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【エッセイ】はじめから、数字に呪われている。

こんばんは。


「時計読めるんだ~。すごいね!」

幼稚園児のとき、よくいわれた言葉。

「今何時?」と聞かれたら、私は「○じ○ふんだよ」と答えていた覚えがある。

”11時25分”をしめした幼稚園の時計。
それを指さした記憶が残っている。
はっきり覚えているわけではないけれど、そのときの私は
「いま、11じ25ふんだよ」
と友達や先生にに言っていたのだろう。

今や時計をみるなんて、当たり前のこと。
それでも、このときは違ったはず。

私はこの時から、すでに「数字」に囚われていたんじゃないか。

今になって、そんなことを思う。


私が時計を意識するようになったのは、おそらく年中。
年長のときには、すでに1の位までわかっていた。

実際、「時計をみれる幼稚園児」は珍しいことではないと思う。
ただ、私は誰かに教えこまれたわけではない。

それに、時計をみて正しい時間をいいあてたり、
「12じだからおひるごはん」
「2じだからおひるねのじかん」
「3じはんにはおかあさんがむかえにくる」
みたいに、時間軸でものごとを見ていた覚えがある。

幼稚園の風景を思い出しても、どこかしらに「時計」がある。

組の中で、私だけが時計を読めたわけではないかもしれない。
けれど、私にとって「幼稚園」と「時計」の結びつき具合は、かなり高かったほうだと思っている。

時計の見方を習わったのは、たしか小学校1・2年。
その前には、時計の「しくみ」をわかっていた。


時計が読めるなら、他のこともできてたんじゃない?
と言われるとそうではない。

文字の読み書きがそれほどできてたわけではないし、習いごとのピアノも上手に引けなかった。
古いフォルダを漁れば、ぎこちない「きらきら星」の録画が出てくる。


たぶん、小学生になって「均等な学び」を得ると、1人1人の差は小さくなる。
それまでは、それぞれの能力が発達している、いや「あらわになっている」ということなのだろう。

文字を読んだり、書いたり。
ピアノが上手に引けたり。

私の場合、それは「数字の認識」だった。


思い返してみれば、このときから社会をめぐりめぐってカタチにしている「数字」を認識していた。

つまり、すでに「数字の呪縛」に囚われていた

「すべては遺伝子のシナリオ通りに。」……なのかもしれない。


それをもって小学生で『時計と時刻』を学んだ。

時計のしくみわかってるんだから、かんたんでしょ?
その通り。

でも……


……算数のテストは95点だった。


1つだけ、直せないものがあった。

”15分”を”13分”と書いてしまう、よくわからない癖があった。


「なんで、13分って書いちゃうんだろう」
この理由はわかっていた。

時計が”15分”をしめすとき、長い針は”3”を刺すから。
それが混同して、”13分”となる。

これだけ。

実は、時計が読めるようになったときから、この間違いをよくしていた。
わかっていても、しばらくは直せなかった。

ただでさえ謎な間違いなのに、”13”なのだから不吉である。

2年生の終わりくらいには、もう間違えることはなくなった。
今はもう心配ない。

これも、ある意味「数字の呪縛」だった。

”13”の呪縛から解放されるのに、3年以上もかかったのである。



私たちにおいて、数字は切っても切り離せない。
この社会を測るものさしも、構築されるプログラムも。

もちろん、数字だけじゃ測れないものもあるし、見えてこないものもあると思う。
ただ、分解してしまえばそれも「数字の集合体」なのかもしれない。

その事実にうんざりすることもある。

数字が生きる上での「基準」そのものになっていく。
これは絶対に揺るがない。

私が「価値のない数字」を嫌うのも、「意味のある数字」を求めるのも、このせいなんじゃないか。


私が呪縛にとらわれたのも、こんな考えに陥ってしまうのも。
すべては、遺伝子のコードによって紡がれた「数字」のせいなのかもしれない。





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