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ノモンハン慰霊の旅⑥


モンゴル人民共和国(当時、現在はモンゴル国)の東端の国境地帯、ノモンハン(たまたま、そういう名前のオボー(道祖神の塚)があるだけで、便宜的にそう言われた)でソ連・モンゴル軍と日本・満州国軍が数万規模の兵力で数か月間、戦闘を交えたのが1939年。双方合計で5万人以上の死傷者を出しているのだが、国境には何か壁や鉄条網が設けられているわけでもなく、遊牧民が自由に往来していた。ただ、モンゴルと満州国で国境線をどこに引くかの主張が異なっており、満州国が成立した1930年代に入り何度か双方の交渉が行われた。

しかし、1937~38年、モンゴルに吹き荒れた”粛清の嵐”で国境交渉委員などが処刑され、独裁者チョイバルサンの登場のもとで対満州強硬路線が取られた。ハルハ川東方数十kmの地点まで、モンゴル国境警備隊の騎馬隊が何度も進出し、それに刺激された満州国防備の関東軍が当初は航空隊を繰り出し、これを爆撃した。1939年春先のことで、これが5月~9月まで展開される一大武力衝突にエスカレートするきっかけとなった。

いまでも、草原には何か重要な都市や資源があるわけでもなく、ただただ80数年前に双方が築いた陣地や退避壕後がそこここに見られるだけだ。数万を犠牲にして奪い合う意義があったとは、双方ともに考えられない。


ソ連兵捕虜にタバコの火を貸す日本歩兵。双方共に1000名以上の捕虜を出しているが、扱いは基本的に国際法に沿った紳士的なものと言えた。また、ソ連兵士の多くがシベリア極東地方の出身者で、日本語を話すものが下級兵士にもけっこういたとの記録がある。


昼間には40℃に達する暑さの中、配置転換で草原を行軍する日本歩兵部隊。作戦記録では、通常の行軍距離よりやや長い40kmを1日のうちに移動し、そうした移動を戦闘間に何度もやっている。歩兵は武器・装具を1人あたり40kg背負っており、よくもまあ、こんな強行軍を繰り返せたものだと思う。投入された第23師団は比較的に新しい部隊で、日本陸軍では決して精鋭部隊ではなかったのだが、普通の日本国民から徴兵された兵士たちの屈強さ、精神的な強さは現代では計り知れないものがある。


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