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「窓ぎわのトットちゃん」と「総員玉砕せよ!」について思うこと

話題の映画『窓ぎわのトットちゃん』を、ようやく観られました!
はじめに書いておきますが、紛れもない大傑作でした!
「絶対見るべき」とか「後世に残すべき」とか言うのはおこがましいかと思いますが、観ようか迷っておられるのでしたら、今すぐ劇場へ走れ! でございます。

さて、こちらの作品、ご存知のとおり、黒柳徹子さんの自叙伝的なベストセラーが原作です。

鑑賞後、映画館の売店で即購入しました!

という訳で、この大ベストセラーを未読で劇場へ行った者の感想を、つらつらと書いていこうと思います。

※若干のネタバレに当たる内容が入るかもしれません。ご注意ください!

【小林先生とトットちゃんのご両親】

映画前半は、ちょっとお転婆すぎるトットちゃんが転校した「トモエ学園」での様子が描かれています。
小児麻痺、(作中では明言されていませんでしたが)小人症、そして特別に落ち着きのない子……。
そんな「他とは違う配慮が必要な子」が集まるトモエ学園の校長である小林先生。この方の教育方針が、当時としては斬新すぎるものでした。

  • (一定のルールを定めながら)気の済むまでやらせる

  • けれど、本当に危ない時は断固として止める

  • 子供に劣等感を抱かせないよう、さりげない会話にも気を配る

子を持つ親としては、グサグサと突き刺さりまくりでした……。
対して、トットちゃんのご両親。
当時としてはかなり裕福な家庭で暮らされている、ごく普通のご両親です。
ですが、このごく普通・・・・が、親として注意しなければならないところかと感じました。
中でも印象的なのが、「子供が悲しむ可能性のあるものを先回りして排除する」場面。いわゆるヘリコプターペアレントですね。
やってしまいますよね……親があとで面倒な事になるのを分かっているから。
しかし、それをやらせるのが小林先生の教育! 徐々に、ご両親も大らかにトットちゃんに寄り添うようになります。

【泰明ちゃんとその一家の考察】

作中で、ヒロイン(?)的な立場で描かれるのが、小児麻痺の泰明ちゃん。
右足と左手が不自由な男の子です。
何事にも消極的な彼が、トットちゃんに振り回されながら成長していく過程で、一番印象深かったのが、泰明ちゃんの母親。

……さて、ここから深読みします。

このご一家、相当裕福なご家庭のようです。
しかし、家族に関する描写が母親しか出てきません。
それはなぜか。
映画の後半、トモエ学園の子供たちが差別を受ける場面があるのですが、それを踏まえると……。
泰明ちゃんは、裕福、つまり社会的地位のある家柄の子だからこそ、かなり辛い立場だったのではないかと思いました。
障碍者として、家の中に居場所がなかった。
そんな彼を産んだ母親も、また然り。

そう考えて泰明ちゃんの事をもう一度考えると、本当に切ないです。
そんな彼にひとり寄り添う母の思い。あの涙に一層共感します。

【生活に浸食してくる戦争】

そして、この作品を語るのに欠かせないのが、太平洋戦争。
昨日まで当たり前にあったものが、徐々になくなっていく描写に胸が詰まります。
自販機の中のキャラメル、駅のおじさん、お弁当のおかず……。
事情を知らない子供の視線だからこその、「何かがおかしい」という色合いが増していくところに、戦争の本当の怖さを感じました。

ですが、大人にとっては、それが当たり前なのです。

その足りなさを押し付けられている子供たち。
自分たちが我慢をすれば、戦場の兵隊さんたちがいっぱい食べられる……。
その言葉の裏側にあったのが、つい最近読んだこの作品でした。

水木しげる先生ご本人の、戦争体験談を描いた漫画。
ひたすら理不尽でひもじい、リアルすぎる兵隊生活が描かれています。
トモエ学園の子供たちの我慢は、戦場へは全く届いていなかったのです。

戦争とは、一体なんだったのか。
子供たちの我慢は、何のためにあったのか。
色を失っていく街。言葉が消え、歌が消え、多様性が消える。
家族を、家を、夢を、全て失う事が当たり前になってしまった。

駅のおじさんは、きっと丸山二等兵のような経験をしたのでしょう。
本作で描かれていない部分を水木先生の作品で補完すると、戦争というものの解像度がぐんと上がる気がします。

【作品に込められた思い】

「窓ぎわのトットちゃん」そして「総員玉砕せよ!」。
戦争を経験された方が記された、このふたつの作品に共通するのが、

理不尽に対する怒り

だと、私は思っています。
トットちゃんは、決して悲しんでいないと思います。
手足をもがれるように大切なものを奪われていく痛みのために叫んでいる。
そんな気持ちが伝わりました。
「ほら今泣くシーンだよ」という演出なしに、極めて淡々と伝えられる事象の羅列……まさに戦争の渦中に身を置いたからこその感覚なのだと、私はそう思いました。

……しかし、そんな理不尽は、なくなったのでしょうか?
インターネット、そしてSNSの発達によって、似た状況になってはいないでしょうか?
以前までは聞き流されていた個性的な意見が炎上する。
写真を晒され身元を特定され叩かれる。
それを恐れて、本当の自分を出せないでいる。

それも、一種の理不尽ではないでしょうか。

「多様性」――
人の心に余裕がなくなると、真っ先に失われるものです。
今の世の中に、トットちゃんや泰明ちゃんを温かく迎えられる場所があるでしょうか?
効率化の先にあるものへの警鐘でもあるのではないかと、私は感じました。

このような素晴らしい作品に出合えた事、そして、制作、ナレーションとしてこの物語を伝えてくださった黒柳徹子さんに、心より感謝いたします。

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