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海部俊樹の再評価は必要か?:日本外交について

answer therefore to the question, What is History?, is that it is a continuous process of interaction between the historian and his facts, an unending dialogue between the present and past
 - E. H. Carr
History is not a simple & single-way process. So, we have to keep on thinking & trying to understand the phenomenon.
国際基督教大学におけるゲスト講義「"The Crisis of the Liberal International Order": History as Progress and the End of History」より


序論

私事で恐縮だけれど、海部俊樹は自分にとって中学と高校の大先輩にあたる人物である。
かつてこの国の総理大臣を務めた人物だが、今年1月9日に亡くなった。代表的な功績は自衛隊の国際連合平和維持活動(Peacekeeping Operations; PKO)への派遣になるだろうが、他にも苦慮しながら重要な役割を果たしてきたことが数多くの追悼から伺える(NHK 2022)。

東海中学校・高等学校の出身者にはどうしようもないダメ人間もいることは卒業生の一人として把握しているが、同時に社会に大きな貢献を果たす者も多い。
誰がそう呼んだか、海部に建築家・思想家の黒川紀章、哲学者の梅原猛を加えて「東海三羽烏」なんて呼ばれているのを見たことがあるが、時の流れというのは残酷なものでこれで三羽烏全員が安らかな眠りについたことになる。他には通商産業省で事務次官を務めて異色の完官僚として名を馳せ(佐橋 1994)、『官僚たちの夏』の主人公 風越信吾のモデルとなった佐橋滋あたりが故人だと有名だろうか(城山 2014)。
存命の人物で言えば、政界には民主党政権時代に農林水産大臣を務めた赤松広隆、菅政権で文部科学副大臣を務めた丹羽秀樹(選挙区が地元なので小学生の時から姿だけは見ていた)、おそらく今東海卒業生界隈では多く支持を集めている衆議院議員 吉田統彦、官界には観光庁の長官を務めた田端浩、チュニジア大使時代にジャスミン革命を経験し命の危険と隣り合わせの中在留邦人保護などに尽力を尽くした多賀敏行(現在は大阪学院大学の教授で、大きなくくりで見たら自分にとっては一橋の先輩にもあたる偉大な先輩である)(多賀 2018)、学界では京都大学名誉教授でフィールズ賞受賞の数学者である森重文、同じく京都大学名誉教授で紫綬褒章受章の政治学者である大嶽秀夫、経済界では三菱東京UFJ銀行の特別顧問を務める平野信行、メルカリの創業者 CEOの山田進太郎、最近の若手だとPoliPoliの伊藤和真が話題になっているだろうか(おそろしい後輩がいたものだ)。
それ以外では高須クリニック院長の高須克弥、有名予備校講師にして今や売れっ子タレントとなった林修、スタジオジブリの代表取締役で宮崎駿を支え続けた鈴木敏夫(鈴木 2019)、『うんこ漢字ドリル』の作者 古屋雄作、高校在学中に『星に願いを、そして手を。』で小説すばる新人賞を受賞した青羽悠、東京オリンピックのアーチェリー日本代表で男子団体の銅メダル獲得を手繰り寄せた一射を決めてみせた武藤弘樹などがいる(本当におそろしい後輩だらけである)。

とはいえ、もちろん綺麗ごとばかりは言っていられない。連合赤軍の元メンバーで1972年2月に起こったあさま山荘立てこもり事件の犯人の一人であった加藤倫教もかつては東海高校の学生だった(確か除籍されたと聞いたことがある)。同じ学び舎から総理大臣と革命家・"テロリスト"が輩出されるというのは、ある意味あの学び舎はこの世の真理を体現した場だったのかもしれない。超直近では1月15日、大学入学共通テストの受験会場となっている東京大学の前で受験生2人と70代の男性を刃物で切り付け、殺人未遂容疑で逮捕された高校2年生も同じ学び舎で育まれたらしい(「文春オンライン」特集班 2021)。そういう人間もいる、という話である。


さて、本稿の主題は「海部俊樹の再評価は必要か?」である。ここまで出身校の話をしてきたが、もちろん出身校を軸にその人となりを評価したり不必要に担ぎ上げようというものではない。
2021年末、湾岸戦争に関連する外交資料が公開された。その資料からは、それまでの通説となっていた海部像とは異なる気概溢れた総理大臣の姿が見えてくる。朝日新聞もその資料公開を受けてインタビューを申し込んでいたようだが、残念ながら実現しなかった。記事には「海部氏になお語ろうという意欲があったように思えるだけに、今回の逝去はなおさら残念だ」とある(藤田、菊地 2021)。もしも実現していたならば、海部は一体何を語っただろうか。

