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内田篤人選手現役引退に寄せて

その知らせは突然だった。
リモートワーク中、Twitterトレンドに「内田篤人」の文字。もしかして。一瞬脳裏によぎってしまった考えは、すぐに現実として突きつけられた。

「内田篤人選手現役引退のお知らせ」

衝撃は叫びとなって、部屋に虚しく響いた。

なぜ今、と混乱する一方で、そっか、いよいよ右膝が限界だったのか、と冷静に頭が回る。

「無事これ名馬」
著書の中の一節にこの言葉が出てきたなと、ふと思い出す。その言葉が信念としてあるのなら、怪我に悩まされた本人にはきっと想像できないくらいの苦悩があったはずだ。それが、現役引退という答えに辿り着かせたのだろうと思うと、腑に落ちる感じがした。

様々なニュース記事が内田選手のサッカー人生を振り返っているが、一向に読む気になれない。TwitterやInstagramで何か思いをツイートしようとも思えない。TLに流れてくる公式アカウントや、苦楽を共にした選手仲間からのツイートにいいねをするので精一杯だった。本当に衝撃を受けたとき、人間は無気力になるらしい。

人が書いた記憶で振り返るのは、思考停止になるから嫌だなと思って、何の記事も読まず、自分の記憶だけで振り返ってみる。振り返り切れないし、事細かに覚えていない部分もあるけど、思いつく限りで書いてみる。内田篤人は私の青春だった。


内田篤人選手を知ったきっかけ

私が内田選手を応援し始めたのは、今から8年前の2012年。
ルーキーの頃から応援している人からしたら、現役生活の半分くらいしかリアルタイムでは知らない訳だが、それにしてももう10年近くも経つのかと思うと感慨深い。

きっかけは日本代表の試合だった。
ちょうど体育でサッカーをやっていたタイミングで、W杯ブラジル大会に向けたアジア予選があり、テレビ中継を見て、サッカー観戦にどハマりしたのである。

ザックJAPANの一員として右サイドバックを担っていたのが内田選手だった。当時は酒井宏樹選手が台頭していて、スタメン争いをしていた記憶がある。

好きになったきっかけは単純で、顔がかっこよかったから。今更否定しない。だが、彼を知れば知るほど、ただのイケメンサッカー選手じゃないということを痛感していき、次第に人生を変えてくれような存在になっていった。


計り知れない影響

内田選手が本当にかっこいいのは考え方や内面の部分で、当時中学生だった私は、内田篤人という人間に強く惹かれた。大好きなサッカー選手という存在を超えて、人間として尊敬するようになっていった。心酔、もはや崇拝かもしれない。著書はもちろん何度も読み返し、サッカー雑誌やスポーツ雑誌にインタビューが掲載されるとなれば、発売日にコンビニや書店で購入。一言一言噛みしめるように読んだ。自分自身やチームが置かれている状況を俯瞰し、冷静に鋭く、時にユーモアを交えて語る彼の言葉に、どんどん心を掴まれていった。思春期の私の本棚は、アイドル雑誌やファッション誌ではなく、サッカーダイジェストやnumberで埋め尽くされていった。朝のルーティーンは朝刊のスポーツ欄のチェックだった。内田選手の記事は必ずスクラップした。どんなに些細なものでも。

思えば、自分の考え方のベースは篤人からの影響がとても大きい。かっこいいと思う生き方のスタンスは全て彼から学んだ。「サッカー選手にならなかったら学校の先生になっていた」と言うけど、私の生き方の先生は内田篤人だと言っても過言ではない。

飄々として、あまり感情を表に出さない。
でも、心の内には熱い思いを持っている。
誰よりも結果にこだわる姿勢。
努力は見せるものじゃない。
さらっとすごいことを成し遂げる。
不言実行。虚心坦懐。淡々黙々。

高校受験や大学受験、就活。人生で乗り越えなければならない壁に立ちはだかった時、彼の言葉や考え方が心の支えだった。大学受験の時にはお守り代わりに、彼のユニフォームを制服の下に着ていった。座右の銘は著書の中で知った「虚心坦懐」をもう何年も拝借している。

