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「9年後の町 震災と原発事故を経て」公募インタビュー#13

〈純さん(仮名) 2020年7月下旬〉

純さんは東日本大震災・福島第一原子力発電所事故から9年余り経つ今、地元の現在の状態などについて話せたらと、応募してくださいました。

※個人的な経験と見解を話したものです。
※インタビュアー田中の発言の前には──がついています。

震災から今まで 純さんの大まかな足どり
2011年3月11日 
東日本大震災。当時中学2年生で、福島県の海沿いの町に住んでいた。2軒あった家のうち無事だった方の家に避難。

震災から数日後
福島第一原発事故により、住んでいた町全域が緊急時避難準備区域に指定され、両親、祖父母、親戚とともに車で家を出る。数日かけて県南の避難所にたどり着き、1ヶ月余り避難所生活を送る。避難所近くの中学校に転校。
避難所生活の後、その町の団地で4ヶ月ほど暮らす。

同年8月半ば
両親とともにいわき市の仮設住宅へ移る。いわき市の中学校に二度目の転校。高校卒業まで仮設住宅で生活する。
※地元の町は2011年9月末に避難区域解除。

2015年 大学入学と同時に仙台で一人暮らしを始める。両親は自宅へ戻る。大学卒業後、仙台で就職して現在に至る。

地震が起きて

純さん 話しづらい内容というか、人に聞かせづらい内容なので考えあぐねていたんですけど、こういう機会(※公募インタビュー)があるということで、お話しさせてもらおうかなと思って応募させていただきました。

 震災の物的な被害とか影響についてはいろんな特集が組まれたり、いろんな人が発信しているので、今日はその後の話というか、震災が起きて復興していっている今の状態とかを話せたらいいかなって思っています。

──純さんは震災が起きた時、被害が大きかった地域にお住まいだった?

純さん そうですね。津波や地震などの震災被害だけでなくて、原発事故の被害もあった地域です。

──地震から少し経って第一原発の事故が起きて、でしたよね。

純さん 最初のうちは地震だけだったんで、家も2軒あったうちの1軒は無事だったので、そっちでほぼ避難生活みたいなのをしていました。そして原発の事故が起きたってなって初めて、慌てて避難して、って感じですね。それまではけっこう余裕があったんですけど、そこからが大変でしたね。

──町を出てどちらに行かれた?

純さん 県南地方に行きました。あの時、とにかく電話が何日もつながらなくて、やっとつながった知り合いに県南の方ならまだ避難所に空きがあるっていうのを親戚が聞いて、車にいろいろ荷物を詰んで行きました。

──避難所の空きを自分で調べないといけなかった?

純さん 住んでいたところからそのまままっすぐ行ける(避難区域外の)市の避難所は既に、元々の住民と避難してきた避難区域の人たちでいっぱいになってて。避難所自体も被害を受けていて設備があまり良くないところもあり、できるだけいいところに行くなら自分たちで情報を集めないといけませんでしたね。

──空きのある県南の避難所に行くまでに、家を出てから数日経っていた?

純さん 家を出てから…2日は経ってますね。家を出て1回車中泊してるので。県南に行くには山道を通らないと行けないんですが、その山道もけっこう時間がかかりました。みんな考えることが同じで渋滞が起きてて、普段なら長くても2時間で着くところが3〜4時間かかりましたね。

──その間食糧などは大丈夫だったんですか?

純さん 食糧はまあまあ…いろいろ持ってきてはいて。水は断水直前まで頑張って貯めていたので、その水を持ってきたりできていました。ただもう、後半はお菓子ぐらいしか残っていなくて、年とった祖父母はかわいそうだったかなって思いますね。

──ご両親とご自身とおじいちゃんおばあちゃんで避難された?

純さん けっこうな大人数で、両親、私、母方の祖父母二人、父方の祖父母二人、あと親戚二人。車4台全部出して、並んで行って。

──声をかけあって、一緒に避難しようと?

純さん はい。

──県南の避難所ではみんなそろって入れたんですか?

純さん まだ空いてて、なんとかみんなで入れました。避難所は1ヶ月ちょっとぐらいいた感じですかね。

──純さんはその当時はおいくつ?

