそれを煽った。

 そして、ついに2003年7月2日にはオールスターゲームの人気投票で1位に選出されるという異常事態となったのである。

 川崎は、ファン投票1位選出が決まった日に辞退届を出したが、その心中は、苦悩に満ちていた。故障から元の状態まで回復せず、思うように投げられず、それでも契約上払われ続ける高年俸。まさにFAが生んだ最大の悲劇だった。

 中日とは4年契約であったため、川崎は、2004年に成績を残さなければ、引退するしかない。

 落合は、そんな川崎を外部から3年間、見続けてきた。落合自身も、故障で戦列を離れた経験を持ち、メディアにさんざん叩かれてきただけに、川崎の気持ちを理解していた。このままなら、屈辱的なオールスターファン投票1位選出という炎上が川崎の現役最後の記録になってしまいかねない。
 だからこそ、2004年の川崎を何とか後押ししたかった。それは、中日の選手たちの多くが抱いている想いでもあった。

 それならば、川崎をどこで起用するか。
 落合にとっても2004年は、プロ野球の監督1年目なので、最も重要な年である。使いどころを誤って、優勝争いから脱落するようなことがあってはならない。
 熟考の末、落合が下した決断は、川崎の開幕戦先発だった。

 落合は、川崎復活のため、最大限のサポートをした。2月1日の紅白戦で先発させた後、オープン戦では中9日で登板させるなど万全の調整をさせたのである。

 そして、開幕3連戦での3連敗を避けるために、本来の開幕投手であるエース川上憲伸を第3戦で起用するという秘策もあった。
 これは、まさに兵法書『孫子』の「善く戦う者は、勝ち易きに勝つ者なり」を応用した戦法だ。
 相手チームの先発3番手に自チームのエースをぶつけ、勝つ確率を高めたのである。

 これらは、すべてが極秘で行われた。開幕投手を事前に知っていたのは、監督・コーチでは落合と森のみ。選手では川崎と谷繁元信捕手のみだったという。
 川崎降板後の投手起用を考えなければならない森と、川崎に1球毎にサインを出さねばならない谷繁。
 事前告知は必要最小限にとどめ、他のコーチや選手にすら情報漏えいを危惧して話さなかったのだ。

 2004年4月2日、球場のどよめきとともに、開幕投手として広島戦に先発した川崎は、あえなく1回2/3で5失点を喫してKOされた。
 しかし、ここから中日の選手たちは、川崎の負けを消すために必死の反撃を開始する。のちに大リーグでも安定した活躍を見せる広島のエース黒田博樹を攻め、2回裏に2点を返す。5回に1点、6回にも2点を挙げて同点に追いついた。
 そして、7回裏には立浪和義の犠牲フライで勝ち越し、さらに2点を追加して一気に試合を決めたのである。
 結果、8-6で勝利。監督落合の記念すべき1勝目となった。

 落合は、著書『采配』(ダイヤモンド社 2011.11)の中でこう振り返っている。
「何よりも、春季キャンプから復帰を目指す川崎の背中を全員が見て、開幕戦では何とか川崎を助けようとプレーしてくれたのが大きかった。」
 故障からの復活に向けてもがき苦しむ名投手をチーム全員で盛り立てようとして勝ちに行く姿勢こそ、落合がチームに求めたものだった。

 開幕戦に全員で協力して勝ち取った勝利は、すぐに相乗効果を生んだ。
 第2戦は、先発に野口茂樹を立てて8-4で勝利。第3戦は、エース川上憲伸が先発し、3-2で勝利。
 開幕3連勝という完璧なスタートを切ったのである。

 この開幕3連勝は、結果的に2004年の命運を決めた試合にもなり、落合政権を象徴する試合にもなった。

 落合は、2011年11月22日の監督退任会見で、最も印象に残った試合として、この開幕戦を挙げている。

 とはいえ、残念ながら、川崎は、復活できなかった。その後、川崎は、4月30日の横浜戦で先発するも、1死もとれずに4失点で降板した。
 川崎は、この年、2軍で11試合に登板している。48回1/3投げて4勝2敗、防御率3.54。2軍では何とか通用するが、1軍では通用しない。そんな状態だった。

 中日のリーグ優勝が決まった翌日の10月2日、落合は、自ら川崎に戦力外であることを告げる。
 川崎は、他球団移籍を検討せず、即座に引退を申し出た。

 翌10月3日、川崎は、古巣ヤクルト戦で先発登板する。これは、川崎の引退試合であり、多くのファンに見守られながら1回を投げて三者三振で締めた。

 しかし、今となっては、ヤクルトで一時代を築いた名投手川崎憲次郎の壮大な引退試合は、この試合ではなく、あの2004年4月2日の開幕戦だった。
 あの開幕戦先発のおかげで、川崎は、屈辱のオールスターファン投票選出投手という悪夢を払拭した。そして、落合政権最初の開幕投手として知名度を上げ、華麗な引退試合で有終の美を飾ることができたのである。

 それとともに、開幕投手川崎起用は、落合が選手想いで、選手の気持ちを大切にする監督であることをチーム内外に知らしめた。
 そこから中日は、リーグ制覇に向けて確かな歩みを進めることになったのである。


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