もちろん、ここまでサッカー観戦を好きになったのも内田選手の影響だ。最初は日本代表の試合ばかり見ていたが、徐々にJリーグにも興味を持つようになり、元々内田選手がいたからという理由で鹿島サポーターになった。身体を張って自陣を守り、時に駆け上がって攻撃の起点となるサイドバックというポジションの魅力を教えてくれたのも内田選手だ。サイドバックが1番かっこいいポジションだと、今もずっと思っている。華々しい点取り屋のFWもいいけど、それを後ろで支える守備の妙・おもしろさを知れたのも、彼がDFだったからだ。

印象深いエピソード


こんなことあったな、印象に残っているエピソードを語り始めれば枚挙にいとまがない。たくさんのメディアが彼のサッカー人生を振り返っているから、個人的に印象深いことをいくつか挙げようと思う。

ブラジルW杯出場を決めたときには、仲良しの吉田麻也選手とツーショットインタビューだった。あの世代はドイツやベルギー、オランダなどでプレーしていた選手が多くて、仲も良くて、いつも微笑ましかった。本人はブログやSNSでの発信をしないから、仲間の欧州組(特に吉田選手)のブログが試合以外での生存確認の場だった。代表が招集されれば、散歩隊の写真が各々のブログにアップされるのが楽しみだった。

シャルケ時代、CL予選だったと思うが、クロスがうっかりゴールに吸い込まれたときには、チームメイト全員が駆け寄って、大男たちにもみくちゃにされながら祝福されていた。他にもゴールやアシストを決めたとき、誰よりもチームメイトからの祝福が手厚いものだったように感じる。天性の人たらしとでも言おうか、嫌味なく誰からでも愛される人柄は羨ましくもあった。

誕生日が同じ、ノイアーとの絆。
兄弟みたいだったドラクスラー。
ファルファンとの右サイドはチョコレートライン。
華麗なクロスで何度もアシストを決めたフンテラール。
削りにいってブチギレされた内田を守ったパパドプーロス。
懐かしいシャルケの面々。内田選手がドイツでプレーしていたからドイツに興味を持ったし、少しだけどドイツ語の勉強もした。

CL、レアルマドリードとの一戦では、クリスティアーノ・ロナウドとマッチアップ。深夜にアラームをかけて、目を擦りながら必死に試合を見ていた。そのとき驚いたのが「足元を見たらダメだから、目線を見ていた」と試合後に語ったこと。試合中の写真には、その言葉通り、カッと目を見開き、クリロナの目線の動きを掴もうとしていた姿が収められていた。サッカー経験はないから、プレーの話は正直よくわからないけど、プロとしても一段階違う次元の人なんじゃないかと思った。

代表戦でのパフォーマンスが不甲斐なく、ハーフタイムのロッカールームで泣いていた清武選手に、涙が止まるまで寄り添っていた優しさ。

「日本はアジアだからW杯に出れるんだろ」と当時のチームメイトに言われたと語ったときの悔しさ。

シャルケを退団するとき、Uschi!とスタジアムを熱狂させ、チームメイト全員と握手とハグをするシーンを見て、それくらいリスペクトされていた存在だと改めて感じた。海外のサッカークラブでここまで愛された日本人選手は後にも先にももういないんじゃないかと思う。だって、この引退に寄せても、古巣シャルケから愛のこもった言葉が送られている。

鹿島に帰ってくるという知らせは喜びと少しの寂しさをもたらした。まだまだヨーロッパの舞台で活躍する姿を見たかったと思うのは、ファンのエゴだ。

鹿島帰還後、初めて現地で観戦できたのはアウェイ川崎戦だった。「あの内田篤人がJリーグでプレーしている…」と感情的になり、試合内容そっちのけで背番号2を目に焼き付けていた。

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悲願のACL制覇、20冠達成を大きく引き寄せた準決勝でのゴール。勝たせる選手、を体現した瞬間だったと思う。


