深淵ミキシング午前4時

 これを書いているのは午前2時なのでタイトルは大嘘である。

 脳みそがぐちゃぐちゃになった心地がしている。それは爆裂鬱のときの妙に凪いだ「消えたい」に似ているし、何もかもに無気力を抱く。明日、正確には午前9時には登校しなければならないがもう既に行く気がない。休もう。無理。胸を張って、張らなくても人間に紛れられる自覚がない。人間に紛れているのに紛れられている自信が足りなくて、でも授業は楽しいのでまるで人間のように笑っているから却って帰って死にたくなる。

 人間の言葉、感情というものは非常に難しくて、最近他人と自分という存在は違うのだと気付いた人間ほやほや赤ちゃんのため、何も言っても「これはエゴだ」という自覚がつきまとう。
 世の前提と自分の前提が違うことはとても悲しいし、視野を広くなんてそんな高等技術まだ持ってないし、誰かを責める気はなくてただ私にはそれしかない。私は私に見えるものしか見えない。それは他人から簡単に侵されるようで侵されたり侵されなかったりする。

 どの人間も平等に生きているだけで悪い。性善説を信じているのに表面上性悪説的思考回路を持っていることはまるで相反する宗教を信仰しているみたいだ。
 人は元々良いものであるが、学ぶにつれ汚れていく。良いものであるがそれは悪くないという訳ではない。穢れを知らないから悪くないように見える、無知は悪いことだが穢れではない。故に私は無知は悪いことだと一概に言えない。それは私にとって純で善に映るからだ。

 まあ、誰も悪くないし誰もかもが悪い。結論はそこだ。良くないよ、先生。

 無知な人が好きだ。やりやすい。同レベルでは息がしやすい。私は私を疑うことが出来ない、故に私は無知である。
 私は私を疑うことが出来ないから、だから私は常に世との齟齬を探して「悪い」としている。疑いとしている。私にとって孤独は苦ではないし、なんなら常にそうだ。私だって私を理解していない、把握していない、孤独の反対語は仲間であり、仲間はじゃあどう作るのかというと私は「私」と定義する。つまり孤独、あるいは私のことを120%理解し共感してくれる存在のことを「私、あるいは仲間」と呼ぶ。しかしその本質は孤独である。他人を受け入れられない技量と度量と心の狭い孤独感だ、孤独で傲慢な人間には仲間でさえ孤独の象徴だ。

 脳みそがぐちゃぐちゃになった心地がしているので、そのままに書きなぐっているのでたぶん意味がわからないと思う。私も読み直して「話飛び飛びでワロタ!」するんだと思う。

 といってもそろそろ思念が尽きるため、何もなくなってくるのだけど。まあとりあえず私は明日学校を休むし、悪と定義した仲間はずれに恐怖する。何故孤独を恐れないのに仲間はずれを恐怖する? それは、どこのコミュニティにも属せなければ死ぬからだ。寂しくて死ぬ、ではなく、郷に入っては郷に従わなければ普通に就職できなくて死ぬ。
 孤独を恐れているわけではない、私は社会の人並みに乗り切れず死ぬことを恐れているんだ。