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ファンサービスをしない監督 落合博満は野球ファンに何を与えたのか 第8章

 第8章 ペナントレースを左右する想定外の事態と失敗~2005年~

 2005年、中日は、セリーグチャンピオンとして順調なスタートを切った。

 開幕の横浜戦ではアレックス・オチョアのサヨナラ満塁本塁打でエース川上憲伸が4-0の完封勝利。この年は、チャンピオンらしく、正攻法の開幕投手だった。

 そのまま交流戦の開始前の5月5日まで20勝9敗。2位に5ゲーム差をつける独走態勢を築いた。

 タイロン・ウッズを四番に据えた打線が順調に機能し、投手陣も安定した投球を続けた。マスコミは、今年も中日がこのまま優勝するのでは、と書き立てていた。

 しかし、このとき、中日は、2つの失敗を犯していた。

 私は、落合の8年間をすべてが完璧で、落合の采配に何のミスもなかった、と称賛するつもりはない。

 どんな名監督で優れた理論や計画を持っていたとしても、必ず失敗はある。想定外の出来事が起こると、理論や計画がいとも簡単に破たんしてしまうのだ。

 たとえば、2004年の西武との日本シリーズ第3戦。

 6-4とリードした7回裏、前の回からイニングをまたいで投げていたセットアッパー岡本真也が1死2塁のピンチを作る。

 打席には左の代打石井義人。森投手コーチは、左の高橋聡文を送り込もうとした。

 そこで、落合は、交代を告げにマウンドに向かう。

 しかし、そこで想定外の事態が起きる。マウンドに集まった選手たちが岡本の続投を懇願したのだ。

 その年の岡本は9勝4敗、防御率2.03。リリーフポイント24.80で最優秀中継ぎ投手にも輝いていた。リーグ優勝に大きく貢献した投手の1人だった。

 1年間、岡本とともに戦ってきた選手たちの懇願。選手たちの意見を尊重するか、投手コーチの判断を尊重するか。

 情に流された落合は、継投から岡本続投に転換した。

 結果は、失敗だった。

 岡本は、佐藤友亮にタイムリー二塁打を浴び、6-6の同点に。さらには、カブレラに満塁本塁打を打たれて6-10と逆転を許してしまった。典型的な継投ミスである。

 勝てる試合を8-10で落とした中日は、結果的に3勝4敗で日本一を逃す。

 落合は、それを境に、采配に私情を一切挟まなくなったと言われている。

 プロ野球は、想定外の事態の連続だ。

 だから、想定外の事態に的確に対応できないと、一気に悪い方向へ進んでいってしまう。

 それが2005年5月にも起きた。

 まず、5月5日のヤクルト戦で、四番打者として活躍していたウッズが試合中に暴行を働き、10試合の出場停止処分を受けてしまったのだ。

 10試合離れるということは、試合勘が戻るまでさらに5試合ほどかかると考えれば、15試合。その期間を不完全なチーム状態で戦わざるを得なくなったということである。

 それだけではなかった。2005年5月6日からは、プロ野球史上初のセパ交流戦が始まることになっていた。

 前例がなく、やってみなければ、ペナントレースにどのような影響が出るかわからない交流戦。

 落合は、インタビューでこんなコメントを出した。

「交流戦は、5割でいけばいい」

 こんな余裕のコメントが失敗だった。

 尾張から天下統一を果たし、江戸幕府を開いた徳川家康は、こんな言葉を残している。

 「得意絶頂のときこそ隙ができることを知れ」

 落合は、監督就任1年目2004年にリーグ優勝を果たし、2005年も首位を走って独走しようとしていた。まさに得意絶頂。

 そこに生まれた四番打者の出場停止と、交流戦5割発言という2つの隙。

 タイロン・ウッズを欠き、交流戦の目標を低く見積もった中日は、初戦に完封負けを喫すると、最初の10試合で2勝8敗と大きく負け越す。

 そうしているうちに、交流戦で勝ち星を重ねて上がってきた阪神に首位を明け渡すことになる。交流戦が始まって、わずか17日目の5月22日だった。

 そして、中日は、交流戦開始から20試合で5勝15敗というありえない成績を残してしまう。

 中日は、交流戦の終盤に若干盛り返したものの、結局、15勝21敗の9位に終わる。逆に阪神は、21勝13敗2分のセリーグ1位、全体でも3位の好成績を収め、中日に2ゲーム差をつけてセリーグ首位に躍り出たのである。


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