「好き」って200色あるねん。

恋バナが好きです。
とりあえずしときゃーええと思ってます。
特にダンサーの方々。
みんなマジメにダンスの話しすぎ。
とりあえず恋愛対象のタイプを左から述べよ。
話はそっから。

すみません僕もダンスの話とか好きなんですがあまりにもずっとダンスの話をマジメにしてる空間にいると
「もーええから恋バナしよ!」の発作が出てしまいます。

これはもしかしたら少数派なのかもしれないけど
僕は自分の踊りの話とかって少し恥ずかしい部分とか誰にでも話せるモノでもない部分があります。
踊りに関する価値観とか思想ってそんな気が無くても他の人を否定したり刺してしまう危険性があると思う。
少なくとも僕の思考は。
だから言葉もめっちゃ選ぶしめちゃくちゃセンシティブな内容やと思ってて深い部分は気の許せる人にしかできなかったりするし、基本的に周りの人の意見に対しての意見でしか踊りの話をしない。
自分から自分の踊りのことを話すってなるとだいぶ人と場を選ぶ。
初対面でも昔からの友人でも感覚的にいけそーって人にはできる。
あと自分のWSでは当たり前やけどめちゃくちゃする。
noteにも色々と普段から言ってないようなことは書くけど、これもWSも自分の理解を深めるために言語化が目的でやってるし、わざわざnoteで言語化をやるならできるだけ曝け出さないと意味が無いと感じてるから書いてる。
そしてnoteなんて読んでる人はめっちゃ少ないと思うけどせっかく読んでくれたならそんくらいの話な方がおもろいかなーとも思う。
ぶっちゃけそんな大したことでもないやろーし
「知らんがな」って言われそうやけど僕にとってこれくらい慎重に扱ってしまう話というのを先に書いておきたい。 

ただ、色々な踊り手さんとかと話してる肌感として多くの人にとってはサラッと自分の思想を曝け出せるモノなんかも知れへんなーと感じます。
カッコいい。。
堂々と誰にでもそういう思想をサラッと言える人たちをすごいと思う。。
月並みな言葉で恥ずかしいけどすごい。

で、さっき書いた僕が思う「踊りの話」の感覚って「恋バナ」に近いんじゃないかなぁと思う。
少し恥ずかしいような全部を全部言えないようなもの。
もちろん恋愛観とかを恥ずかしがらず言える人は踊りの話をできる人と同じくらいすごいなぁとは思うけど
一般的に「踊り」より「恋愛」の方がパーソナルな部分に触れる面積が広い気がする。
僕的にはどちらも一緒くらいやけどできれば話してる相手も多少の恥ずかしさであったり後ろめたさみたいなモノを感じながら話す方がフェアじゃない?と思う。
言い方変えると同じくらいリスクを背負って話したい。
こっちだけ恥ずかしいのはなんか不公平や。
やからどうせセンシティブな内容を話すなら恋バナしよーや。
となっちゃうんですね。
できるなら踊りの話でお互いの核みたいなものに触れれる瞬間が有ればめちゃくちゃ嬉しいんですがやっぱり人を選ぶこればっかりは。


前段が長くなりすぎちゃいました。
「好き」の種類について書こうと思ってたんや。
先に言うとくと今回落ちのようなモノは無いかもなんですが思考の流れの端っこに引っ掛かって渦を巻いてるのでツラツラと書いていこうと思います。

恋バナがなんで好きかっていうとその人の恋愛観とか恋愛経験って人間性が滲み出てることが多いから。
自分では思っても見なかった自分が出てくることもたくさんあるし、そーゆーのがめちゃくちゃ人間らしくて僕は好きです。
自分を客観的に観れてて自分の理想に突き進めるような人もいれば、
「好きになった人がタイプ!」ていいながらなんか好きになる人のタイプ一緒な気がしたり、
「◯◯な人が好き」って言うてたかと思えば「ぜんぜん違うやん!」て人と付き合ってたり。
踊りでも「いつもはこうする身体の流れがあるけど楽しくなってやっちゃったーー全然違うやつーーー」みたいなんとかがめちゃくちゃ見てて好きなんでそーゆー人間らしさって惹かれる。
あとこれは傷つく人が居るから良い思考ではないと思うけど浮気とかしちゃうってのも僕は人間らしさの表れと思ってしまう。
「浮気したらダメ」なんて小さいときからみんなずっと思ってるはずやのにやってしまう。
めちゃくちゃ本能的やなぁと。
自分がそんな大それたことをできないからこそ生物としての純度を感じる。
そしてどこまでいっても結局その人の恋人しか知り得ないその人の顔というのが有るのも魅力的な部分だと思う。
いつもしっかりしてるあの子も恋人の前ではグズグズかもしれない。
どんなことを言ってても想像の余地がある。
その奥ゆかしさが恋バナにはある。

