見出し画像

【インテリアを勉強中の方へ!おススメの一冊】『性とスーツ』―現代衣服が形づくられるまで

インテリアBiz+のasaです♪
本日は建築やインテリアとも関連が深いファッションについての一冊『性とスーツ―現代衣服が形づくられるまで』(アン・ホランダ―著)をご紹介致します。
少し難解な記述もありますが、ファッションのみならず建築やインテリア、アートの流れを理解するのに最適な内容となっています。

著者紹介

著者のアン・ホランダ―(1930年10月16日~2014年7月6日)は、バーナード大学卒業後、ニューヨーク人文科学研究所特別研究員を経てPENアメリカンセンター会長を務めたアメリカ人の美術史家です。
本書の他に『Seeing Through Clothes』(1978)、『Moving Pictures』(1989)などの著作があります。

訳者紹介

訳者の中野香織(1962年6月8日)は、東京大学文学部および教養学部イギリス科卒、1994年同大学院総合文化研究科地域文化専攻博士課程単位取得満期退学後、在学中の1982年より文筆活動を始め、ケンブリッジ大学客員研究員、東京大学教養学部非常勤講師などを経て、本格的に文筆業に携わった服飾史家です。
イギリス文化史、ファッション史、その延長にあるラグジュアリー・スタディーズを中心に研究・執筆・講演をおこなうほか、企業のアドバイザーを務めています。

「スーツ」は退屈な代物なのか?

ジョン・エヴァレット・ミレー「ジョン・ラスキンの肖像」、1852年

こちらの絵画は、本書でも取り上げられている19世紀のイギリス・ヴィクトリア朝時代の思想家、ジョン・ラスキンを描いたミレーの作品です。
ジョン・ラスキンと言えば、インテリアコーディネーター資格試験でも必ずおさえておかなければならない重要人物。「アーツ・アンド・クラフツ運動」を指導したウィリアム・モリスに影響を与えた存在として、あまりにも有名です。
著書では、そんな19世紀に活躍した思想家が纏っている現代のものと大差ない「スーツ」の、服飾史における在り方について詳細に述べられています。
スーツは1850年頃にはその原型が固まったと言われており、この著書が出るまで、大方の服飾史では男性のスーツはファションの表舞台から「降りた」とされていました。
しかし著者は、今や2着19,800円で売られるような退屈な代物と一瞥される存在の「スーツ」が、200年弱の長きに亘って「変わらずに」生き延びてきた事実に着目します。
そしてその事実を裏付けるように、「形」として見たスーツが美と権威を兼ね備えたフォルムとしていかに完璧であるか、男性の自尊心やセクシャリティを満足させる「器」としていかに完璧であるかを述べながら、「モダンな芸術作品」として「スーツ」を捉えなおす視点を読者に与えてくれるのです。
著者は「もっぱら冒険や秩序転覆、型破りな進化を行う」というファッションの宿命の中で、「スーツ」が変わりゆく社会と共に自在に対応してきた様子を述べています。

「スーツ」には性的魅力が詰まっている

スーツの衣装体系の祖先とされるギリシア彫刻の男性の裸体像

カジュアルな服装に身を包んでいた男性が、スーツ姿へ変身した時に、性的魅力を発散する効果があるのは周知の事実だと思います。
では何故スーツが性的魅力を持つのかー。
その答えは、スーツの祖先が古代ギリシアの裸体の男性像であったという点にあります。

そして今、文化的状況も社会の目標も、似ても似つかぬほどかけ離れている19世紀初頭のフランスとイギリスが、ともに古典的でシンプルな形態に魅力を感じたのだ。
(中略)
ここに登場した古典時代の英雄たちの外見は、どんな社会的な意味よりも深遠な、感情的意味を満足させたにちがいない。
何度も用いられてきた古典形式と、みずみずしい裸体のセクシャリティー新しい創造的な原点回帰と、新しい動物的な真実ーというスリリングな結びつきは、会心の組合せとなった。

著書ではこのように語られています。つまり著者は「スーツに古代ギリシアの英雄のヌードを想起せよ」と述べている訳です。
時代を超えて永遠にセクシーなこの原型を損なうことなく、モダンに抽象化した形こそが「テイラード・スーツ」であり、だからこそこれは時代と共に微妙に変化しながらも、200年弱も変わらないように見える外見を保ち続けてきたのだと言えます。