自分は、海部の胸中の多くは生前に書かれた回顧録『政治とカネ 海部俊樹回顧録』から浮かび上がってくるのではないかと思っている。外交資料公開以前に出版されたこの本を読んだ時、自分は通説とは異なる海部の胸中を垣間見た。2019年、当時一橋大学 国際・公共政策大学院の修士課程の学生だった自分は、海部の回顧録から得られた書簡を踏まえて通説に挑戦する期末レポートを書いている。そして、今回の外交資料公開はその感想が現実を捉えたものであったという裏付けのようなものを与えてくれることとなった。

自分は、国際関係学を専門としているが、外交史や史的研究の専門ではない。おそらく知識など足らないものは多いとは思うが、そのレポートを基礎に少し考えを綴っておきたい。(自分が知る限りの)通説では、湾岸戦争に際する日本外交を決定づける上で、海部の評価は極めて低い。その評価が実際に覆るのかは分からないし、積極的に覆したいと思ってるわけではない。しかし、海部の回想を読んでいくと、少なくとも通説が十分に当時の外交政策決定の実態を明らかにしたものとは言い切れない可能性があることが分かるのである。「海部俊樹の再評価は必要か?」という疑問形の主題は、自分でも答えが分からないからこその主題である。


国際貢献に向かった日本

日本は、1980年代末にはいわゆる"経済大国"になっており、その経済規模は世界全体の15%にまでなっていた(五百旗頭 2016、229頁)。アジア諸国が魅力に感じる経済的なインセンティブを提供することが出来るようになった日本は、アジアにおいてリーダーシップを発揮するという形で主に経済的側面においての重要性が増すこととなった。アジアにおいて、経済的なリーダーシップを発揮することができるようになった日本だが、安全保障面ではその通りではなく、アメリカが依然として重要な役割を果たし続けていた。結果として、アジアにおいては複雑な構造が出来上がることとなった(パイル 1995、224-33頁)。

ケネス・B・パイル(Kenneth B. Pyle)は1990年代のアジアにおけるその複雑な構造について:

アジアに安全保障と主要海外市場を提供しているアメリカは、この地域において大きな勢力を維持している。アジア諸国、とくに中国と韓国は、日本の投資、援助、技術を歓迎しながらも、日本がこの地域を支配することになる潜在可能性に対しては、警戒心を持ちつづけている。こうした近隣国の懸念を知っている日本は、アメリカが安全保障役割を果たしつづけることが、日本の経済利益に必要なアジアの安定維持に不可欠である、という立場の政策をとっている
(同上、247頁)

と、アジアにおける日本を巡る複雑な事情に焦点を充てて説明している。逆にアメリカの立場からすると、日米同盟の目的は「米国の行動の予測可能性を高めるとともにその兵力の前方展開を支え、地域諸国(冷戦期には特にソ連と中国)の冒険主義的行動を抑制し、そして日本の大規模な軍備増強を抑え」ることにあった(吉田 2011、79頁)。こうした観点から、冷戦以降のアジアにおいては日本の安全保障面での重要な貢献が本当に受け入れられるとは考えづらい状況があった。

また、日本国内に目を向けると、どのような集団安全保障体制にも関与せずに、日本が海外の紛争に巻き込まれることを防ぐという考えを吉田茂以降の総理大臣が踏襲してきたことが分かる。こうした傾向の基礎となったのは吉田の考えであるが、それは冷戦状況を最大限利用し、自国の安全をアメリカに保障させ、自らは経済的利益の追求のみを行うというものであった。そうした考えをベースに、集団安全保障は日本国憲法に違反するという立場から、日本はアメリカ側の安全保障への関与の要求を断ってきた(パイル 1995、211頁)。つまり、日本側もまた、安全保障面での国際貢献を望まない考えを持っていたのである。

このように、日米関係とアジアにおける構造は複雑なものとなっていった。日本側が安全保障に関与しないという点が非対称だと言われつつも、アメリカは軍を日本に駐在させることで利益を得てきたし、なにより集団安全保障への参加を求めながらも同時に日本が軍事力を高めることを望まないという二つの異なる考えが同居していた。そうした中で日本側に在日米軍基地の経費負担の増額を要求するのは日本にとって「好戦的」であり、納得することは難しいことであった。しかし、アメリカ側にとっても、まるで傭兵のような使われ方をいつまでもされるわけにはいかなかったのである(同上、230-5頁)。


しかし、「経済大国日本の出現と冷戦の終結は、日米同盟の意味を根本的に変え」た(同上、208頁)。それはやはり、国際社会における日本のプレゼンスが高まることになったからである。そうした中、アジアのみならず世界的に日本が安全保障に関して国際社会にどう関わるのかという大きな議論をもたらしたきっかけとなったのが湾岸戦争であった。

