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名もなき花より

桜という女は、たった1人の男に愛されたかった

彼女は、田舎の見晴らしだけがいい丘で、ポツンと佇んでいた

そこに変わらず居続けることが天命だと、彼女は思っていた

桜吹雪のある日、1人の男が近づき「あなたはとても綺麗だ」と抱きしめた

最初こそ躊躇していたが、次第に鎖が溶解し、桜は数百年の眠りから覚めたように咲き乱れた

誰かに簡単に染まる白ではなく、自己主張ばかりの強い原色ではなく、誰にも侵略されない薄紅色が最も美しい

その感性をわかってくれる人が存在したことが、何より嬉しかった

何が美しくて、何が醜いのか

自我に付随する美意識を思い出した桜の、その強い想いが人々に乗り移り、

日本の各地で植えられ、毎年、毎年、圧倒的な美しさを見せつけるようになった

今年より来年、来年よりその次の年

ワイン用のブドウは天候に左右され、ヴィンテージ(収穫年)の出来を楽しむものだけれど、桜に関しては、いつも去年以上のパフォーマンスを、常に上の美しさを提供する

雨が降って例え短期間だったとしても、美しさのレベルはいつも去年より上

脅威だと思う

恐ろしいほどの美への執着だと言える

ただ、名もなき花である私は、知っているの

あの美しさは、

あの時の男が翌年から姿を見せなくなったからだと

ありのままの私を美しい、と言ったあの人がなぜ現れなくなったのか

桜は自問した

そして、ふくよかに咲き誇ってみたり、しなだれるように咲いてみたり、月や光や太陽や菜の花や、ありとあらゆる手を使いながら、あの人が現れるのを待った

もっともっと美しくなれば、現れるはず

また、私を抱きしめてくれる

だが、いくら待っても、願いは叶わない

その強い愛は同時に憎しみも生み出した

「刹那で美しい」と鑑賞する人々を

「どんなに綺麗だと賞賛しても、季節が変われば、私のことなどすっかり忘れて、海だ紅葉だ初雪だと大騒ぎ、満足する。季節を堪能することが美しい? 入学式やらの人間が作った行事と一緒に映ることと、何が関係しているのか? 神が作った枠で一喜一憂する愚かな人間め」と唾を吐き、

7日間、全力で人間を嘲笑う蝉に激しく共感する

同時に「美しいと言われる私は蝉よりマシだ」と蝉を見下し、己のその愚かさに、吐き気を覚える

副産物としての美しさがある紅葉には激しい嫉妬を覚え、

この短い期間でいかに美しくあるべきかと、常に自問自答している自分と比べる

そして、こんな小さく醜い女だから、あの人は現れないのだと結論づける

たった1人の男を求める強いその気持ちが、

同時に対極の強い強い怒りや憎しみ、恐怖を生み出す

桜は生であり、死でもある

故に墓地との相性がいいのだ

さて、名もなき花である私は

桜の花びらが舞う帰り道で、今日小さなお別れをした

竹蜻蛉のようにくるくる回るあの人に、わずかな毒を吐いた

窒死するほどの毒は持ち合わせていないので、

それは単なる帰り際の挨拶にしかならないかもしれないけど

私の美意識に感性に興味もなく、愛でることもできないのなら

終わりにするのが必然だ

桜にとってのあの男と同じく

私の美しさを見つけ、解放したのは

この男に間違いない

荒ぶれることなく、精一杯姿勢を正して自分の意見を言うのは

美と常に向き合う桜道を歩く、せめてものの礼儀だろう

そもそも私は名も無き花なのだ

大勢の人が気に留めるわけではない

桜ほどの絶え間ぬ努力はしていないけど

その美しさにひどく共感し、自分の美意識を再確認する

桜ほどの怖さも美しさも持ち合わせていない

けど、今日は通りすがりでもいいので、そっと私を愛でてくれませんか


名もなき花より





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