【和歌で学ぶ古文2】春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山
今回紹介する和歌は、「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山」という和歌です。
作者は持統天皇で、以前紹介した「秋の田の」の作者、天智天皇の皇女にあたります。
かなり有能な天皇だったらしく、『日本書紀』では、「深沈で大度(深く落ち着きがあり、度量が大きい)」、「礼を好み節倹(贅沢はしない)」、「母の徳有」、などと評されています。
持統天皇の歌として伝えられている歌の数は、片手で数える程度ですが、今回紹介する「春すぎて」の歌はかなり有名で、この歌をもとにしたと思われる和歌が、現代にいたるまで数多く残されています。
そんな有名な本作は、どのような意味を持つのでしょうか。早速見ていきましょう。
意味
春が過ぎて、夏がすでに来ていたらしい。(夏になると)真っ白の衣を干すという、天の香久山(に、真っ白い着物が干してあるよ)
夏になると真っ白の衣を干すといわれる天の香久山に、真っ白な衣が干されているのを見て、夏の到来を知った、という意味ですね。
天の香久山と真っ白な衣、という雄大な風景を、夏の風物詩とみなして詠みあげた一首、ということができそうです。
学びポイント
ポイント1.来に
学びポイントの1つ目は、「来に」です。
「来」と「に」の1文字で、それぞれ意味を持ちます。
「来」は、漢字で見るとわかるように、「来る」という意味。
「に」には、いろいろな意味がありますが、ここでは「完了」の意味を持ちます。
いろいろな意味を持つ文字の識別は、前後に接続している言葉で判断できますが、今回の場合は、「に」の前に「来る」の連用形「来」がついていることがポイントになります。
「に」の上に連用形がある場合、その「に」は完了の助動詞「ぬ」の連用形であることが確定します。
そのため「来に」は、「来てしまった」という意味を持ちます。
ポイント2.けらし
学びポイントの2つ目は、「けらし」です。
「けらし」は「けるらし」が省略された形です。以下、「けるらし」で文法解説をします。
「けるらし」は、「ける」と「らし」の2単語で構成されています。
「ける」は、過去を意味する「けり」の連体形、「らし」は推定を意味する「らし」の終止形です。
なぜ、「けり」が連体形の「ける」に活用しているかというと、推定を意味する助動詞「らし」の上は連体形、と形が決まっているからです。
このように、動詞や助動詞といった活用する語句は、後に続く言葉によって形を変える、というのが古文、現代語を問わない日本語の特徴です。
少し細かい話になってしまいましたが、「けらし」は過去と推定を意味するので、組み合わせると「~したらしい」という意味を持つことになります。
ポイント1の「来に」と合わせて、ここでは「すでに来ていたらしい」という訳にしてあります。
ポイント3.てふ
学びポイントの3つ目は、「てふ」です。
「てふ」は、「といふ」という言葉が省略された形になります。
意味はそのまま、「~という」になります。
ちなみに、「てふ」という文字、は音に直すと「ちょう」になります。
「てふてふ」と書いて、「蝶々」と読んだりするのと同じですね。
同じような読み方の変化に、「けふ」と書いて「今日」と読むものもあります。
鑑賞
この歌は、新古今和歌集が出典なのですが、元となる歌は万葉集に収められています。
春すぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香久山
違いが、2句と4句にあります。
まず、2句の違いですが、「らし」は一緒なので、「来にけり」と「来たり」の違いになります。
「たり」というのは「に」と同じ、完了の意味を持つ助動詞ですので、大きな違いは「けり」の有無、すなわち、視点が現在にあるか、過去にあるかの違いです。
割と直接的な表現を好む万葉集時代に比べて、過去に視点を向けた遠回しな表現を好むのが新古今和歌集の時代なので、そういった時代の流行に合わせて改変された、と考えるのが妥当でしょう。
4句も似たような改変で、「たり」が「てふ」という遠回しな表現に変わっています。
天智天皇の「秋の田」の回でも言及したのですが、昔は著作権などなかったので、時代の風潮に合わせた改変というのは頻繁に起きていました。
今でいう歴史ものの二次創作、といったところでしょうか。
万葉集と新古今和歌集の時代では、400~500年ぐらいの間がありますので、このような有名な和歌が改変されるというのも、自然なことなのかもしれません。
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