映画『Barbie』公式アカウントは日本もアメリカも差別しているという話

長い文章を書ける場所、というので久しぶりにnoteを開いた。2年ぶりだって。わお!

さて、Twitter改めXで、絶賛⭐︎大炎上中の映画『Barbie』の公式アカウントについて、思うところがあり、つらつら書いていく。
あくまで、
映画そのものではなく、公式アカウントについて
だ。

また、記憶ベースのところがあるので、間違っているところがあるかもしれないけれど、盛大な独り言なのでご容赦ください。

何がどうして炎上しているの?

アメリカ時刻で7/21に公開が始まった映画が二つある。
着せ替え人形で有名なバービーの冒険を描く映画『Barbie』と、WW2の原子爆弾計画のリーダーである物理学者オッペンハイマーの生涯を描く『Oppenheimer』だ。

公開日以外の接点が全くないこの二つの映画は、どちらも初日から興行収入がよく、その話題性から「今、注目2作!」的な意味合いで、タイトル同士を語呂合わせした「Barbenheimer(バーベンヘイマー)」と呼ばれるようになった。(英語圏はこういう語呂合わせが好きだなぁ、と思う)

ここまでは問題なかった。多分。

問題は、行き過ぎたファンアートが生まれてしまったことだ。
ファンアートとは、名前の通りファンが作った創作物(主にイラストや写真のコラージュ)のことで、昨今、ペイントツールやAIの普及で簡単に創作ができるようになっている。
また、著作権利者側(今回の場合は映画の制作側のこと)も、ファン同士のコミュニケーションの一貫、口コミ的な作品の宣伝に繋がる、という側面が強いため、これを容認している。
一般的なファンアートは映画の感想や登場人物への好意が描かれるものなので、全く問題はない
なので、今回は「映画を見たファンが作った画像がやばいもんだった」という認識でOK。

どのようにやばかったのかと言うと、『Barbie』と『Oppenheimer』を掛け合わせたもので、
・バービーの髪型がキノコ雲になっている
・ピンク(映画『Barbie』のテーマカラー)のキノコ雲の前で笑顔のバービー
・火の粉が降り注ぐ中、オッペンハイマーがバービーを肩に乗せている
という画像だった。

まぁ……その……。
どうしてそれがアウトだと分からなかったんですか?というレベルの話だ。

百歩譲って、上記のファンアートが作られただけであれば、我々厄介ごとが大嫌いでスルースキルが高いが故に若干舐められてる日本人は「嗚呼、アメリカにも頭がアレな奴がいるんだな…可哀想に…」でスルーを決め込んでただろう。

しかし、それができないことが起きてしまった。

なんと、映画『Barbie』のTwitter改めX公式アカウントが、そのファンアートに好意的とも取れるリプライを飛ばしたのだ。

以下原文ママ。
It's going to be a summer to remember
(思い出に残る夏になりそうです)」

このリプライを末代まで思い出に残してやろうか?

日本への原爆投下を軽んじるこの言動への反感は強く、現在進行形で、抗議活動が行われている。
私自身も、2年ぶりにnoteを書くくらいには怒りを覚えている。

しかし、このnoteでは別のことを書こうと思う。
もちろん、原爆投下を軽視している風潮には抗議したいが、すでに多くの人が意見を述べているので、そちらは私よりも詳しい人に任せようと思う。

映画『Barbie』公式アカウントは、日本の歴史だけでなく、バービー人形とアメリカ本国のバービー人形のファンまでも軽んじてしまった、という話がしたい

人形の大切さと差別と闘ってきたバービー人形について

一時期話題になったので、ご存知の方もいるかと思うが、バービー人形はこれまで多くの差別と闘ってきた。
差別をなくし、多様性を大切にするとして、様々な人種をモデルにしたバービーや障害を抱えた子がモデルのバービーが登場している。
これに関して、昨今の風潮から「はい、ポリコレw」と軽く考えてはいけない。

着せ替え人形というのは、多くの(主に女の子の)子どもたちの身近に存在するものであると同時に、「その時代の可愛い女の子」という憧れであり、象徴なのだ。
バービー人形を持つ多くの子どもたちは、「可愛くなりたい」=「バービーみたいになりたい」という認識を持っていくことになる。

故に、多様性を目指し、様々な人種や特徴を持ったバービー人形の登場させることは、その人形を持つ子供達が将来大人になった時に差別的な認識が薄まるよう必要なことであり、未来の差別をなくすための闘いでもある。

