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百五十二話 事情

 噂は当たっていた。目的地はやはり遂川の飛行場。激闘が予想された。今度こそ今生の別れかと思われた。が、いざ浅井ら属する第一聯隊が到着してみると、すでに第三聯隊が占領していた。あまりの出来事に皆拍子抜けする。

 戦闘からは免れたもの、弊害も生じた。占領後の大休止がなかったのだ。浅井は、つくづく休止に縁がないなと自らの運命に絶望する。
 
 聯隊は休まず進軍を始めた。これまで第一聯隊は、第三聯隊の後衛として続いていたが、ここで追い越す。次の攻撃目的地は、約七十キロメートル南東にある江西省かん州市という。なお、浅井の捕虜監視の任は引き続き続いた。

 聯隊は広東湾に流入する北江に沿って南下し、南十字星が見えるところまで来た。以前、寺尾兵長が「自分達召集兵は、広東で現地除隊になり、内地に帰れる」と言っていたが、中隊に断片的に入ってくる情報では、そんな状況ではなさそうだった。というのも「米軍が沖縄本島を攻撃開始」「広東にも上陸して来るかもしれない」「聯隊は沿岸に陣地を構築し、広東で米軍を撃滅する」「捕虜は広東で引き渡す」といった噂が流れているのだ。実際、捕虜は広東から来た部隊に引き渡すことになった。
 
 浅井は主任を解任した。他の中隊の捕虜は半数以上脱走していたが、浅井の中隊では二名だけ。あとは逃げずにいた。とはいえ、内、軍服を着ていたのは主任のみだ。残り十八名は、徴発した紳士服を着て旅行鞄をブラ下げているから、パッと見、捕虜には見えない。否、パッと見どころか、どう見ても観光旅行の紳士団体一行に見えた。さらに言うと、鞄の中には宝石や貴金属がゴロゴロ入っており、正味窃盗団だった。彼らに徴発された住民は、すべて日本軍の仕業と思うだろう。後生に憂いを残すという意味からも、浅井のマネージメント能力の低さは歴然としていた。

 なお、逃げた二人は富豪の家に入り、多額の法票とキロ単位の阿片を手に入れたらしい。したがって、独立してもやっていけると思い、逃亡したのだ。
 支那は多くの民族が行き来する大陸国家だ。そのため、独立自尊の意識が強く、国などあってなきに等しい。その時々の最強、最巨悪、最も豪の者が天下を握るのだ。信ずるものは己と一族のみ。この精神にのっとって熾烈な生存競争を行い、今も蒋介石を始めとした軍閥が群雄割拠している。
 また、支那大陸を制す上で、阿片が重要な資金源になっていた。阿片は、芥子けしの果汁を固めて乾燥させたもので、独特のアンモニア臭を放つ。色は黒褐色で、味は苦い。この阿片が、漢民族と相性がよく、実に少なく見積もって三パーセントが中毒者と言われていた。清廉や清貧、滅私奉公など、ストイックを良しとする日本と違い、快楽は、明日への活力、天からの恵みとして、享受し得る時に享受すべきと考えるのだ。そうでなければ、奪われかねないという大陸事情があるのだろう。
 良質な阿片を作るには適した場所がいる。まず、ある程度涼しくなければならない。芥子は暑さに弱く、三十度以上では枯れてしまうからだ。適性栽培地は、日支間あるいは支那の各軍閥間で、争いの種になっていた。

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