ぼくは「バランス」を信じない
シャンプーには様々な成分がある。
化粧品原料だけでも数百万、数千万。詳細に把握できないほどに今日も、明日も新規原料が開発されている。
日々生み出され、日々忘れられていくその成分たちにふと思いをはせる時がある。
遠く離れた土地でとれた植物はエキスとなり海を渡る。大自然の荒波で育った海藻は抽出成分として陸に上がる。廃棄されるはずの石油は丁寧に精製され、ココナッツオイルがあちこちに転がっている。
そんな成分たちをかき集めたものがシャンプーであり、目的は「皮膚を洗浄すること」だ。ただそれだけのことなのに、世間はやれUVカットだ、殺菌だ、保湿だのほぼありもしない効果を求めはじめる。
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ぼくの嫌いになった孔子の言葉があって「バランス」を大切にするという考え方「中庸」というものがある。
「中庸の徳たるや、それ至れるかな」
孔子には申し訳ないのだけれど、これをとても簡潔に言えば「どちらにも片寄らない中の道は最高だぜ」である。
現代の言葉にしてしまえば「周りの空気を読め。出れば打たれるし、消極的だと評価をされない。だから悪目立ちしないように」とも解釈できる。
この考え方にはぼくは理解はできるが賛同ができない。もっと言えば孔子とぼくはあまり相性がよくないのだろう。孔子の言葉で次のようなものがある。
誠は勉めずして中(あた)り、思わずして得、従容(しょうよう)として道に中るは聖人なり。
(本当に正しい人は、特に勉強したり考えたりしたりしなくても正しい道を歩むことができる。ゆったりと構えて道をすすむのが聖人というものだ。)
などと言いやがる。孔子はこう言うことによって他者から学ぶということを放棄したのだ。自分が一番でいたいがためのポジショントークがやばい。
最終的には
「七十にして心の欲するところに従えどものりをこえず」
(七十歳にしてようやく、自分の思うままにしゃべってもまわりになんとも言われなくなった)などとのたまうのだ。
ぼくはこれを「口だけ達者なおじさん」が自分に従順な部下だけを残して70歳でやっと自分が何を言っても誰も何も言わなくなったぜラッキー。というように聞こえるのだ。
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ペット業界に関しての「これから」を考えるにあたって議論は尽きない。
未来について議論する場合に必要なことは最先端に何を据えるか。どこに旗を立てるか、ということでもある。全員が今ある知識と経験を総動員して話しあわなければならないことだ。
こういうときにその会話についていけない外からみるとなぜか「喧嘩をしているように見える」らしい。孔子も識者の議論が争いに見えていたのだと思う。
「議論」はエビデンスの提示と「事実」に伴う見解の擦り合わせなので、もちろん論じたことに対しての批判と修正を繰り返しながら答えにむかう。そこに個人の思想や気持ちの介入の余地がないぶんドライに見えるのだろう。
そのせいで、話題に関しての予備知識がない者にはただの喧嘩に見えるらしいのだ。ぼくにも専門外・・・例えば天文学での論争を見かけたときにそのような気持ちになったのは確かだ。そこにはよくわからない事への恐怖もあるのかもしれない。
全体の状況をうまくつかめていない、理解できていないときに議論は喧嘩に見える。そういったときに【問題となる人間】が出てくる。
「全体像をうまく把握できていないのに話題の中心にいたいから出てくる中庸論者」だ。つまり現代の孔子。
感情論と自己中心的な問題提起をしてくるのが特徴で全体の話しをしているのに個別事案を持ち出してくる。そうやって話しの腰を折り感情をふりかざして自分の主張をしてくる。
やっかい。現代の孔子まじでやっかい。むり。議論に向いてないから本当に出しゃばらないでほしい。
とはいえ現代の孔子の「中庸」が必要な場面も必ずある。それは「答えの出ないことに対して無理矢理納得しようとするとき」だ。
自分たちの置かれている状況に何の変化もないけれど「考え方を変えれば・・・ほら、幸せになれるよ?」みたいなアレ。自分の力ではどうしようもない場合か、ただ思考停止したい場合に心の平穏を保つことを目的とするなら有効だと思う。
よく例として持ち出されるのが「コップに水が半分しかない」と思うか「コップに水がまだ半分もある」と思うかみたいな。
とはいえ状況はまったく変わっていないのだ。ぼくの思う未来に向かう議論というのは【コップに水が半分の状況で次のアクションをどうしようか】ということを話しあうことであって【コップの水はそのままでも幸せだよね】と納得することではない。
目的を達成する道のりを放棄してその場でとどまりたいと言うヒトはそのまま流されて孔子の言う事を聞いて生きていたほうが幸せなのだと思うから今のままでいい。
ただ「現状を変えたい」と少しでも思うのであれば現代の孔子に耳をかす必要はないのではないだろうか。
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もう一度言う。シャンプーの目的は「洗浄」だ。
そこに「美肌」や「保湿」や「香り」や「手触り」など邪魔でしかない。どうせなら色々な効果があったほうが・・・という謎の「バランス」をとることを目にする。
洗浄が目的であるはずのシャンプーに「保湿」という目的をつくることで商品が台無しになる。保湿を目的とするならば「保湿剤」に任せたほうがいいに決まっている。
バランスという言葉は、きちんと考えることができず、自分の考えを他者に説明ができない者がする【もっともらしく聞こえる言い訳】でポジショントークだ。
だからぼくは「バランス」を信じない。
【未来】のために。考えることをやめないし諦めない。
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