純さん 私は中学2年生ですね。3月だったんで、4月から3年生という時でした。

──元々住んでいた町が避難解除されたのはいつ?

純さん 解除自体は、私の地域はけっこう早くて、確か年内には。2011年の内には確か解除されてたかな。夏頃には一時帰宅とかもしていた気がしますね。(※2011年9月30日に避難区域解除)

──解除されてからは、純さんはご自宅に戻られた?

純さん 両親といわき市の仮設住宅に住んでいました。ちょうど受験生だったので、学校の兼ね合いもあって。祖父母や親戚は地元の家に帰りましたね。

 原発事故の影響を受けた地域の学校はほとんど休校しちゃっていたので、いわき市の学校しかほぼほぼない状態で、中学は転校せざるを得なかったです。2015年の高校卒業までそこに住みました。(※中学校の転校は二度。一度目は避難所生活を送った県南地域の中学校に。二度目にいわき市の中学校へ)

 あとは住みやすさとか生活の便利さという点でも、いわき市は地域の中では過ごしやすかったので。

──住みやすさっていうのは、地震とか原発の影響下においてってことですか?それとも元々?

純さん 元々、っていうのもあるし、一時帰宅の時にすぐ帰れるんですよね。車で北上すれば自分の町に行けるので、周りの原発事故の被災者もけっこういわき市に住んでいましたね。

 そのあとは私は仙台の大学に進学して一人暮らしを始めて、両親は私の一人暮らしと同時に地元の実家に帰りました。

──元々住んでいた地域は、年内に避難区域を解除されて、放射線の影響は大丈夫だったんでしょうか?

純さん 放射能による汚染はあったにはあったんですけど、風向きの影響もあって私の地域はそんなに大きな影響はなかったので、一通り除染をした後に解除ということになりました。


※参考ページ

震災・原発事故の影響

──体調などにお変わりはなかった?

純さん 放射能の影響というのはまったくないんですけど、震災全体の影響については、ちゃんと病院に行ったわけではないんですがおそらく私にもちょっとありますし、特に祖父母とかは避難生活が長くて体調を悪くしたり、母親は震災後のいろんな手続きや祖父母の介護があったりで精神的に参ってしまったいうことはありましたね。それはわりと今でも続いている影響ではあるのかなと。

 私の不調というのは、身体的なものというよりはやっぱり精神的なことで。地震の映像とか津波の映像とかは見れなくなり、そういう表現が入った映画、テレビ番組、アニメなどの創作物は受けつけなくなってしまいました。
 あと速報の音が。速報の音は誰でも苦手だと思うんですけど、あれも本当にだめですね。スマホとかたまに鳴るんですけど、通知オフにできるならしたいぐらいの感じです。

──怖い気持ちが湧き上がってくるような感じですか?

純さん そうですね。そういうふうになって、体が一瞬固まっちゃいますね。緊張状態からはすぐに戻るんですけど。

──住んでいた町では津波の被害も?

純さん 津波の被害もありまして、家屋が流されたとかはあったんですけど、亡くなった人は少なくて、町全体で一人二人とかだったかなって。

──地震があってから、1ヶ月の避難所生活のあと団地、仮設住宅に移られ、非日常の時期が長く、つらかったのでは…

純さん そうですね。それに、ご多分にもれず私たちも風評被害を受けたというか。避難してから中学校も転校せざるを得ないので転校したんですが。けっこう私、特殊な苗字なので、どこから来たってすぐわかっちゃうんですよ。原発事故の影響が大きいところから来たっていうのがわかっちゃうから、(一度目の転校先では、本名を伏せて)母親の旧姓を使っていました。

 あと、保険証には本籍、地元の住所が書いてあるんで、病院とかで保険証を見せると一瞬ギョッとされるとか。そういう細かい積み重ねみたいなのがけっこう、小さな、まあ差別まではいかないですけど、風評被害に近いものがあったかなって。

──ひどいことを言われたり避けられたりとか、そういうことをされた人も?

純さん ざらにあったみたいです。他県に行った人だと余計に、福島から来たというだけでいろいろ言われたりした、っていうふうに聞いてますね。

──県外に出ても福島から来たっていうことで(風評被害が)あるし、県内であっても、原発に近い地域の人は特別な目で見られたと。

純さん そうですね。福島県内だから大丈夫とか何も言われないということはなかったですね。

──中学ではお母様の旧姓を使われて、どこから来たのかはわからないようにして過ごしていた?

