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どこに目的を置いているのか?

今日はなんだか身体が重い。理由はわかっているのだけれどなんだか納得もしていないのでつらつらと書いていこうと思う。



経営者やマーケティングをしている人間から漏れでる「社会課題解決の仕組み自体を回し続けていくには、ビジネスとして回るということが悲しいかな現代では必要だと思っている。」



この言葉はよくわかる。よくわかるのだけれどこの言葉を何かを始める前から発する多くのヒトが「社会課題を解決する仕組みを一旦無視して稼ごう」とするムーブを取りに行くのが本当にダサいなと思う。



はじめは稼がないと社会課題を解決できないからという言い訳が、いざ稼げるようになったら社会課題のことは置き去りにして「稼ぐ」にパラメーターを振っていく。



こういったヒトはおそらく自分が思っているよりも「社会課題を解決する」と「ビジネス」が両立していないのだ。


社会課題 < 金


この思考構造をどうにかしなければ話しにならないと感じている。


表向きに発せられる「SDGs」や「エコ」や「愛護」などもそうなのだけれどそれを堂々と表向きに発信するやつほど信用ができない。本質的にそれが問題と向き合っていないと言えばいいのだろうか。


例えばSDGsを理由に「プラスチックを削減します」などは最たる例だろう。ぼくの分野の化粧品で言えば「石油原料のモノは使っていません」にあたる。



これらは詭弁だ。石油原料をそのまま植物由来の原料に置き換えるとしたら「不確かな成分」がごそっと入ってくるのだ。それが果たして使用者にとって有益なのだろうか、謎の湿疹に悩まされる原因にならないだろうか。



製造コストにしても石油由来の原料よりも植物由来原料のほうが多くの製造工程をかける。そこで使用される電気代、機材の製造に使用される二酸化炭素、抽出に使用されるアレコレ。



あきらかに石油原料よりも植物原料のほうが環境負荷が高いのに・・・だ。



こういった矛盾が許されるのはひとえに消費者の無知であると言えるし、製造者の「売るため」の嘘が発端であるとも言える。


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「ビジネスをするために社会課題を利用する」ことで何の問題も解決しない企業をたくさん見ている。そういった企業や個人からすると「社会課題を解決するためのビジネス」に価値を見出してなどいなくて「金を稼ぐための言い訳を社会課題に押し付ける」ことさえしている。



社会課題を解決するために「しなければならないこと」は頭をひねらなければ絶対に儲からないし、非常に手間がかかる。課題を解決するために「やってはいけないこと」が多いというのも事実だ。自称「イヌのために」という製品が、客観的に見ると「イヌのためになっていない」こともある。



そこを踏み越えてまで得た金に何の価値があるのだろうかと考えてしまう。



では逆の立場でも考えてみよう。


社会課題>金


この考えではどうだろうか。これは行き過ぎると「ボランティア」になる。冒頭の「社会課題を解決できる金がないと意味ない」というのが正しくなるだろう。



社会課題 ≧ 金



これだとどうだろうか。ぼくはこの思想に限りなく近いと自分では考えている。つまり何が言いたいかというと「ビジネスを優先するために社会課題は少しでも踏みにじってはいけない」「その踏みにじってはいけない場所を守りながら稼ぐことが大切だ」と考えている。



踏み越えないラインでビジネスをするというルールを自分と会社に課していると言ってもいい。



それがどれだけ不利な勝負だとしても・・・だ。



この勝負にはとても大きな時間と手間がかかる。多くの企業ではこの「手間」を限りなく少なくしようとする。しかし、手間を省いて解決される課題などたいした問題ではない。



つまり目的として社会課題をどうにかしたいフリをして(課題は結局置き去りにして)金を稼ごうとするムーブだけはしたくない。おそらくついていった人間すべてを裏切る結果になる。



「社会課題を解決しながら金を稼ぐ」ということをしてきた人間がほとんどいない業界でどうやっていくか。つまり今まで誰も通ったことのない道を切り開いていくためにはどうすればいいのか。そんな事をずっと・・・ずっと考えている。



ちなみに「なにもジャッジしないというムーブも最高にダサい」と思っている。



ペット業界では「まずいラーメン」や「うまいけど違法なラーメン」がたくさんある。それなのにみんな「良いモノ」のような売り方をする。ほぼ法律を犯していると言っても過言ではない。これを指摘せずなにが業界の進歩だ。



「間違いはない、全て正解だ」という言論もくそくらえ、だ。



歯触りの良い言葉だけを使う人間は自分に能力がないことを隠すために、つまり「自分が」ジャッジされないための予防線を張っているにすぎない。例えば論文を書いてジャーナルに投稿すれば、間違いを指摘されることによってその理論がより良くなる。



ジャッジをするなということは「論文は出すけど間違いを誰も指摘しないでほしい」と言っているのと変わらない。それはただの思考停止で、社会など良くならなくていい。自分が稼ぐために誰も文句をつけるな。と言っているように聞こえるのだ。



モノゴトを前に進めるためには大衆の目に晒され、ジャッジを受け、論拠をもって、適切なモノゴトが生き残ることが大切だ。客観的な論拠を元にして、法律の範囲内で適切な競争をする。それが未来により良い仕事を生み出すことになるのだと。



とはいえこれは「積極的に争え」と言っているわけではない。無駄な争いなどないほうがいいに決まっている。



争いがなくなることはない。しかし無駄な争いは減らすことができる。そのためにぼくは自分の時間を、思考を、仕組みを、プロダクトを創ろうと思っている。


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