「スーツ」誕生の背景にある新古典主義の台頭

新古典主義を代表する建築家兼デザイナー ロバート・アダム

「テイラード・スーツ」誕生の背景には、18世紀後半~の新古典派の芸術家やデザイナーの台頭があります。
新古典主義(ネオクラシシズム)も、インテリアコーディネーター資格試験に臨むにあたって必ず覚えておきたい単語。ここで、しっかり頭に入れておきましょう^^
新古典主義は、同時代に浮揚しつつあった「自然」と「理性」、「自由」と「平等」という理念を、最良の形で反映していると見えたからこそ、原初的で神々しい古典様式として脚光を浴びました。
ヨーロッパ中の芸術が、古代ギリシャ建築の法則や古典美術に登場する人物をできるだけ原型に近い形で取り入れようと変容していったのです。
表面的なものまねとしてではなく、根本的な形の源泉として古典を利用したことによって、新古典主義の美の復興は、モダン・デザインの萌芽とみることができる、と著者は述べます。
その中でも特に「テイラード・スーツ」の成立に影響を与えたのは、19世紀初頭に活躍したイギリス人装飾デザイナーたちです。中でも、ロバート・アダム(1728年~1792年)は、家具や室内装飾、家屋建築のデザインの規範を定めたことで高く評価されています。

古典スタイルを節度をもって取り入れ、斬新でありながら永遠でもある作品を形作ることに事において彼はぴか一で、同程度のものは出てきてもこれを越える規範はついぞ現れていない。

著書ではこのように述べられています。
彼はインテリアコーディネーター資格試験でも頻出される「アダム様式の椅子」の生みの親でもあります。「アダム様式の椅子」は竪琴形の背もたれが最大の特徴でしたね^^

アダム様式の椅子。竪琴形の背もたれが最大の特徴

当時のイギリスの建築・インテリアは、装飾過剰のロココ趣味に染まることなく、室内の実用品のデザインも同じように気取りの無い明晰さが最大の特徴となっていました。

ファッションをリードしてきたのは、男性服である

ジョン・シンガー・サージェント『I・N・フェルプス・ストークス夫妻』アメリカ、1987年

こちらの絵画に描かれた女性が身に纏っているのは、男性用のネックウェア、テイラリングの上着の女性版です。
従来は「ファッション史」と言えば、女性服の変遷こそが王道である、というのが大方の見でした。しかし実は、この絵画が物語っているように、「西洋のファッションをリードし続けてきたのは、男性服である」と著者は語ります。

男性服のファッションは、ファッション本来の役割を遂行し、モダンの視点や感覚の重要な表象となっているのである。
近代女性ファッションの趨勢ー女性がますます、なにやかやと理由をつけて男性の服をちょこちょこと拝借するようになっている事実ーを見ればこのことがよくわかる。
取り入れられることが多いのは、男性が放棄したばかりの流行遅れのもので、なおかつ時代を先んじているという基準内にあり、視覚的満足感を与えるもの、という要素である。
かくも注目を集め、かくも「ファッショナブル」な女性服のファッションが、実は、しばしば男性服のファッションの底力を見せるために利用されてもきたのである。

著書ではこのように述べられています。
つまり20世紀の初頭まで、男性服こそファッション史を通して女性服よりも「モダン」であり続け、女性服は代り映えのしないロング・スカートまたはドレスのバリエーションに固執し続け、表面がいじりまわされるだけで根本は何も変わっていない、近代化の立ち遅れた服であったというわけです。
このような視点は、美術鑑定家の著者ならではのものだということができます。

コルセットは快楽である


定説では「コルセット=拷問」とされてきた

何世紀にも亘って、女性の胸部下部よりウェストにかけてのラインを補正する役割を持ち着用されていたコルセット。
現代の私たちには「コルセット=男性の強要する美意識や貞淑観念を甘受せねばならぬかわいそうな時代の女性の象徴」というイメージが定着しています。しかし、本書ではその定説も覆されています。

歴史上見られる硬い服、重い服、身体を締めつける服、留めにくい服、危ない装飾品、その他の着心地の悪い服は、決まって特権的な男女を思い起こさせる。
彼らは、厳しい訓練、高い教育を受け、様々な責任を引受ける高度に文化的な存在なのであって、単純に快楽を追い、単純な仕事と義務を遂行していればそれで済む日雇い労働者からは区別されねばならなかった。
高貴な階層のファッションが変わるということは、ある一つの肉体的苦痛を別の肉体的苦痛と取り替える、ということに等しかった。
彼らの衣服の快適さは、頭の中に存在していたのである。
名誉と規律、社会的地位をふさわしく守っているという自負の問題であったのだ。

著書ではこのように述べられています。
この描写には一瞬たじろぐものの、訳者のあとがきの記載を読むと頷かずにはいられません。

二月の寒空にミニスカートで生足をさらしていた女子高生の頭の中にあったもの、それは「寒い」とか「つらい」という苦痛の感覚ではなく「私たちは天下の女子高生である」という誇りと優越感、ひいては快感に他ならなかったはずだ。
(中略)
傍目にはいかに「耐え忍ぶべき苦行」に見えようと、彼女たちの頭のなかでは「誇り高き快感」が渦巻いていたに違いない。

