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自分の撮ってる写真ってなんだろう ?

「どんな写真を撮っていますか?」

写真をやっている人なら一度はたずねられたことがあるのではないでしょうか。「風景が多いです」とか、「人を撮るのが好きです」だったり、「ストリートスナップしてます」という人もいるでしょう。

このようにたずねられたときに被写体について答えるのだと思うのですが、じゃあぼくは一体なにを撮っているのか?

いまだに答えに詰まる自分がいます。そして、ひとまずこう答えます。

「家族写真と風景を撮っています」

間違いではないのですが、なにかしっくりこないんです。写っているもの(被写体)はそうかもしれないのですが、そのものを写すというよりもその先の、写真を見た人が感じるもの(こと?)を撮っているというか。なんだか意味不明ですね(笑)

日常とか生活を撮っている。ということにしても良さそうなのですが、記録的な写真はあまり撮らないし、そもそも日常の中で撮っていても日常そのものを撮っているという感覚はないです。うーん、書いていて自分でモヤモヤしてしまいました。

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被写体を決めて撮ると飽きてしまう

あくまでぼくの場合ですが、今日はこれを撮るぞって決めることはしません。(もちろん仕事として撮るときは置いておいて)ロケーションを決めて撮りに出かけることもほとんどないです。もっと言ってしまうと、もはや写真を撮るという目的で外出しなくなってしまいました。

それでも必ずカメラを抱えて出かけます。

撮るものを決めなくても、撮りたいと思う瞬間は結構あるんですよね。逆に一日中出かけて一枚も撮らなかったなんてことも割とあります。こんな重たいもの持って行かなきゃ良かった!ってすこーしだけ後悔します(笑)

じゃあ、撮りたいと思う瞬間ってどんなときなのかと考えると、儚いものだったり、懐かしいものだったり。それは一人でいるときより、家族といっしょにいるときに訪れることが多いように感じます。

つまり、撮りたいと思う瞬間=心の琴線にふれるとすると、ぼくの場合は家族といるときに琴線にふれることが多いみたいです。こうして文字にして気持ちを整理してみると、子供のころからのいろんな記憶をファインダー越しに探しているのかもしれません。

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私写真が作品になるには

撮影者の身のまわりの事象やプライヴェートな出来事などを題材とした写真のこと。1970年前後の日本の写真界には、戦後に隆盛を誇ってきたリアリズム写真や、ヴィジュアル・ショックを重視する広告写真の潮流にあらがうかのように、大文字の「私」に頼ることをしない、個々人の私的な立場からのアプローチを試みる写真が次々と現われた。荒木経惟の『センチメンタルな旅』(私家版、1971)などは、撮影者自身の私生活を被写体にした写真の代表的な例であると言える。そうした傾向の写真を呼ぶための言葉として、小説のジャンルのひとつである「私小説」との類似から、この呼称が使われ始めた。

アートワード https://artscape.jp/artword/index.php より参照

アラーキー良いですよね。昔は全然ピンとこなかったのですが、「写真は愛だ。」っていうのがようやくわかるようになりました。

自分の写真はまさに私写真と言えそうです。でもそれって家族写真とか記念写真となにが違うのでしょうか?果たして作品となり得るのでしょうか?

個人的には、普遍性がひとつのカギなんじゃないかなと思っています。ぼくの写真を見た人たちが、自分のことのように感じて見てもらえたら嬉しいです。もちろん、家族写真や記念写真ってそれだけで意味があって、撮る理由なんていらないものなんですけどね。その辺りが写真ってよくわからないと思わせる一因になっている気がして興味深いですね。

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最後に

今回は自己紹介がてら、自分の写真を分析してみました。あらためて自分の撮っている写真を言い表してみると、

「家族を通じて心に触れたものや時間を撮っています」

ということになるのかなあと、いまは思ってます。そしてその心に触れたものが、ぼくや家族を超えてみんなに共感されるものであったならいいなと思うのです。それは仕事の撮影であっても常に意識していきたいと感じました。

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