不満日記10 痛い昔の思い出

感染性胃腸炎から回復してきている。ただ脂っこい物を食べるとちょっとシクシクなる。痛い訳じゃないんだけど胃が悲しんでいるのを感じる。これ以上胃腸を痛めないために、今日も当たり障りのない事を書いていく。

海外で病院に運ばれて以来こんな事を考えるようになった。もし自分が海外で何かがあった時にどこまでの人にそれが伝わるのだろう。勤め先の人、家族には伝わるが友人はどうやってそれを知るのだろう。10年合わない友人もいる。それはたまたま会う切っ掛けが無いだけで縁は続いていると考える。そういう人達に自分の近況をどうやって伝えればいいのだろう。

そんなことを思ってFacebookのアカウントを作ったが1週間でアカウントが停止された。情報がなさすぎてBotかなんかだと思われたらしい。審議手順にしたがったらすぐに解除された。だったら最初っからアカウント作成時の審査にそのフローをいれればいいのに。そうもいかないようで。

しかしSNSは苦手なわけで。Facebookは自分の所属をバンバン聞いてくる。この仕様が苦手だ。Youtube活動の広報のためにTwitterを初めてこれもなれるまで苦痛だったがFacebookの方がつらい。

昔はネットの魅力は何者でもない匿名になれる事だと思っていたが。今はなりたい何かになる事が目的になっているように思う。これは賛否両論だろう。

今回は時事ネタ、風刺というより抽象的な話と昔話だ。

自分を表現するってそんなに気持ちいい事なんだろうか。僕は自己具体化する作業が嫌いだ。というか嫌いになった。昔はどちらかというと自己分析が好きで自分の事を深く知る事が人生において重要な要素だと思っていた。将来の事、自分の気性のこと、他人とどう違うか、そんな事ばかり考えていた。

あの頃の自分がTwitterをやるとプロフィール欄は好きなメディア、尊敬する人物、感銘を受けた書籍類で埋め尽くされていただろう。

しかしある時、自己表現や自分らしさを意識したり、言語化する事にものすごく徒労感を感じるようになった。というより卑しく感じるようになったのだ。

とても恥ずかしい、年ごろの青年にありがちな話をすると、僕はある時期ずっと文庫本のカモメのジョナサンを持ち歩く事を信条にしていた。本の内容に感銘をうけたからだ。本を持って歩いている事が自分に勇気をくれている気さえした。

思えば全ての行動原理を自分らしく定義づける事に没頭していた。靴下は白より黒。その方が自分っぽい。昼飯は安い食堂でラーメンライス。そういう生活こそ男を作る。靴は革靴。スニーカー履かない。どちらを選べばより自分らしいかという事に神経を配ってたと思う。なるべく派手なシャツを着てあごひげを蓄えて・・・という風な感じだった。

これでこだわりの強い伊達男の風貌になればまだ良かったのだが、ただの癖の強いとっつぁんぼうやにしかならなかった。そこまで僕にはセンスがなかったのだ。

それでもそれなりに楽しく生きてたつもりだったが、どこかで無理があったのだ。ある日二日酔いで目覚めて洗面台に立った時にその瞬間が来た。

髭を生やさない人には髭を生やしているのが楽だと思われる事もあるが、実はそうでもない。綺麗なあごひげのラインを保つためにカミソリで形を整えて、はさみで長さを揃えたり・・・とそれなりに気を使うのだ。

いつものように洗面台の上で髭を整えようとしたら猛烈にめんどくさくなった。しかし髭を整えねば自分のこだわりが死んでしまう。洗面所の前でしばし熟考したらある幻聴が聞こえてきた。

「早く髭を整えろ!」「こっちがはみ出てるから切るんだ!」

そう、髭の声だ。髭が僕に語りかけてくる。

そこで気づいたのだ。僕は髭を伸ばしたいから伸ばしていただけなのに、気づいたら髭の機嫌を毎日鏡の前でとっていたのだ。ばかばかしい。

僕は家にあった大きい剃刀で髭を全部そった。けっこう痛かったしちょっと血がでちゃった。

母親はよろこんだ。兄もそっちの方がモテると言ってくれた。友人達も違和感あるけどそっちの方が真面目そうに見えると言ってくれた。カモメのジョナサンはブックオフに売った。無理して着ていた服は全て捨てた。彼女はできなかった。

僕はようやく髭から解放されたのだ。

こだわりというのは生きる上での指針になるが、その反面しなやかさを失う。あの頃の後悔があるとすれば、髭にこだわる時間を使ってもっと周りの人に気に掛けた方が有意義だったのではという点だ。

この陳腐な経験から自分の言語化というのは結構危険だと思うようになった。自分はこうだと思い込んで発想を乏しくさせる。しかも自分はこういう人だ!と言った内容はこれから自分がする事に対して何も寄与しない。

自己ほど理解しがたくて曖昧な物はないと思う。変質的で流動的なのかもしれない。自分を理解するには二つの方法があって、一つは理路整然と言葉で整理する事でもう一つは実際に使って試す事だ。

社会人になって自分を使って試す機会が増えて随分この辺が楽になった。言語化されなくても感覚的に理解しているぐらいが僕の場合は良い距離感なのだと思う。

そんな事があって僕はSNSが苦手だ。また言語化した自分にとらわれるかもしれない。顎髭はいつでも僕の座を狙っている。そんな気がするのだ。

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