その人のことに興味がなくても恋愛観みたいなものは多少は面白みがあると思う。
人が持つ「好き」の感情にはその人の大事なものが詰まっているのだ。

「好き」には沢山種類がある。
まず僕が思いつくのはやっぱり「恋愛」の好き。
こんだけ恋バナの話しといたらそらそーです。
僕には異性に対する恋愛感情があってその人を知りたいと思うし触れたいと思うし一緒にいたいと思うし思うとドキドキするようなやつ。
次に思いつくのは「友愛」の好き。
友達のことは大好きです。とゆーか世の中好きな人かどうでもいい人しか居てない。
その人を知りたいと思うし一緒にいる時間も大事だけど、触れたいとかドキドキするような感覚にはならない。
同じ好きでもなんか違う。
この前大阪で仲の良い女友達と飲んでてそれこそ恋愛の話をしてたら

「お前の男はめちゃくちゃお前のこと好きなるけどホンマにその感覚わからんなぁ。笑」
「いやお前も私のこと好きやろ?笑」
「いや好きって200色あんねん」
「アンミカ笑」

こんな感じの会話になった時にふと思ったのが、
「確かにその友達のことめっちゃ好きではあるけどなんで恋愛的な好きとはまた違うんやろ。」
ってことです。
これって「当たり前やろ!」て感じやけど上手く言葉にできない感覚と思いました。
「好き」を知ることでやっぱりその人のことをもっと知れるのではないか。

他にも好きは沢山ある
「好きな食べ物」
僕はパン、コーヒー、カレー、オムライス、蕎麦が大好きです。あと秋田に来て食べたはるかとゆー品種のりんご。うめすぎた。
この好きはその人の人間性とかがあんまり出るものではない気がする。
あとそいつについて知りたいっていう欲求より食べたいって欲求が勝ってる。
そういえば
「恋バナが好き」
の好きもある。行為に対する好き。
これはその行為によって得られる楽しさとか感情が好きってこと。
これは趣味とかにも言えるのかも。
ただこれも人間性の核には遠い気もする。

どんどん落とし方が難しくなってきましたがオチが無い話をしたって良い。

色んな好きがあるけどやっぱり恋愛的な好きはその人がより色濃く滲み出てるような気がする。
ただ、恋愛に興味が無い人ももちろんいる。
でも大なり小なり人は何かに対して「好き」と「嫌い」があると思う。
「無関心」な事柄も多いと思うけど。
その中でも僕はその人の熱量が桁違いな「好き」に惹かれている気がする。
ただ、それをもっと考えると「好き」なんて言葉のもっと奥底の本能的な部分で人が欲してしまったり行動してしまうような、心が動いて身体が動いてしまうようなモノが人によってはあると思う。
中には自分の中のそれにまだ出逢えていない人もいるけど。
僕で言ったら踊りに出会ってなかったら人生まるで違っていたわけで。
もはや自分にとってそれが好きかどうかもわからなくなったりもする。
生きる上で何より大事でそれが故にそれによって翻弄されたりする。
でも自分の中で揺るがないモノである確信もある。

狂おしいほどに入れ込んでしまうような。
倫理観や理性も時に外れてしまうような。
言葉にできるようなできないような。
生物としての欲望の根源のような。
自分でも知らない自分のような。

踊りにしても表現にしても
その人の中身がぶちまけられたような、溢れ出しちゃったような、零れ落ちるような、抑えきれないような、正直で純粋なモノが僕には輝いてみえる。
それをこそ愛していようと思う。
言語を超えた先にあるそれこそ表現の醍醐味なんじゃないだろうか。

だからそーゆーのが比較的見やすいから
みんな僕と恋バナしてね。
踊りとか表現の話でそこまでいけるならなおよし。
恋愛じゃなくても。
めちゃくちゃに狂っように愛おしい「好き」を教えてよ。
そーゆーの無い人。
僕は好きですそんなあなたが。
そんなあなたも。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?