純さん でも多分みんな言わないだけで、察してはいましたね。ピンポイントでその時期に来る子って言ったら原発事故被災の当事者しかいないから、察してはいましたけど、いい子達だったんで、そういうのも言わないで黙ってくれてて。(※一度目の転校先である県南の中学校でのお話だそうです)

──ご両親は、震災当時お仕事は?

純さん 母親は当時から専業主婦です。父親は元々原発に勤めていたので、事故以降はいろいろ…除染の作業の統括とかやったりしていたみたいです。仕事のことは内容が内容だったので、父も滅多に話さなかったですね。

──大変だったですよね。きっと。

純さん テレビで見たような防護服を着て作業をしてっていうのを実際にしていたようです。たまにぽろっと、お昼ごはんはこういう感じのレトルトで、とか、たまーにそんな話をして。大変そうではあったんですけど、仕事一筋の人なんで、やるしかないというか、父親なりのプライドみたいのがあって、ずっと続けていました。
 今はもう直接自分が現場に行くとかはしていないようですが。なんだかんだ上の地位には就いたみたいなので、今は。

──お父様はお体には影響は出ていないですか?

純さん 放射能の影響で、というよりは、そもそもの仕事量の多さによる腰痛とか、あとは震災直後の2011年の夏には熱中症になったとか、そういうのはありましたね。放射能によって、っていうのはなかったです。

──ご家族も原発に行くのはやめてくれとかそういうことは言わずに、それまで通り送り出していた?

純さん はい。みんな心配は心配だったんですけど、自分が行かないと他の人が行かないといけなくなるっていうので、県外に避難した人をわざわざ呼び戻さないといけなくなるとか、そういうのもあったんで、思っても言わなかったですね、誰も。

町の変容

──ご出身の町が変わってしまった、ということですが、どういうことですか?

純さん 地元は元々そんなに発展してる土地じゃなくて本当に田舎で、いわゆる「過疎」が起こり始めている地域だったんですよ。
 でも、東日本大震災と福島第一原発の事故があって、避難区域になりそれが解除されたあと、この9年間で道が整備されたり、新しく建物ができたりがたくさんあるんです。
 そういうのって、元々住んでいた人のためでもあるけど、同時に、原発事故の収束に向けて作業している人たちのために作られていて。作業員宿舎、長期で泊まれるホテルみたいな建物、トラックやバスが通るための道路とか。だんだん町に置かれている施設や設備の対象が変わってきてるんです。

──原発の事故の処理・収束の作業をする人のための町みたいに整備されている?

純さん 極端な話を言えばそうなっちゃいますね。その地域は、県外から来る人たちが入ってくるときの入り口…RPGで言うところの最初の街みたいなところなんですよ(笑)。作業員とか関係者の人たちが入ってくる最初の場所なんで、設備がいろいろ整ってきていますね。

 だから休みに地元に帰ってくると、あれ、こんな建物あったっけとか、あれ、ここ前は誰かの家じゃなかった?っていうことがあって、住んでいた人間からすると知ってる場所が変わってきてるなって感じます。

──他の場所に移り住んだ人も多いですか?

純さん おそらく半々ぐらいだと思います。

──移った半分の人たちが住んでいたところに新しい施設ができた?

純さん あとは農家が多いんですけど、もう畑をやらないから、というよりやれないので土地を売って、そこに建つとか。

──やれないというのは?

純さん 放射能が怖いというのもあるし、人によっては歳もとっちゃったしやる気力がないっていう人が多いかなって。

──だいぶ街並みは変わりましたか?

純さん 変わりましたね。駅とかも本当に古かったんですけど、駅の向かい側に駅ビルみたいな建物がドーンと建って、コンビニも増えて、スーパーも小さいものですけどできました。

──作業員の人は宿舎に寝泊りして、定住するわけではない?

純さん 定住は、うーん、してないんじゃないですかね。例えば作業員の方でも元々原発事故のあった地域に住んでて家を探しているとかだったら話は別ですけど、いろんな地域からいろんな人が来ているって感じなので。定住するのは本当に一部の人たちかなって。

──定住してはいなくても、町にいる人は増えた感じがしますか?

