あまりにも当たり前のことだが、我々は我々の幸福のために生まれたわけでもないし、生きているわけでもない。

 我々の肉体や精神や思想や思考や幸福や感情は、我々自身のためにあるのではなく、わかりやすく言えば自己複製子の増殖のため、厳密に言えばランダムに変異した自己複製子のうち適応したものが生き残った結果である。
 すなわち、我々の肉体や精神や思想や思考や幸福や感情は、自己複製子の自己複製のために存在し、我々自身の存在のために存在するのでも、我々自身の幸福のために存在するのでもない。
 それどころか、我々の幸福や不幸といった感情や、思考についても自己複製子の自己複製のために存在する。厳密に言えば、このような感情や思考を持った自己複製子が突然変異でランダムに生成され、偶然か必然かは不明だが生き残り、複製を完了した(=生殖した)自己複製子の乗り物(ヴィークル)が我々であり、全ての生命体である。
 自己複製子は複製プロセス終了後のヴィークルについては何の考慮もしない。厳密に言えば自己複製子には複製プロセス終了後のヴィークルに対するアプローチが存在しないし、その必要もない。
 ここで、『この文章における自己複製子とは、遺伝子であり、ミームを含まない』のではないか、と大半の読者は気づくだろう。確かにその通りである。この表現を用いたのは無機的な印象を与えるためである。

 さて、このことを元に考えると、『生きていればかならず幸福になれる』や『生まれたことが幸運』という言葉の空虚さがわかるのではないか。
 我々は自己複製子のヴィークルに過ぎないし、自己複製子によって感情や思考を定義されている存在なのだから、自己複製の目的を達し得ないヴィークルが幸福になるわけではない。むしろ自己複製子は『不幸』のスイッチを入れ、自己複製のための行動に向かわせるだろう。結果?わからないが、おそらく『不幸』のスイッチが入り続けるのではないか。
 救いがあるとすれば、自己複製子は学習やパターン認識という効率の良いシステムを利用しているため、それを悪用(自己複製子側から見れば)して幸福を得ることができるということである。

 個人レベルで『勝てない』(=現代社会の淘汰圧に適さない)自己複製子を受け取った場合についての議論はしばしばなされる。突然変異によるものか、遺伝的要素によるものかはこの際問題ではない。
 個人レベルで勝てない個人的要素を受け取った場合、すなわち『生まれたときに受け取ったカードが弱い』場合は、その生存は悲惨なものとなる確率が高い。その際どのような行動を取るかは自由であるが、生存が悲惨なものとなる確率が高いことを考えに入れて行動するべきである。つまり、一般的に『弱くはないカードを受け取った』人、『強いカードを受け取った』人とは行動原理が異なることも十分あり得る。

 世の中の法律やルールは、大抵が『強いカードを受け取った』人が考えるものなので(代議制である以上避けられない)、彼らが『受け取ったカードが弱い』人の事を考えたとしても、実際のニーズとは合致しない場合がある。

 話を元に戻すと、我々は自己複製子によって、たまたま(突然変異と自然淘汰によって)生き残った形のヴィークルを与えられた存在であり、目的は自己複製である。
 また、現代社会における淘汰圧は自然淘汰が機能する速度とはかけ離れた速度なので、我々が与えられたヴィークルはいわば『型落ち』である可能性がある。
 このような状況において、自己複製や、幸福の追求が可能であるだろうか?私にはそうは思えない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?