見出し画像

本は閉ざされた空間であるということ

最近は漫画の無料アプリなんかも出てきていて、Amazonプライムでも読み放題だったり、雑誌なんかは特にwebコンテンツ化しつつある。読み上げてくれるものもあるし、本=情報の詰まったもの、としてどんどん開かれて便利になっている。

私は子供時代は読書少女で、とくに、アルセーヌ・ルパンが大好きだった。当時にそういう言葉はないが、"推し"ていたと思う。

子供向けの本が並ぶ図書館で、推理小説はわりと原作っぽい古めかしい装丁のものが並んでいた。子供向けのツルツルした本から、ちょっと大人ぶりたかったのもあると思う。それに、金田一少年や名探偵コナンが流行っていたこともあって、推理のトリックを考えたり誰が犯人かとかを考えていて、もっと推理ものを摂取したくなったのだと思う。

私の世界はアルセーヌ・ルパンでいっぱいで、緑の目の令嬢の話がすごく好きだった。もう内容は全く覚えてないのだけど。

本は"知られざる"コンテンツになりうる。シェアされて初めて知る、興味を持つような今の世の中で、そこにある本は誰かに手を取ってもらい全てを読まなければ理解されることがない。永遠に知られることもない。

どんなに中身が素晴らしいものでも、手に取った誰かが「これは素晴らしい」「こういう内容だから読んでほしい」と伝えやすくしなければ、広まることはないだろう。それは作家のくらしに関わるので、ある程度、伝えることをしなければならない。

でも本は、受け手を本来その空間に没頭させるためにあるものな気がする。情報だらけ、シェアだらけ、他人に存在を説明しアピールしなければないものも同然な世の中で、そっと逃げ場になるのも本の世界だ。

決して誰かに語らなくとも、誰かに良さを説明せずとも、自分がその空間の魅力を知っていて、ふとしたときに開けばいい。スマートフォンや電子書籍ではない、閉ざされた空間だからこそ"便利"。便利なのはデジタルだから、ではない。人間にそのスタイルが一番都合がいいから"便利"なのだ。電子書籍は情報を得ること、スペース管理にとても便利だが、一冊の本に入り込む没入感は紙をめくる方が高まる。

とりあえず会話のために知っておかなきゃ、という焦りではなく、自分のため、自分の心のためのスペースとして活用すればいい。

映画や本は本来、他人同士の会話で知ってるマウントや消費するものではなく、自分の栄養として蓄えるものなので、知らなくったって話が合わなくたって、本来閉ざされた"自分"のためのもので、自由な世界なのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?