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【第23回】駆け出しのころ「忘れられない単語」

忘れられない単語がある。

2012年、米国カリフォルニア州のモントレー国際大学院(現・ミドルベリー大学院モントレー校)で会議通訳を修めた後、日系製薬企業のアメリカ支社で通訳者としての勤務を始めました。根っからの文系で、製薬の知識はゼロ。冒険心だけで入社を決めました。

入社して間もなく、PV(ファーマコビジランス。医薬品安全性監視)に関する会議で同時通訳を担当。その時に初めて耳にしたのが“agnostic”という単語でした。瞬時に頭をよぎったのは、哲学で聞きかじった「グノーシス主義」。それに関連した言葉かな?と思いを巡らせつつ、とりあえず片仮名で「アグノースティックであり・・・」と処理し、通訳を続行しながら慌てて電子辞書のキーを叩き始めました。

その様子を見ていたのか、隣に座っていた親切な米国人CEOが、携帯のグーグル翻訳にこの単語を入れて日本語訳を私に見せてくれました。が、そこに書かれていた訳語はなんと「不可知論者」。これでは意味が通じません。
結局、電子辞書で「分からない」という意味であることが判明し、事後的に「アグノースティック、つまり分からない、ということですが」と補足しました。「分からない」は確かに「不可知」ですが……。

上述したように、最初にこの単語を聞いて思い出したのは「グノーシス主義」でした。グノーシス主義は二世紀頃にギリシア文化圏で勢力を増したキリスト教異端派です。博士論文執筆のための資格審査試験に臨む際、哲学を勉強した(せざるを得なかった)時に耳学問した言葉でした。

この“agnostic”と〈グノーシス主義Gnosticism〉の連想ゲーム――会議後に色々調べる中で、実はまったく的外れでもないことが判明しました。オンラインのMerriam-Webster辞書によると、グノーシス主義は「人間は霊的知識gnosisを持つことによって解放される」と主張しましたが、“gnosis”はギリシア語で「認識・知識」のこと。“agnostic”はそれに接頭辞として否定の“a”が付いているので「非・認識」、つまり「分からない」となります。なるほど、繋がりました。

【森田】モントレー国際大学院の卒業式

(写真:モントレー国際大学院の卒業式)

敬愛する通訳者の鶴田知佳子先生が「通訳者に無駄な知識・経験はない」とおっしゃっていましたが、上記の「連想ゲーム」もまさにそんな経験でした。子どもの難聴に関する会議を通訳することがあるのですが、そこで子どもは小耳にはさむ(overhearing)ことを通じて言葉の多くを覚えるということを知りました。私の場合も耳学問は役立ったようです。

現在、「通訳翻訳WEB」というウェブサイト上で「グローバルビジネス現場の英語表現」という連載を担当させていただいているのですが、上述の経験をもとに第22回で “agnostic”を取り上げました。同連載にも書きましたが、この単語は前置詞“on”と親和性が高く、“be agnostic on …”で「~については分からない」という意味になります。

また、“agnostic”には「依存しない」という意味もあります。たとえば“OS-agnostic”であれば「OS(オペレーティングシステム)に依存しない(=OSの種類に関係なく)」となります。“XXX-independent”と同義ですね。「分からない」の意味よりも「依存しない」の意味の方が会議、とりわけITの会議で耳にするような気がします。

個人的な印象に過ぎませんが、“agnostic”は当時ほどには通訳中に耳にすることは少なくなりました。ですが、最近担当した製薬ITや医療機器の案件でもこの単語が登場していました。

【森田】

(写真:「分からない」が分からなかった)

そもそも「駆け出しのころ」などというエッセイは、20年、30年のベテランが若かりし頃を振り返って書くもので、私のような10年選手が書くものではないかも知れません。それでも、昔の流行歌を聞くと当時の風景が眼前に広がってくるように、今でも“agnostic”という言葉を耳にすると、駆け出しの頃の思い出がノスタルジーとともに蘇る――これについては書いてみたい、と思ったのです。

皆さんには忘れられない単語、ありますか?

森田系太郎(もりた けいたろう) 2012年デビュー
日米の大塚製薬を経て、製薬CRO・シミックの社内通訳者 兼 フリーランス通訳者。上智大学(法学[学士])、立教大学(異文化コミュニケーション学[修士]、社会デザイン学[博士])、モントレー国際大学院(翻訳通訳[修士])卒。ディプロマット通訳スクール・講師、立教大学大学院・兼任講師。