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金色の輝き

2019年秋に私は初期の子宮体がんを告知された。生理の頻発による貧血で婦人科に通って二年、子宮内膜が厚いというのに時だけが過ぎた。私から先生にMRIによるがん検査を申し出てからは事が速かった。あれよあれよという間にがんの摘出手術日が決まった。

他人の病気には敏感で心配するのに、自分のこととなると驚くほど平静だった。大学や会社時代の友人には乳がんサバイバーが何人もいた。がんになったことはショックだけれど、自分も皆のように手術をすれば大丈夫という正常性バイヤスが強烈に働いていたと思う。宣告から入院までの一ヶ月半で眠れない夜は二日間だけだった。

入院初日、カジュアルな雰囲気だが骨董の青白磁器のような肌に、金色の髪の毛の女性がベッドに座っていた。『若く見えるけど三十代後半?水商売?バンドマン?それともダンサー?』一瞬でいろいろな想像を巡らせた。それは、彼女へのジャッジではなく、異質な空気を纏っているようで気になったのだと思う。この部屋は彼女を含め二人はがんの再発、私ともう一人は初めての入院という組み合わせだった。

私以外の三人はすでに打解けていて、個別のカーテンは開いたままだ。そうなると最後に入った私だけカーテンを閉めるわけにはいかない。私も開けたまま付き添いの妹と話をして受付の続きを待っていた。それでも三十分も経つと、私はこの三人に心を開いていた。

彼女たちはズケズケと土足で介入するのではなく、慎みながら私の状態を聞いてくれる人たちだった。それはがん患者の先輩として私の不安を受け止めてあげたい、という思い遣りに感じられた。

金髪の彼女は一週間前に極度の貧血で来院してそのまま入院になったという。なるほど、この肌の青白さは貧血のせいだったのか。

何日か共に過ごすうちに彼女が二十代で卵巣がんを患ったことを知った。妊娠の可能性を残すために卵巣の全摘出はしなかった。その後は寛解宣告の前に病院通いはやめて、手術からは十五年が経っているという。これまで化粧品の営業でバリバリ働いて自由も謳歌してきたことがうかがえた。しかし去年黄疸で入院し、がんの再発を知ったのだ。今回の貧血も体のどこかで出血しているが、出血箇所は検査をしても分からないという。

金髪にも理由があった。抗がん剤治療が始まれば、また髪の毛が抜けてしまう。その前に一度金髪を体験しようと思って染めたのだ。入院前には元の黒髪に戻すつもりだったが、その時間が無かった。私は最初に勝手な想像をしたことを恥じた。

入院十一日目、私の退院が先になった。輸血後ぐったりとベッドに横になっている彼女と挨拶をした。退院後の約束をすると彼女は涙を浮かべた。その時は『すぐ会えるのに、可愛い人』と少し驚いて思った。私は彼女も一緒にがんを克服して元気になると思っていた。そういうものだと信じていたのだ。

家路の途中、イチョウの葉がバラバラと雨のように降るのを見て、入院している間に季節は冬に変わったことに気が付いた。

年明け、彼女との約束は叶った。艶やかな黒いウイッグにロングブーツの彼女は、美しい大人の女性だった。イタリアンのデザートまで食べて店を出た。

帰り路、彼女は一時間以上座って食事ができたことを喜んだ。前日まで食欲もなく、座るのも辛い状態だったのだという。

「ちゃんと食欲があって、快便だったらそれだけで人間は幸せだよね?皆もそうだよね?」とすがるような表情で彼女が言った。私が「皆同じだよ!」と即答すると彼女は満足したようだった。

その後、公開したばかりの映画の話になると彼女は全身に力を入れて「私も観たい!」というので次の約束が決まった。

二週間後連絡をすると、様態が急変し再度入院して、しかも近々地元の緩和ケア病棟に転院するというではないか。

翌日病院に駆けつけると、げっそり痩せて綿の帽子を被った彼女が、個室のベッドに横たわっていた。私は食欲が無いという彼女のために「命をつなげる玄米スープ」なるものを作って持参した。でも、彼女を見た瞬間、それは絵空事だと感じた。私は初めて、彼女ががんの末期患者であると実感したのだ。

ゆっくり静かに話をした後で、ポットごと捨ててもらっても構わないと思って差し出したスープ。彼女は力を振り絞って体を起こし、一口だけそのスープを口に含んでくれた。それは、明らかに私のための一口だった。

転院して二週間後、彼女は天国に旅立ってしまった。

知合って三か月も経たない関係だが、病を共に闘った同士への想いは強い。彼女の不在を想うと胸が重苦しくなってしまう。それでも彼女の命の輝きを私は忘れたくない。

ありがとう、出会えたことに感謝。


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