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【読書】純粋理性批判入門を読んで

MBTI(というかユングのタイプ論)に関連した情報で、ユング自身が本書に感銘や啓示を受けたと語る記述があったので、だいぶ前に流し読みした本ですが再読してみました。

純粋理性批判とは

このタイトルで語られる理性とは、世間一般の本能の対比として扱われる理性とは異なり、より広義の意味で認識全般のことを示しているようです。

つまり純粋理性批判とは、純粋にものごとを認識するということに対しての批判ということになります。分かりやすくいうと、巷で言われるあるがままに、物事をそのまま見る、まっさらな気持ちでという概念に対しての批判です。

認識とは何か

物があるから人が認識するのではなく、人が認識するから物がある

一見すると意味不明ですが...

例えば机の上の紙とペンを主体とした場合、机の上に紙とペンが置かれているから「そこに紙とペンがある」と認識するわけですが、それに異を唱えたカントは「人が紙とペンがあると認識するから物はそこに存在する」と表現しています。

これでも意味不明ですが、

極論をいうと、もしこの空間が暗闇だったり、あるいは当事者が目の見えない人だった場合、この紙とペンは認識ができないわけであり、その人からすれば存在しない物(あるいは存在を認知できない物)になるわけです。

つまり今回の例では、五感のなかの視覚を用いることにより、紙とペンを認識したために物質はそこに存在しているという解釈になります。

もっと視野を広げると、

例えば晴れた日に森のなかを犬を連れて散歩をしている人が、ベンチに腰かけて爽やかな風を浴びたとすると、普通の人は心地良い気分になるかと思います。

ただもしそこで近くに犬笛を吹いている人がいた場合、人はその周波数を聞き取れず心地良い気分に没頭していられますが、飼い犬からすれば不快極まりない状況ということになります。

大雑把にまとめると、所詮ものの認識というものは、上記のケースでいうと人間の感覚に基づいた認識しかされておらず、決してその空間、その物質のありのままの姿を私達は捉えることができないというわけです。

経験論と合理論の応用

カント以前の哲学は、

人は生まれたときは白紙の状態で経験を積み認識を高めていくと語る経験論(ジョンロック等)と、

そうした感覚の蓄積では語れない要素こそが認識に大きな影響を与えるという合理論(ライプニッツ等)の二極化が起きていたそうです。

これに対してカントの哲学は、ある意味中間的な、両者の核心的な部分を追求したものが土台になっているようです。

感性、知性、理性、悟性

カントは本書で感性、知性、理性、悟性などの言葉を使っていますが、日本語で私達が一般的に使うものとは意味が異なる部分も多いので詳細は割愛します。

簡単にいうと人は五感や思考力という生まれ持った身体的な機能に加えて、経験や記憶といった蓄積、教育や常識という知識、直感やイメージを使って有形無形のものを認識するわけです。

※MBTIやユングのタイプ論が好きな人はピンと来るでしょうが、ユングはおそらくこのあたりに着目してタイプ論の原型を作ったのかと思われます。

つまりカントとしては、禅的な思想などでよく言われる「あるがまま」にというのは、所詮は体裁的な取り組みであり、人はありとあらゆるモノ、時間、空間などの概念において個人的な、もしくは人間として限界のある認識しかできないというのが本書の主題になります。

書籍&動画紹介

昔買ったこの本を今回読み直しました。難解な原著を分かりやすく解説している...とうたってますがそれでも正直分かりづらいです。

続いてぴよぴーよ速報の動画もひとつ。

純粋理性批判だけでなく、カントの哲学を総評した内容ですが、相変わらず的を抑えて説明する天才だなと思いました。

普通にネタとしても面白いです。


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