1番の思い出、ブラジルW杯


私がリアルタイムで知る、内田選手の1番の思い出は、やはり2014年のブラジルW杯だ。2010年の南アW杯での悔しさは既に沢山の人が語っているため割愛するが、その悔しさを晴らすべく「W杯の借りは、W杯で」と語って挑んだ決戦。私が、内田選手のファンになってからブラジルW杯までの約2年間の記憶は、いつまでも色あせることはないだろう。

直前1月か2月の試合で膝に怪我をした瞬間。センターサークル付近に倒れ込み、眉間に皺を寄せて交代を要求する姿は今でも鮮明に脳裏に焼きついている。

過酷なリハビリの末に「拾ってもらった」とメンバー入りしたブラジルW杯。決戦の地への出発前最後の壮行試合・キプロス戦で決めたゴールは一生忘れられない。そしてリハビリを支えた早川コーチの元へいち早く駆けていった姿も。常に周りへの感謝を忘れないところに、また人間としての素晴らしさを感じた。

悲願のW杯、初戦コートジボワール戦での国歌斉唱で堪えていた涙。TVの前でもらい泣きをした。正直、期待通りとはならなかったザックJAPANの戦いだが、あのメンバーの中で誰よりもいいパフォーマンスを見せていたのは内田篤人だと、断言できる。

W杯後、一度だけ日本代表の試合で内田篤人の姿を拝む事ができた。ゲーフラも作った。ただ、日本代表としてのプレーはその試合が最後になってしまった。日本代表に招集されずに、膝の治療に専念できていれば…と何度も何度も思った。


ラストマッチ、引退会見を見届けて

幸運なことに、最後の試合を現地で見届けることができた。アップの時点からぐるぐる巻きの右膝が痛々しかった。最後に10分くらいプレーしてくれるかな、そのためにもリードした状態で後半を迎えてくれよと思っていた。しかし、願望通りにはならず、先制点を許してしまう。そんな展開で、チームメイトの負傷からの交代出場。最後まで、ドラマをつくってくれるなと、そういう選手なんだなと感じざるを得なかった。

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このご時世、いつもとは違う、チャントの響かないスタジアム。右サイドからチームメイトへ檄を飛ばす肉声が確かに聞こえた。絶妙なパス、ゴールを期待させる大胆なクロス。一瞬一瞬を見逃すまいと、右サイドを駆け上がる姿を目に焼き付けた。アディショナルタイム、粘りに粘った本当のラストプレーがゴールの起点になるとは、本当に最後の最後まで飽きさせない選手だった。

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試合後のスピーチ。受け入れられたようで、まだどこか信じられなかった感情に、現実が突きつけられる。淡々と語った、引退を決断した経緯。言葉の裏に悔しさが滲んでいるようで、色々な場面が浮かび、涙が止まらなかった。「もうひと花、ふた花……」と言っていたけど、先輩から引き継いできた鹿島アントラーズの選手としての魂をもって戦う姿を見せてくれただけでも十分だったんじゃないかなと思う。

引退会見は見れなかったので、全文掲載された記事で内容を知る。活字を追いながら、目の奥がグッと詰まる。話したこと全てに感想を言っていては、ただでさえ長ったらしいこの文章がさらに長くなるからやめておくが、冷静な語り口とクスッとしてしまう絶妙なユーモア、ドキッとさせるくらい核心をつく言葉は「内田節」そのものだった。

全てが終わって、晴々とした表情は明るい未来を予感させた。これからも、形は変われど、鹿島や日本サッカー界に影響を与え続けてくれるに違いない。


最後に

内田篤人選手、間違いなく私の人生に大きな大きな影響を与えてくれた偉大な存在です。サッカー選手ではなくなってしまうけど、人間・内田篤人を一生尊敬し続けます。本当にありがとうございました。14年間の現役生活、本当にお疲れ様でした。

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(代表時代に作ったゲーフラ。シャルケカラーだけど、最後スタジアムで掲げられてよかった)

思いばかりが先行した、ぐちゃぐちゃな文章を最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございます。

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