国際社会においてプレゼンスが高まったことで、日本は国際貢献という形で、「国際安全保障への主体的な責任意識」を自覚しなければならなかった(五百旗頭 2016、231頁)。しかし、湾岸戦争の際には、後方支援、輸送や医療協力といったことを実施することすら国内政治的には容易なことではなかった。五百旗頭真は:

湾岸戦争に適切に関与できなかった日本は、世界中から非難を浴びてから総額130億ドルの資金協力を申し出て、なお軽侮の対象にとどまった。それは、まさしく日本の「敗北」であった。戦争が終わった後、掃海艇をペルシャ湾へ派遣して、いささか評判を回復するのがやっとであった
(同上、232頁)

と記している。湾岸戦争に際して、日本が採るべき行動に関する議論の主な焦点は多国籍軍に参加すべきか否かということであり、更にはどのように協力すべきかということであったが、パイルは一連の流れを、「ばかげた芝居と化し、日本政治システムの硬直性を示す典型となった」と評している(パイル 1995、217頁):

最も基本的な問題は、集団安全保障にかかわる問題であった。野党や保守主流は、自衛隊の海外派兵は憲法によって禁じられていると主張した。海部首相もこうした考え方に傾斜していたが、自衛隊員を湾岸多国籍連合軍に参加させることを求める自民党内のナショナリストと国際派の連合勢力の圧力に屈し、国連平和協力法案を提出した。このような妥協案は、誰をも満足させず、集団安全保障問題を完全に回避したものであった。海部首相は、変化した国際情勢のなかで新しい憲法解釈が必要になっていることを主張せず、弁解の政治を続けた。
(同上)

こうした当時の日本政府に対する批判的な見解や問題点の指摘は多くの先行研究において共有されている。

例えば、小川彰は「湾岸戦争での日本の非協力は日米防衛協力の高まりに冷水をあびせた」とする(小川 1999、129頁)。当時の総理大臣であった海部が当時のアメリカ大統領であったジョージ・H・W・ブッシュ(George H. W. Bush)の要請を無視して中東歴訪を中止し、更には具体的に米軍の支援策を提示しないことについて、アメリカ国内で不満が高まったのだという(同上、129-30頁)。その後、アメリカから人的貢献を求められて海部政権は窮地に追い込まれたが、自由民主党の当時の幹事長 小沢一郎が動いたことで「国連平和協力法案」が閣議決定された。この法案が衆議院を通過することなく撤回され、廃案となったことで、「海部首相は湾岸戦争期間中のはっきりしない姿勢によって日本の政治家のリーダーシップの欠如を世界に示した」と小川は論じている(同上、130頁)。

小川は、当時の日本政府において中心的な働きを担った人物は小沢だったとする。小川は「日米同盟維持のための最低限の貢献と考えられた湾岸への掃海艇派遣」が決定されたのは(同上、131頁)、「事実上の首相といわれた小沢のリーダーシップと、船主協会、石油連盟、日本海員組合等の民間団体の強い要望で行われた」と議論を展開し(同上)、「当時、ほとんどの日本人は多額の資金協力が米国に十分評価されていないと感じていたし、憲法見直し論は自民党ばかりか野党、労働界、マスコミからも噴出していた」と記している(同上)。小川の議論から見えてくる当時の政治力学は、首相であった海部以上に、自民党幹事長であった小沢の方がより強い影響力を持っていたというものである。

五百旗頭は、小沢個人の影響力というよりも、湾岸戦争に際して日本が問われたことは「日本人の国際認識の枠組みそのもの」だったとしている(五百旗頭 2016、230頁)。五百旗頭は政党間の関係に着目し:

国民の圧倒的多数が自衛隊を容認するに至ったが、野党第一党の社会党を中心とする革新勢力は、強固に自衛戦争と自衛隊を否定し続けた。しかも野党第一党の原理的反対は、国会の機能を麻痺させることができた。米国の安全保障の下で、通商と経済の仕事を全うすることを最重要と考える政府与党は、現実に沿った安全保障政策を提起して野党を刺激することを避けてきた。その結果、戦争か平和か、軍国主義復活か民主主義か、侵略か自衛かといった、激しくはあったが観念的な1950年代の二分法の議論に国民の安全認識はとどまっていた
(同上、230-1頁)

