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ファンサービスをしない監督 落合博満は野球ファンに何を与えたのか 第1章

第1章 落合博満は、引退後、どの球団で指導者をするか~2003年以前~

 1998年、落合博満は、この年限りで20年間に及ぶ現役生活を終えた。
 まだ代打の切り札なら充分に戦力となる。
 私は、そう確信していた。
 だが、そういう役割で落合を獲得する球団はついには現れなかった。

 落合も、正式な引退表明をしなかった。自由契約選手として獲得球団を待ったのだ。
 しかし、どの球団も獲得の意向を示さず、静かに現役生活に幕を閉じた。
 自分を最も必要とする球団で働き、必要とされなくなったら自然に引退する。そうやってプロ4球団を渡り歩いてきた落合は、最後まで自らの意志を貫き通したのだ。

 落合の現役生活が終わったとき、私は、落合がどの球団の指導者になるか興味を持った。
 現役では4球団に所属したが、巨人は生え抜き以外監督になれないという不文律がある。
 となると、可能性が高いのはロッテ、中日、日本ハムの3球団だった。

 しかし、落合は、現役生活を通じて一匹狼のイメージがつきまとっていた。独自の言動と練習法は、「オレ流」と称された。
 また、マスコミに多くを語らないため、残した成績の割には称賛されることは少なかった。
 最も高く評価してもらえる球団で働くという一貫した姿勢は、マスコミからの格好の標的となって「金の亡者」と叩かれたのだ。

 ロッテ在籍時は、落合の良き理解者であった稲尾監督が解任され、落合も追い出されるように中日にトレードされた。
 そのときは、落合が球団批判を含む発言をしたと、マスコミに書きたてられた。

 巨人時代は、球団が三顧の礼で落合を獲得し、落合は、3年間で2度のリーグ優勝に貢献したにもかかわらず、巨人は落合とポジションが被る清原を獲得。
 落合は、控え選手に追いやられることが判明し、日本ハムへ移籍。

 日本ハム時代には指導者との野球観の違いから気力を持続させられず、代打に追いやられて引退することになった。

 その中で、中日との関係だけは、良好なまま残っていた。
 1991年の年俸調停やFA宣言で中日球団と溝があるように世間では受け止められていたが、実際は違っていた。
 年俸調停は、球団と落合が合議の上で第三者に判断を委ねるのが最善と判断した結果であった。

 また、FA宣言での巨人移籍は、「選手の権利を強固にしたい」という想いと、落合が「少年の頃から唯一の憧れであった長嶋茂雄監督の力になりたい」という強い想いが重なったためである。
 中日球団と高木守道監督は、落合のFA宣言に理解を示し、円満な話し合いを経て巨人移籍が決まっている。親会社である新聞記者との関係も、中日スポーツの記事を見る限り、在籍した7年間、ずっと良好だった。

 だが、たとえ中日球団との関係が良好であったとしても、生え抜きでもなく、FA宣言で出ていった落合を監督として招へいするとは、なかなか考えにくかった。

 一匹狼と揶揄されることも多い落合は、1999年から2003年まで5年間にわたって、どの球団の指導者にもなっていない。
 わずかに1回、2001年の横浜のキャンプに臨時コーチとして3日間だけ指導を行っているのみである。これは、横浜の森祇晶監督が落合の卓越した打撃技術を認めて起用したためで、お試しの意味合いが強かった。
 落合のプロ指導経験は、これだけだった。

 そして、もう1つ落合を指導者として起用し辛い点は、落合が現役生活で圧倒的な成績を残していながら、20年間でリーグ優勝3回、日本一1回という平凡な優勝実績しかないことだった。
 落合は、3回も3冠王を獲得しているが、そのうち1度もチームは優勝できなかった。口の悪いマスコミは、落合を唯我独尊の人のように書き立てたため、落合は、チームより自分の成績だけを考えてきた個人主義者のレッテルを貼られてしまっていたのである。

 事実、落合自身も、後に語っているように、「自らを監督に起用する球団が出てくるはずはない」と高を括っていたようである。それは、世間の見方も私の見方も同じだった。
 だが、私は、仮に指導者になる可能性があるなら中日、というかすかな予感だけは持っていた。


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