純さん いる人は増えましたね。車の量も昔に比べたら明らかに多いし、あとはコンビニとかも、働いている人が外国籍の方とかがたまにいらっしゃったりとかして、昔の地元だったらそういう方がいるっていうのはほとんどなかったので、だいぶ人も増えてだんだん様変わりしていっているのを感じますね。

──それを帰省する度に感じて、どういう気持ちになりますか?

純さん なんとも言えないというか、んー、率直に「ああ、こういうのもできたんだ、すごいな」っていう気持ちもあるんですけど、これ作ってもそんなに使う人いるかなとか、作業員宿舎とか作業員のためのホテルとかがどんどん増えて、今も作ってたりするんですけど、そういうのを見ると、もし事故が収束してもう作業員が必要ないっていう時が来たらそのホテルはどうなっちゃうんだろう、って思ったり。いろいろ便利になっていくのを素直に喜べないです。

──いつ頃原発事故を収束させるという計画は地元の人には知らされているものなんでしょうか?

純さん うーん、いや、おそらく知らされてはないですね。そもそも、本当のところはいつ終わるかわからないというのが正直なところだと思うので。早く収束させてくれっていうので早め早めにやっても、いや本当に大丈夫?って不安になる人が出てくると思うし、先のことはわからないですね。

本当の復興

──純さんは大学を卒業されたら地元に帰って就職とかそういうことを考えていらっしゃいますか?(※今大学に通われていると勘違いして質問)

純さん あ、私はもう大学は卒業して今社会人2年目で、仙台で働いています。
 地元には多分帰んない、かなー。地元には仕事はあるんですけど、種類がないので。あと、いくらいろいろ設備が整ったって言っても車社会なのは変わりないので、とするとやっぱり仙台はすごく便利なので、こっちで働き続けるかなって。

──宮城県も地震の被害が甚大だったと思いますが、仙台市は完全に復興しているような感じですか?

純さん 仙台市は、そうですね。仙台に来た時からもう全然、震災の爪痕を見ることはなかったですね。ずっと大都会というか。

──仙台にはもう6年住んでらっしゃるんですね。仙台では、震災を思い出すような映像や音がなければ、穏やかに暮らせてはいる?

純さん 特にそういうものを選んで見たりはしないので、(震災を思い出してつらくなることは)ないかな。

 でも、多分私だけじゃなくて震災で被害を受けた人全般に言えることだと思うんですけど、「出身どこですか?」と聞かれた時に、例えば「福島です」って言うと「福島なんですね。震災の時大丈夫でしたか?」と返ってくる。それは相手の方は親切というか善意で聞いてることなんですけど、こちらはちょっと身構えちゃうっていうことがありますね。福島=震災で大変だったところ、みたいなイメージがついてまわっちゃってるかなって。
 それは多分、他の、被害を受けた宮城や岩手の人も同じかなって。「宮城です」って言って「海の方とか地震大丈夫でした?」とかって聞かれたりとかしてると思うんで。

 それをやめてほしいっていうわけではないんですけど、例えば、どこにでも名物はあるから、そういう名物の話に変わっていったらいいかな、って。9年経ってもやっぱり震災のイメージは払拭できてないっていうのがあるので、そういうイメージをだんだんなくす…うーん、減らしていけたらいいのかなって思います。そうなって初めて復興したと堂々と言えるんじゃないかなって思いますね。

──「福島出身です」と言ったあとに「地震とか原発とか大丈夫でした?」って聞かれたら、今はどう返しているんですか?

純さん 今は、「まあうちのとこは大丈夫です」みたいに返しています。やっぱり詳細は伝えないですね。相手がびっくりするっていうのと、まずいこと聞いちゃったなっていうふうに相手が気落ちするのもなんか違うと思うから、「まあ大丈夫でしたよー」みたいな感じで軽く流すみたいな。

──詳しく知りたがる人に対しては話そうと思います?それとも勘弁してくれって感じですか?