と論じている。この議論はパイルの議論といくつかの共通点がある。一つは、戦後から一貫して積極外交を展開しなかったことにより、激しい国内政治対立を日本は経験してこなかったというものである(パイル 1995、215頁)。それに加えて、海部がリーダーシップを発揮できなかったことにより、「湾岸戦争をめぐる議論は、多国籍連合軍に対する資金協力の規模、自衛隊派遣の可否、およびその活動許容範囲など、表面的な問題をめぐって展開」されたとパイルは論じている(同上、220頁)。

こうした事態は、日米関係を重視する政治家たちに同盟崩壊の危惧を抱かせることになった。また、湾岸戦争における国際貢献が限定的であったという考えにより、いかに国際的なリーダーシップを発揮できる国家にしていくのかという議論を再び呼び起こすものとなった(同上、208頁)。

結果として、日米関係は崩壊するどころか、拡大強化されることとなった。1996年に日米安保を再定義する共同宣言が出され、日米同盟はアジア太平洋地域における安全保障体制の中心的役割を果たしていくこととなった(五百旗頭 2016、306-7頁)。


海部にリーダーシップはなかったか?

先行研究では、湾岸戦争を巡る外交的な決断について、海部が政治的な権力やリーダーシップを持ち合わせていなかったことが描かれている。しかし、いくら小沢の影響力が強かろうとも、海部がほぼ無力だったような論調には違和感がある。海部は当時の首相であり、普通に考えれば、その立場に見合った影響力はあるものだろうし、その立場はやはり無視できないはずである。

海部本人の回想からは、湾岸戦争への対応に際して、国際貢献と日本国内の問題とで難しい判断が求められ、その対応を巡って非常によく考えた上で行動していたことが伺える。曰く、国連加盟国であるクウェートに対して武力を行使したイラクは許されるものではなく、「日本は、国連や多国籍軍をフルサポートするべき」だが(海部 2010、117頁)、憲法の観点から、武力行使からは離れなければならない。結果として海部は何もしなければ日本は国際社会から孤立してしまうため、「西側諸国の一員として、また日米同盟の同盟国として、するべきことと、できることを実行していくしかない」と決断している(同上)。ここからは、他の政治家の意向を受けた受動的なものというよりも、むしろ海部自身の決断やその姿勢が能動的なものであったことが伺える。

また、海部はブッシュとの直接の電話について、ブッシュが日本の憲法を踏まえた上で軍事的な支援の要求ではなく、当時のアメリカが最も必要としていた資金面での援助を依頼してきたことを記している(同上、117-8頁)。ここからは、決して日本側の人的支援や軍事的支援は当初から求められていたわけではないことが伺える。そして、実際に湾岸戦争への対応として、海部は他国と比較しても迅速に対イラク経済政策を決定するなど、やはり能動的に国際貢献に向けて決断していたことが改めて伺える(同上、120頁)。先行研究には実際の日米の首脳間での合意や考えなどが反映されてこなかったように伺える。確かに、実際に日本に対して人的・軍事的支援を行わないことへの批判が発生していたことは事実であるが(同上、122頁)、国際社会全体や世論などの反応は必ずしも政策決定の実態を映すわけではない。海部の回想を通して伺える政策決定の実際は、批判と共に築かれた通説とは異なり、少なくとも海部本人の考えと決断が明らかに日本の外交方針を決定する役割を担っていたということであり、その発見は無視できないのではないだろうか。


また、政党を巡る理解についても、海部の回想を踏まえると少し先行研究を踏まえた通説に修正の必要があることが分かる。海部は国会が「二手に分かれて紛糾した」と記している(同上)。どういった形で二分したかについてはパイルの議論と大部分が一致するが、具体的に誰がどういう考えを持っていたかについて海部は詳細に記しており、それを受けての回想を踏まえると、どうも日本の外交的な決断の背景を考える上では、通説的な二項対立に落とし込んで理解することは適さないように思われる。武力行使を容認する考えを持っていた政治家の急先鋒は元首相の中曽根康弘、自民党幹事長の小沢、当時の大蔵大臣 橋本龍太郎らであったという。武力行使容認派は自民党の主流派であり、「声なき声はこちらが大多数だった」と海部は回想する(同上)。そして、「今日まで我慢してきたのだから、ここが千載一遇のチャンス、この際「やれ」ということだ」とそうした主流派の考えを指摘した(同上)。海部は、「「千載一遇」の言葉を聞いた時、私は、瞬時に満州事変を連想し不吉を感じた」と回想している(同上、123頁)。海部は、小沢も属していたそうした陣営とは考え方を共有していなかったことがここから伺える。