いつの時代も「社会」や「時代精神」がむりやり人に苦痛を強いるような服を着させていたわけではなく「人々は、自分が着たいと思う服をきてきたのである」という当たり前の真実を、著者は明らかにしています。

ファッションがもたらす不安と暴露

ヘルムート・ニュートン『イヴ・サンローランのスーツ』、1975年

「服は人を表わす」という言葉は現代でもよく語られていますが、人々は多種多様な衣服の中から自らが着るものを選び取る行為によって、自らの内面が露出してしまう不安を常に抱いているのだと、著者は語ります。

衣服を作り、販売する側も、内面が露出してしまう事に対する人々の不安感につけこんでいるのがよくわかる。
衣服や小物にはっきりと刻印されているのはメーカーとデザイナーの個性であり、消費者は特定のテイストや感覚が明示された流行の衣服一式を細部に至るまで取り揃えることができるようになっている。
このような衣服で完全装備しさえすれば、個人の秘密、とりわけ美的センスに対する自信のなさと勇気のなさは、暴露されずにすむかに見える訳である。

著書の中のこの一文は私たちの深層意識に流れている「真理」を明らかにしています。ばかにされ、ひとりだけみんなから浮いた挙句、孤立することを恐れるあまり、人々は規定の様式に従った衣服一式に身を包み、本当の自分が見通される心配を避けているのだと、著者は述べているわけです。
このことは、人々から侮蔑の対象だとみなされている「制服」が、未だに社会のあらゆる場所で着られていることで証明されていると言えます。

衣服を着こなせる人とは

では本当の意味でファッションと上手く付き合う人とは、どのような人を指すのでしょうか。畳みかけるように、著者は次のように述べています。

矛盾ひしめきあうファッションとうまく付き合いながら衣服を着こなしている人は、ファッションの多様なジャンル(中略)を問わず、自己を最大限に認識している人である。
この場合の自己認識は、純粋に身体的なものであって、この認識を持っている人とはすなわち、自分自身の身体の動きや外見に対して、ひとりよがりの思い込みではない的確な客観的理解ができる人のことである。
(中略)
しかし、自分自身の身体的外見に向ける正確な内なる目を持っていれば、男女とも着る服を問わず見た目に美しい存在になり得るのである。
そのような目を持つ人ならば、身にまとうファッションそのものが相当いかれていても、決して愚かに見えることはないだろう。
この確かさの底流にあるのは、性的な自覚であり、社会の中で自分の身体の魅力を高めるものとそうでないものとが即座にわかる能力である。
あなたが知らねばならないのは、衣服を着たときの自分の身体が実際どのように動きどのように傍目に映るかということであって、鏡の正面に立ってひとりポーズをとったときの姿ではないのである。

このような著者の見解は辛辣ですが、真実だと言えるでしょう。
辛辣な意見にたじろぐ読者に対して、著者はさらに鋭い筆致で持論を展開します。

普通の人々はどうだろう。
こちらのほうは、現実の自分を直視するのは耐えられないと言って、そこから目を逸らすために四苦八苦しているようだ。見目麗しい外見にあこがれながらも、そんなことに気をもむ自分自身を嫌悪する。
素敵に見せたい、と願いながらも、そのように見せる現実からは目を背ける。鏡と仲良くなりたいと思いながらも、激しく鏡を軽蔑する。
その代わりに彼らがすることといえば、減量やジムでのトレーニングに励むことだ。
どちらも健康には良いだろうし、精神的にも向上するような気がする。
また、社会もこうした努力を評価してくれる。
しかし、身のこなしやしぐさ、習慣になっている歩き方や表情、あるいは服のきこなしーすなわち本当の外見ーに及ぼす影響力の大きさといえば、減量もトレーニングもゼロである。
そして繊細な視覚的理解を妨げる、万人の知る記号を帯びた衣服を選びがちなのも、実はまさしくこの手の人々なのである。

著者は、ジャンルを問わずファッションをうまく着こなす人というのは、芸術家に等しい存在なのだと言い切っています。
現代ではテレビや雑誌や映画、動画配信など様々なメディアがファッションに対する沢山の選択肢を提供しています。しかし、それにも関わらず、街を歩いていても目を引くような素敵な着こなしをしている人には滅多にお目にかかれない現実があります。
このことは、ファッションとの付き合い方がいかに難しいのかを表しているといえるのではないでしょうか。

いかがでしょうか?
あまりにも内容が多岐に亘り、衝撃的な記載も多くすっかり長くなってしまいましたが、最後までお読みくださりありがとうございました^^
少し難解な記述もありますが、ファッション、アート、建築やインテリアに対する認識が180度変わるような一冊です。
機会があれば、ぜひ読んでみてくださいね。
では、また♪