純さん うーん、相手によりますね。親しい間柄、例えば知人・友人・職場の人なら、「被害はあったけど、」みたいな話はできますね。
 ただ、政治に関する自分の考えとか意見を言いたいがためにこっちから(震災の被害の話を)引き出そうとする人とかもいたので、そんなに親しくない人には話さないで、それこそ流します。「いや、そんなでもないですよ。それを言うならあなたの住んでる方も大変だったでしょー」みたいな感じで受け流す、っていう感じですね。

 もし(この記事を読んだ方が)震災被害に遭った地域の人と話す機会があったら、震災のことよりも、名物にはどんなのがあるの?とか、どんな地域なの?とか、そういうプラスな話を振ってほしいかなって思います。

高齢化と、震災による変化

──今回のインタビューは、読んだ人に伝えたいことがある、それとも自分の中での整理っていうのが大きいのでしょうか、いかがですか?

純さん うーん、伝えてほしい、周りの人にもちょっと見てもらいたいなっていうのはありますね。けっこう知らないことってあるかなって。
 特に震災の後の話って、例えば(テレビ番組などの)特集とかでもここまで復興して、地元であれば何人の人が帰還して生活していますとか言ったりしますけど、その内訳、そのうち子供は何人、そのうち若い人は何人いるとか、多分そんなに細かくは話してないと思うんですよ。本当はおじいちゃんおばあちゃんたちだけに近いのを、(帰還した)人数が多いからっていうだけで(総計だけを)言ってるかな、っていうのはあるので。

──高齢者の人の方が戻ってくる人は多い?

純さん そうですね。若い人は、地元に残る人もいますけど、大体は進学とかで一回地元を出る人が多かったですね。

──地元のお友達とは連絡はとられてるんですか?

純さん ちょこちょこ連絡はとってますね。でもやっぱり地元に住んでる人はいないかなー。いわきとか、他の地域や他県に住んで生活してる子がほとんどですね。

──戻ってこないのは、仕事の少なさが理由でしょうか?

純さん 仕事の種類が少ないからですね。地元で職を探すってなると原発関連の仕事だったり介護とかサービス業に限定されて、それ以外の仕事はなかなか見つからないのではと感じます。いわきであったり他の地域であれば、まだ幅は広いです。

──震災に関わらず、いずれは地元を出て就職していたと思いますか?

純さん そうですね、多分震災に関係なく、私もそうだし、大体の子は地元出てるかなって思います。

──今町にいるのは、高齢者の他は、作業員の方達が入れ替わり立ち替わりでいるのが主という感じですね。

純さん はい。走ってる車も知らない他県のナンバーが増えたりとか、すれ違った人の訛りとかで、あ、ここの人じゃないなっていうのがわかったりします。

──そういう状況は自然なことだな、仕方ないなと思いますか?

純さん 仕方ないな、っていう感じです。そういう人たちがいないと事故の収束は進まないし、わざわざ他県から来て頑張って働いてくれている人たちにいろいろ設備を整えてあげるのは当然のことだし仕方ないって思うんですけど、元々住んでた人間からするとなんとも言えない、複雑な気持ちになるかなって。実際、地元に両親とか祖父母が住んでいて、だんだん知らない感じに移り変わっていくなあと思うみたいで。

 昔、何かの本で読んで出てきたんですけど、ドラマでもあったかな、「テセウスの船」という、思考実験だか問題があって(※「テセウスのパラドックス」とも呼ばれる、同一性の問題)。
 船が壊れて、部品を付け替えていったら、元々あった部品が全部新しい部品に置き換わりました。さてそれは最初の船と同じものと言えるでしょうか、っていう(問い)。
 
 それが町で起きてる感じかなーって。だから、これから先自分たちの町がどうなっていくのか、変わっていった町は本当に私たちの住んでいた町と同じなのかなってちょっと思っちゃうところがありますね。それが多分、今地元に住んでいる人たちの不安の1つなのかなと最近思うようになりました。

──今地元に住んでいるご両親やおじいちゃんおばあちゃんは、町が変わっていくことを実感しながら、心許なく感じているようですか?

純さん 祖父母は、あそこの家売るんだってとか、あそこの土地に今度別の人の家が建つとかっていうの話がしょっちゅう来るもんだから、だんだん寂しくなってきて、ため息をつきながらそういう話をしています。

──地元に残る方は、地元にいられるならずっといたい方たち?

