見出し画像

金木犀の蕾

「私は金木犀の香りが一番好き」と彼女は言った。
彼女とは、2019年の初冬、私の子宮体がん摘出手術の入院で十日間だけご一緒した女性(ひと)だ。

その北側の病室の大きな窓からは、太陽の動きに合わせて虹が移動していく様を皆で有難がって拝むことができた。

「こっち側の部屋では、よく虹が見えるのよ」と彼女は教えてくれた。それは、入退院を繰返したから知りえたことなのだと、彼女のこれまでを思った。彼女は子宮がんを患い他の病院で手術をして一度は治っていたという。だがこの時は、肺にまで散らばったがんの放射線治療のために入院していた。

他の病室の前を通ると、各々ベッドのカーテンは閉められたままで、薄暗く静かだった。私たちの部屋は皆オープンでおしゃべりと笑い声の絶えない部屋だった。それは検温などで訪れる看護師さんたちにも驚かれた。

私も病院で他人(ひと)とこんなに打解け合うとは思わず、本を沢山持ち込んでいた。私の心境の変化は彼女が『語り合うことで楽になるなら、お話しましょうよ』そんな姿勢で急かさずに接してくれたからだと思う。初めての入院、しかもがんの手術で不安だった私は、彼女の存在にどれだけ救われたか分からない。

「退院したらランチに行きましょうね」私の能天気な発案を彼女は受入れてくれた。でも、追加治療のない私とは違って、放射線治療の苦しい副作用や新型コロナウイルスの蔓延でその約束は何度も延期された。退院から一年半が過ぎ、彼女は天に召されてしまった。

今朝、窓を開け『秋の香り…?』と思って昨日も見た秋桜や秋海棠に目をやった。少し考えて「金木犀か!」と庭に飛び出した。

薄緑色からほんのり杏子色に膨らみかけた蕾からフレッシュな青い金木犀の香りが漂っていた。やっと再会が叶ったと思えた。温かい微笑みの彼女を感じて胸が熱くなった。

あなたに出会えてよかった。ありがとう、感謝。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?