逆に批判的だったのが、当時の外務大臣 中山太郎、元官房長官の後藤田正晴らであった。彼らは「やるな、やれば蟻の一穴になる」と、心をいましめ」ていたという(同上)。上述の主流派とは考えを同じにしていたわけではないが、人的貢献の必要性を重視していた海部は反対の立場であった中山や後藤田と考えを同じにしていたというわけでもない。海部の考えは従来的な二項対立で説明できるものではなく、どちらかと言えば独自の考えを持っていたことが伺える。

また、自民党以外に社会党との関係についての海部の記述に目を向けると、五百旗頭の議論とは齟齬があることが浮かぶ。海部は「社会党は、いつものように「やるな。もしも、やるならこちらの見せ場を作れ」」と記している(同上、123頁)。この記述からは、少なくとも海部の目からは、社会党が五百旗頭の論じたような形では政治力学を持ち合わせていなかったことが示唆される。

以上から指摘できる点は以下の通りである。もしも本当に回想録から得られる海部の実像と思われる示唆が正確ならば、これまで通説として考えられてきた湾岸戦争を契機にした日本の国際貢献に向けた外交的な決断についての理解には、大きな修正が必要になるかもしれない。


終わりに代えて

本校は、もとより勉学だけが高校生活のすべてではないというメッセージを、授業の場のみならず、さまざまな自主活動を通じて、発信してきました。また本校の長い歴史のなかで、そのような校風を培ってきました。
(quoted in 毎日新聞 2022

先日のおぞましい、そして愚かしい事件を受けて東海高校が出した声明の一部である。個性と自主性、自由を尊重する学風はこの学校に根付いて教育の根幹を担っていた。もしも強制的な教育と学力向上を教育と念頭に置いているならば、「放牧場」と言ってしまった方があの学校の実態に近い。

あの学び舎から巣立った人間には独特の空気感や匂いのようなものがある。芯が強く、めんどくさいひねくれものも多かったりするが、基本的には根が優しく純粋で、大きなことはできなくとも自分の手が届く範囲で他者の役に立とうという考えを持っているような気がする。そして「興味ないね」的な感じでそれを見せずにスカして恰好をつけていたりする厄介な連中である。自分は海部にそれを感じる。感覚的な論点を持ち出して申し訳ないが、こういうのは意外と大事だと思っている(Madsbjerg 2017)。

先行研究と通説は、海部を十分に理解したものではないと思う。もちろん、海部の実像を描いても、それが歴史にとって重要とは限らない。海部の胸中と思考、行動は大事だが、それがすべて社会の動きに反映されるわけではない。重要なのは、社会においてどうそれが意味のある動きだったか、そしてどれだけ説得力をもって歴史的に意味があったと言えるかだと思う(Carr 1961)。であるならば、海部本人についての理解だけでなく、当時の政治力学の実際をもまた十分に通説と先行研究が捉えられていないのではという観点は無視できないはずである。

繰り返しになるが、自分は外交史の専門家ではないし、国内政治の専門家でもない。政治家の人生に興味もなければ、むしろどちらかと言えば政治嫌いな人間である。だから、通説の海部像を批判し、より適切と思われる解釈に向けた道筋を示すことが学界や学知にどれだけ意味があることは分からない。しかし、自分は無視できない重要な論点だと考えるし、我々の湾岸戦争や日本外交への向き合い方は今日を契機に少し変わることもあるのかもしれないと思っている。


そして最後に。
見知らぬ一人の後輩から、偉大な先輩に弔意を。


参考文献

Carr, E.H. What is History?: The George Macaulay Trevelyan Lectures Delivered in the University of Cambridge January-March 1961. Penguin Books, 2018.
Madsbjerg, Christian. Sensemaking: What Makes Human Intelligence Essential in the Age of the Algorithm. London: Abacus, 2017.
五百旗頭真『戦後日本外交史』有斐閣、2016年。
海部俊樹『政治とカネ 海部俊樹回顧録』新潮社、2010年。
小川彰「安全保障政策のアクターと意思決定過程:一九九一~九八年」外交政策決定要因研究会『日本の外交政策決定要因』PHP研究所、1999年、127-78頁。
佐橋滋『異色官僚』社会思想社、1994年。
城山三郎『官僚たちの夏』新潮社、2014年。
鈴木敏夫『天才の思考 高畑勲と宮崎駿』文藝春秋、2019年。
多賀敏行『「アラブの春」とは一体何であったのか 大使のチュニジア革命回顧録』臨川書店、2018年。
ケネス・B・パイル『日本への疑問 戦後の50年と新しい道』加藤幹雄、サイマル出版会、1995年。
吉田真吾「安保改定の起源 ―一九五五~一九五八年―」『東洋文化研究所紀要』160巻、2011年12月、79-125頁。





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