純さん 私の父親とかは、生まれてからずーっと住んでいるところだから、ずっと残っていたい、そこで生まれてそこで死にたいっていう感じかなと。やっぱり若い人というよりは、もうちょっと年を重ねた人たちが残りたいという感じですかね。
 残りたい人と残りたくない人がいますが、さらにその間に、残りたいけど残れない人がいるんですよね。例えば自分の仕事が自分の地域以外、地元ではないところにあるとか、お子さんがいるご家庭だったら、子供の学校とか進学先によって、内心戻りたいけど戻れない人たちっていうのもいるかなと思います。

──地元が変わっていくことは、それが震災や原発事故を経てのことでなかったら自然に受け入れていた?

純さん まあ仕方ないかーぐらいの感じではいたけど、いつか来るであろうその時期が急に強制的にきちゃったから、余計に受け入れるのに時間がかかるというか、しこりが残るみたいな感じなのかな。
 流れを止めようとか変えようとして動いている人はいるんですよね。そういう人たちはいるけど、その成果が上がらないというか、震災以前から既に生活の利便性とかは他の地域の方が優っているので、余計に戻る人がいないというか。若い人たちに多分戻ってきてほしいというのはあるんでしょうけど、若い人たちが戻っても正直生活しやすい場所ではないので、このままゆっくり変わっていくのかなー、って思います。

震災とコロナ禍

──大震災では、自分ではどうしようもないような大きい力で生活が激変したと思います。今年さらに新型コロナ流行という大きな災厄が起こりましたが、感じることはありますか。

純さん コロナって、専門の人が研究したり対策を練ったり、ワクチンを作ったりとかしてるじゃないですか。そうすると自分たちにできるのって手洗い・うがい・三密を避けるとかですよね。まずは自分たちにできることをやっていくのが一番かなって。
 震災の時も、いろんな地域の人が自分たちにできることをっていうのをやっていって、そのおかげで助かった部分もたくさんありますし。

 もう1つ言えば、コロナ禍の今、SNSとかでコロナにかかった人への誹謗中傷とか、住所や仕事を特定する動きだったり、接客業とかサービス業のような人間相手のお仕事の人たちが緊急事態宣言の時に大変な思いをしてるのとか(SNSで)流れてくるのを見て、ああ、震災の時と変わらないな、って。

 コロナにかかっていろいろ言われてる人たちは、あの時、避難区域から他の場所へ避難した自分に重なるし、サービス業の方がご自分も大変な中で仕事をしてるっていうのもあの当時と同じ気がします。

 それならもっと、自分にできることを考えてほしいかな。コロナという先が見えない事態なので、みんな不安になって吐口を求めるのはすごく気持ちはわかるんですけど、そこで誰かが傷つくような方向で発散しても何もいいことが起きるわけでもないので、背伸びせずに。一番はそこかな。

 みんな、自分ができることよりも上の、もっとレベルの高いことをしようとして誰かが傷ついているかなと思います。例えばコロナにかかった人の職場とか名前の特定なんて、自分たち一般人がしなくてもいいことじゃないですか。どこどこに住んでた人が感染しました、っていうのは、そういう仕事が専門の人たちが調べて感染経路とかを明らかにしてくれることだから、私たちがしなくてもいいことだと思うんですね。そういうことを頑張ってしちゃうから、あそこに出かけたからだ、そういうことしてるからかかったんだとかって私情がだんだんはさまってきて誹謗中傷につながるのかなって思うから。まずは自分のできること、自分の身近なところから、ですね。

 震災に例えるとわかりやすいかな。例えば、被災地域から遠くに住んでいる人が支援物資を持って被災地まで行く、ってなるとそれだけで大変じゃないですか。それなら、例えば身の回りのこと、節電したり、普段から非常用の備蓄を確認して急な買いだめをしないとか、そういう、できることからみんなやっていってたと思うんですね。なので、それは、今の非常事態、この予想外なコロナという出来事に対しても同じことが言えて、一人一人が同じようにできることから対応をしていくべきなんじゃないかなと。

──できることを1つ1つ。

純さん はい。

(終わり)

純さんにとっての東日本震災と原発事故の姿をお話しいただきました。
ご自身にしか語れないこのようなお話、しかし知っている人に話そうとは思えないお話の語り先として選んでくださったことを感謝いたします。

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