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伝統

以前にも申し上げたが、来年1月17日に犬山成瀬家初代の正成が400回忌を迎える。
周りの方に聞くと、400回忌を迎えることは、すごいことだと言われる。普通50回忌か33回忌を一区切りとして、その後の法事はしないらしい。しかし成瀬家は、これだけ続いた家だ。だから歴代当主の法事を、おろそかには出来ないのだ。

父が元気で、成瀬家の当主、犬山城の城主を務めたのは、50歳で難病になる前の、短かい期間だった。そしてその後すぐ、母は脳腫瘍で急死した。そのためか父は、歴代の法事も満足に出来なかったのかもしれない。
父と一緒に行った歴代の法事を、私は全く覚えていない。そんなおりに舞い込んできたのが、日光輪王寺、大猷院からの3代将軍徳川家光公の350回忌の法事の案内であった。このことは、私にとっても、兄弟にとっても、古い家の法事というものを知るうえでは、大切な機会にもなった。
案内状には平服でとあったが、私達の立場を考えると、そうとはいかないと、私と弟は確か紺色のスーツに身をつつみ、そして弟は黒のネクタイをして行ったと記憶する。そうして颯爽とした気持ちと出で立ちで、参加をしたのだった。しかし当日、会場に着いた時から私達は、心が凍りつく思いをすることになる。

皆様は、100回忌を越えた「回忌」「遠忌」と呼ばれるものは、慶事、お祝い事であるということを、ご存知だろうか?実はこの時まで、私は知らなかった。しかしこのことが、家光公の350回忌当日、私の気持ちを凍りつかせる要因にもなったのは、事実であった。
私達が颯爽として、行った家光公の350回忌は、着いた時から私達に、何か違う雰囲気を醸し出した。その理由が、私にはすぐに飲み込めなかった。「何故?」と思った時、弟が指差したその先に、紅白の幕がたなびいていたと思う。それを見た私は「え?慶事、祝い事なの?」と思って、血の気が引いたのを、今でも覚えている。そして持ってきた仏事の白黒の熨斗のお布施を、どうやって出そうか悩んだ。そんな私の気持ちをよそに、紅白の熨斗のついたお祝いが、周りで飛び交っていた。

そんななか、私達と同じ考えの仏事の熨斗のお布施を持った人が現れたのだ。私達は「チャンス!」と思いほっとして、その人の後ろに並び、何食わぬ顔で、お布施を出したのだ。そして式典の部屋に入った。そこはたぶんその当時、一般には公開していない部屋なのであろう。そして雰囲気が違う部屋でもあった。そこには、私の大好きな狩野探幽の虎の障壁画があったと思う。
確かその時の式典の施主は、徳川御宗家ではなく、水戸の徳川御当主であった。確か御宗家はその時、アメリカに転勤されていたと思う。水戸家は副将軍の家柄だから、代理を務められたのだと思った。
施主の水戸様は、やはり慶事だから、モーニングを着ていらした。その姿が、私達にこの式典が慶事であるということを、強く印象づけた。
それから水戸様とは、縁あって今も親しくさせていただいている。

この経験からその後、私達の歴代法事のデビューが始まった。それは単純に、歴史を大切にする家が、法事をおろそかにしてはいけないと思いからだったと記憶する。まず初めは、3代正親の300回忌から始まったと思う。その時の私は、訪問着の着物を着て、お祝い事として行った。それから歴代の「遠忌」は4~5年くらいおきにきたかな?同時に、両親や祖父母の法事も入り、ほぼ毎年、法事はやっていたと記憶する。一番華やかに行ったのは、2代正虎の350年遠忌の茶会だったような。成瀬家に残る法事の記録の写真は、お坊様の数のすごい法事ばかりだ。

100年を越える「遠忌」は、家の慶事なのだから、その年はその人の年ということで、その年1年間をめでたいと考える。
今回の正成の400年遠忌が、私達の最大の式典になると考える。だから、いろいろと個人的にやりたいが、悲しいかなお金もかかる。本当は、記録に残る大々的な式典を、やるべきなのかもしれない。しかし犬山城の、今の所有団体は、財団でもある。でもありがたいことに、旧所有者のやることには、行政である犬山市も、財団の理事たちも、寛容に受け止めてくれているから、やりやすい。だから今回は、背伸びをせずに、やれる範囲でやりたいと、私は思っている。

今社会の仏事は、簡素になってしまっている。これは第2次世界大戦後、家族構成が核家族化したことが、要因かもしれない。私はそれが悪いことではないと思っている。時代の流れでもある。昔とは違うのだ。しかし成瀬家という家には、そういう考えは当てはまらない。
私は、先祖の法事をすることだけが、大切だとは、思っていない。私は、法事の持つ歴史を受け継ぐことに、あるのだと思う。カッコつけていると言われても、仕方がないが。
今変わらなければならない部分と、変わってはいけない部分があると思い、私は家の古い考えを、変えてきたつもりだ。それだから、私が犬山城を、父から受け継ぐことが出来たと、信じている。

父は生前、私の考えによく耳をかたむけてくれた。それにより、犬山城という国宝を、娘に引き継がせるという形を選択した。今思うと、父はすごく思いきったことをしたが、今の社会での「男女平等」という考えには、確実に当てはまっている。普通武家の考えに、女性が代表になるなど、ありえなかった。しかし父は、亡くなるまで「子供達は平等に」という考えに、ブレはなかった。ありがたいことに。

私は今、父のその思いに答えたいのだ。それがここまで残った武家の意地と、思われる方もいるかもしれない。それでも私は、構わない。それから成瀬家は、今までも物事の良し悪しを、隠蔽したりしたことは、なかったはずだ。逆にオープンだった気がする。ある歴史家に「尾張藩は何でもオープンですね。だから尾張藩に関する書物は面白い。普通は隠すのに」と言われたことがある。だから成瀬家の何事に関してもオープンなのは、尾張藩の家風なのかもしれない。今いろいろと世間を騒がしていることは、隠蔽という日本特有のやり方から、始まっているように思う。そんな中で成瀬家が、長く続いた要因の1つは尾張藩に育った解放感にあったと、私は信じたい。そして徳川家康公の日々の日記と言われる「徳川実記」に、初代正成ほどの忠義の臣はいないと、書かれている名誉を胸に、私はさらに頑張りたい。
しかし恥ずかしいが、騙されたことはあったような…気がするが。


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