では、なぜ、バービー人形がそんな闘いをしているかというと、そこにはアメリカやヨーロッパに根強く残る女性差別があるからだ。

ブロンドはお好き?-アメリカ映画界が生んだ女性差別

2001年に公開された『キューティ・ブロンド』という映画がある。
金髪の、お人形のように可愛い女の子が、高校卒業を目前にして彼氏にフラれたことをきっかけに、彼氏と同じ大学の法学部に進学する、というコメディ&サクセスストーリーの映画だ。

上記したとおり、この映画では冒頭の部分で主人公の女の子が彼氏にフラれてしまう。
その時、彼氏が語った理由というのが、主人公が「ブロンド(金髪)」だからだった。
曰く「僕は将来政治家になるから、君みたいな見た目だけの頭が空っぽなブロンド女は相応しくない」

そう、アメリカやヨーロッパには
ブロンドの女性は、侍らせておくだけならちょうどいい可愛いだけの頭が悪くて尻軽女
という差別がある。

映画では実際、主人公は彼氏にフラれるまで、毎日パーティー三昧で、ピンクと可愛いものが大好き、将来はお嫁さんになるから勉強なんてしない!という恋愛脳のお花畑ちゃんの描写があるので、2023年の日本で生きる私たちが見ても「あっ……」と思えてしまうのが、ある意味クオリティが高いのだが、これは「差別や偏見で言われているような人物が実際にいたら」という描写である。
(なお、この主人公は「みんな私のことを“頭が悪いセックスの相手”として考えてない」と悩み、ラストでは、きちんと自立した女性になる)

『キューティ・ブロンド』は、それまで蔓延っていた「ブロンド」差別に疑問を投げかけ、「髪の色で知性の良し悪しは決まらない!」と声を上げた作品なのだ。

さて、この「ブロンド」差別だが、起源を遡ると18世紀のヨーロッパになる。
今回はアメリカに限って話すので、アメリカでの背景を遡ると、WW1後の映画業界が盛んになり始めた頃に広まったと言われている。
きっかけになったのは、小説『紳士は金髪がお好き』だ。
この作品の主人公がブロンドであり、また、美しいが軽薄な性格だった。
そうして、1952年にマリリン・モンロー主演で映画化されると、「ブロンド」は美の象徴であると同時に「お金にしか興味がない頭の悪い尻軽女」という認識が瞬く間にアメリカに広まった。

1952年の映画が、2001年の映画にまで影響しているのだから、一度広まった差別を打ち消すのは難しい。

映画から広まった「ブロンド」差別は、もちろん、バービー人形にも影響を与えている。
元々、ブロンドにブルーアイズのティーンというデザインで登場したバービー人形だが、人気が出るにつれて、上記のような「ブロンド」差別をする側が蔑称として「バービー(みたいな女)」と使い出したり、「スタイルが良すぎて性的(なのでセックスシンボルになりかねない)」として女性人権団体から抗議を受けてたり、「ブロンドにブルーアイズという白人の記号化していて人種差別だ」という指摘を受けたり、と批判的な面を持つようになってきた。

差別に合わせたデザインになったのではなく、バービー人形のデザインが偶然一致してしまっただけだ。

こうした背景から、バービー人形は「その時代の可愛い女の子」という象徴であるとともに、「侍らせておくにはちょうどいい可愛いだけの頭が悪くて尻軽女」と差別する側が持つ差別イメージの象徴にもなった。
故に、そのイメージの払拭と、ジェンダー差別や人種差別への問題意識として、多様性を重んじ、様々なモデルのバービー人形が登場する流れが生まれてきたのだ。

映画『Barbie』公式アカウントの軽率さ

日本公開がまだなので、あらすじでしか知り得ないが、映画『Barbie』は『キューティ・ブロンド』のように、バービー人形が受けてきた差別の払拭や多様性の尊重がテーマの一端をになっているのはよくわかる。

公式HPには明確に「(バービー人形は)性別や人種を超え「You Can Be Anything(なりたい自分になれる)」を発信」と書かれており、映画のあらすじには
「すべてが完璧で今日も明日も明後日も《夢》のような毎日が続くバービーランド!(中略)
完璧とは程遠い人間の世界で知った驚きの〈世界の秘密〉とは? 」
とある。
(私のトラウマ『トゥルーマン・ショー』みたいだな……)

そして、「完璧だと思っていた自分の世界から、不条理なことも起こるがそれこそが生きる人間の真実の世界へ」というあらすじから得られる映画としてのワクワク感は、VRやAIが身近になりつつある現代において、まさに流行の最先端と言っても過言ではない設定だ。

