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たこ満の話

あなたがこのインターネットの広大な海の中でもしこの記事を見つけ、かつクリックをしたのだとしたら、あなたはきっと、ソーシャルディスタンス考慮前の世界のどこかで私と接触をしたことがあるに違いない。

たこ満とは私の実家の所謂郷土のお菓子屋さんの名前である。

きっと日本にはこういうお菓子屋さんは無数にあって、そこに住んでいる人々の各種冠婚葬祭+クリスマスケーキとバレンタインスラッシュホワイトデー需要に毎年応えているであろうことは想像に難くないのだけど、いかんせん私が故郷として認識している地理的空間は実家を中心に半径15キロ程度のものなので、もしかするとたこ満の知名度は私自身が思っているよりもずっと高いのかもしれない。

でも大学生の時分に偶然何かで一緒になった同県出身の人に(いま思えば都会に出たての地方出身者の、心細さと同族意識とが入り混じった、側から見ると淡い疎外感を催させる、ナイーブに自己中心的な話し方で)たこ満のことを尋ねたらあっさり梯子を外されたので、私はまた一つ自らの世界の狭さを知り、そしてまた親密度がそれほど高くない集団の飲み会で、このような準排他的でよしんば拾われたとしても著しく拡がりも実りも乏しい話題を振ることの愚を悟ったのだった。

それはともかくたこ満のお菓子である。

いつも仏壇に備えられており子供の頃は「チッたこ満しかないのか。コンソメパンチのポテチが食べたい」などと心の内外で毒づき、でも結局全部食べた。家族は甘いものがそんなに好きではなかったし、公平にいって全体的に大味でやや甘味が過ぎる傾向がある(※感じ方には個人差があります)たこ満のお菓子は当時夜9時近くまで部活をやっていた私にとって華は無いけどイケはする、そんな存在感であった。

大学を出て東京で働き始め、海外での生活も経験した。たこ満が供えられた仏壇は日常から遠い非日常になった。人間は非日常を糧にして日常を耐え忍ぶ生き物であるから、赤坂Topsだけではやはり駄目なのだ。まぁTopsが駅前で出張販売してるのを見つけたら必ず買いますけど。

今年は一連のコロナウィルスに纏わる件もあり帰省もせず(実は仕事柄お盆休みがなかったのでお盆に実家に帰る習慣自体がそもそもない)、とはいえせっかく日本に戻ってきたということで両親がたこ満のお菓子を送ってきてくれたのである。

久しぶりにたこ満のお菓子の箱を開けた。たこ満のお菓子は贈答目的での購入が多いためか箱は頑丈な厚紙でできていて、ちょっと高級感がある白に近い薄い色の包紙が使われている。紙には筆字様の文字で郷土を讃える内容が書かれ、(おそらく)郷土の草木が描かれている。もう何十年もこんな感じである。もしかしたら色々変わっているのかもしれないが、もはや非日常になってしまった私の目からすると、変わらない(あるいは変わって欲しくない)たこ満のお菓子の箱なのである。

だからなのかもしれない。一部のお菓子の袋のデザインがちょっと“それらしい”デザインになっていて少し悲しい気持ちになった。“それらしい”というのは、広告代理店に依頼してマーケティングをして作ったと思しきデザイン、という意味である。

このお菓子は残念ながら私を非日常の世界に連れて行ってはくれない。なんの捻りもない半透明の茶色い袋に不可思議なフォントで書かれたあんじぇんぬという文字だけが、私をそれが日常だった頃にほんの数分間だけ戻してくれる。周囲の他人は皆当たり前にたこ満を知っていて、故にたこ満の存在なんか話題に上りようもなく、そしてその数年後に自分がそんな事を話題に上げることになるなんて、露ほども想像していなかったあの頃に。

あんじぇんぬのくるみ餡はあの頃と同じ。大味で甘い。紛れもない。私はこの味で育ってきたのである。それが何処か他の地方の別のなにかと似てるとか、そういうことではないのだ。

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