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いい歳になりまして

先日、誕生日を迎えました。

36にもなると、年齢の記憶がなくなるもので、年齢欄を間違えそうになります。今年は特に誕生日に思い入れがなく、前日に「あ、明日誕生日じゃん」というのと、1ヶ月前に「そういえば来月誕生日か」でした。

年々、日にちが経つ体感が早く、時間が過ぎるのも光速に感じます。子供の頃は夏休みがあんなにも長く感じて、お誕生日は自分のも友達のもとても特別で、家族のものもものすごく特別なことのように感じていたのだけど、いまではわりと平日。だいたい毎日誰かの誕生日でだいたい何かしらの記念日です。

とはいえど、記念日というものはやはり日常の彩りのスパイスで、せっかくだから欲しいものを伝えてみたり、ケーキ食べてみたり、人に会ってみたりと、無色透明な日々にちょっと色が差します。その日限定にすると、大人だから都合もあるし、叶わないこともあるので、誕生月で祝うでいいような気もしてます。

36、年女

去年は35になり健康診断の項目も増え、いよいよ大人だと覚悟した一年でしたが、今年は年女でもあり、しみじみと「へー、36かぁ、いい歳になったなあ」と他人事に思えてきました。

世の中のお父さんたちが子供の運動会ではしゃいで怪我をすることは、若い時の反応速度で体が動くと思っているから、タイミングとかがあわなくて起きるそうです。

自分も頭と体の不一致を感じていて、周りで体を鍛え始めている人が増えたこと、また、ちょっとした動作での息切れや筋肉痛。なにかやらねばならぬときに身体が動かないというあの切なさ。

若い時に戻りたくはないけれど、若い時って元気だったんだなあと沁みるわけです。

メンタル強者と消える反骨精神

自分の中にあった反骨精神みたいなものは、理由がわからなくて理不尽に思えていたから怒りが湧いていたのだなと思うことが増えました。

今では、なんとなくいろんなものが見えてきて、いろんなつながりを感じるようになってきて、そうなると反骨精神がゆっくり成仏していって、気になるポイントを潰すことができる、一発で狙ったコバエを潰せるみたいな謎の強さが身についてきました。

これを大人というべきか、メンタルが強くなったというべきかはわからないけれど、ある程度のことであればいけるかもしれないな&私ができなくても誰か得意な人がおろう、という精神状態です。もうパンクでもロックでもないよね。

魚を捌けるようになりたい🐟

スペイン語を初めてみたり、歩くことを習慣にしたり、湯船に極力つかるなどのルーティンができてきて、仕事は仕事でいろいろ力が足りないように思いつつも、気心の知れた環境で引き続き働けており、自分の性質を疎まれる感じはなく、たまに死につつ生きて働いています。

そんな日々の中で唯一心が苦しくなることがあります。それは、魚屋さんで鮮魚が安く売ってる日など、魚丸ごとを一匹見かけたとき。

そのとき、「わたしはこいつをさばけないのだ。わたしは切った形、誰かが切り揃えてくれないと魚を食べることができないのだ。魚を美味しく食べたいのに適当に焼くこと、適当に煮ることしかできない」とキュッと心が締め付けられます。

なぜ魚に無能感が刺激されるのかは全くわかりません。お肉の解体は大きさもあるし、今でも十分美味しくいただけていてコンプレックスを刺激されないのだけど。

というわけで、大人なのでやるべきことはたくさんあるから、36歳は「魚さばけるようになればOK、食材無駄にしなければなおOK」で行こうと決めました。今は十分ハッピーね。

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