古くからある差別に、時代の最先端のイメージを反映したストーリーとキャラクターで立ち向かう。
この構成だけでも最高にワクワクするじゃないですか。

この映画は、この夏、高いエンタメ性と同時に社会問題を考えるきっかけを与える神作品になる予定だった。
が、そこに出てきたのが「忘れられない夏」発言だ。

公式アカウントが忘れてしまった、アメリカ映画界とバービー人形の闘いの思い出

ここまで書けば分かるだろう。

映画『Barbie』の公式アカウントは、原爆を軽視するだけでなく、それまでバービー人形が闘ってきた性別や人種差別の背景(=思い出)を軽視し、アメリカ映画界が生み出し、バービー人形が差別と闘うきっかけになった「ブロンドの女性は、侍らせておくにはちょうどいい可愛いだけの頭が悪くて尻軽女」という差別を自ら助長させる発言をしてしまったのだ。

そしてなにより、映画『Barbie』で語られるはずだっただろうテーマであろう「差別を超え、完璧ではないこの世界の楽しく生きていくために、なりたい自分になる」というメッセージ性を自ら踏み躙った
そして、その自覚が全くない

「あえて」差別的な言い方をさせてもらう。
公式アカウントが今回のことを反省し、謝罪などの対応をしないのであれば、結局、映画『Barbie』は目の前の可愛さと楽しさしか見えておらず、人類の歴史も知らず、自分が差別されていることも自覚できない頭の中に空気だけが詰まった馬鹿ばブロンド女のセックス人形が上辺だけの高尚さで語る戯言映画、になってしまう。

それは、バービー人形を愛してきたアメリカ本国(&世界)のバービーファン、「バービーのような可愛い子になりたい」と憧れる子供達に、
可愛くて楽しければ、君たちは人類の歴史も、自分たちが馬鹿である自覚も持たなくていいんだよ
と言ってるのと同等だ。

アメリカ映画界は、バービー人形という現代の差別問題を立ち向かうヒロインを、何度目かの差別の象徴に陥れたのだ。
それだけではなく、『キューティ・ブロンド』など、現代まで続く、アメリカ映画界が自分たちで生み出した差別イメージを払拭させるために作ってきた数々の映画の功績に泥を塗った

もう一度、念のために書く。
映画『Barbie』の内容が問題なのではない。
映画の公式アカウントの運用の問題だ。
映画そのもの、バービー人形そのものも、公式アカウントの運用者が起こした問題に巻き込まれたと言えなくもない。

しかし、こうした運用をしてしまう人物を担当した制作側の問題もあるし、これだけの炎上を放置しているのも悪手でしかない。
私も、正直、公開中止になっても良いと思っているし、公開されても見に行かないつもりだ。
(個人的な意見なので、ご自身で判断していただきたい)

「楽しい」「可愛い」「美しい」「ロマンチック」
ポジティブイメージが内包する差別

私がまだ学生だった頃、必須科目で乗り気がしないまま受けた講義でこんなのがあった。

「ロマンチックと言われる演出や描写は差別から生まれる」

要は、ネガティブイメージがあるからこそ、それを「障害」として描くことで「ロマンチック」は生まれるのだ、という説だ。

ポジティブと思われるイメージの裏には、そのイメージが生まれるに至るまで、差別というネガティブイメージと闘い続けた歴史や現在進行形で闘っている人たちがいる。

ネガティブを上回るほどのポジティブなイメージを、頑張って作り上げた人達がいる。

だからこそ、上辺だけの「楽しい」「可愛い」「美しい」「ロマンチック」だけを切り取って、近視眼的な見方をしてしまうと、あっという間に、差別というネガティブイメージを無意識に助長させる加害者側になってしまうし、「享楽的なことしか考えてない知性の低い存在」という差別を自らに課してしまうことになる。

過激なBarbenheimerのファンアートを作る人たちは、自分たちが楽しんでいる二つの映画の意味を

映画『Barbie』の制作陣と公式アカウントの運用担当には、自分たちが原爆という人類の歴史だけでなく、バービー人形そのものを陥れているということを

もう一度、考えていただきたい。

そして、今、#NoBarbenheimer ときちんと声を上げている人たちへ。
読んでくださって、ありがとうございます。
原爆はもちろん、それ以外のことにも影響を出しているということを知っていただけたら嬉しいです。

上記で、問題を強調するためにあえて差別的な書き方をした部分もありますが、差別を差別で返すのはよろしくないので、お控えください。
人が二人いれば偏見と差別は生まれます。
ですが、きちんとした知識を持つことで、その偏見と差別を少なくすることはできるはずです。

取り止めのない、長い記事でしたが、今回のことは原爆だけに限らず、アメリカの映画界が無意識に差別を助長させてしまったと思い、書かせていただきました。
ありがとうございました。

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