九州観光記2019

2019年9月20日~23日の4日間、九州を巡った。
今回の旅における主目的は水俣の街と歴史を少しでも知ることであったが、想像以上の体験をすることができた。

水俣体験記に絞って書いたほうが読みやすくなると思われるが、私自身の記憶をなるべくつながりのあるものとして書き残しておきたいのと、読む人に何かしらの情報となるものがあるかもしれないので、今回の旅の経過を特に体裁を整えずに書き連ねることにした。

以下の文章は9月23日、9月29日にそのほとんどがメモとして書かれ、10月20日に全体を振り返りながら加筆修正されたものである。

■9月20日(金)熊本

成田空港を17時に出発し、19時に阿蘇くまもと空港に到着した。

機内では、幼い女の子が母親に抱きかかえられながら飛行機こわいと涙ながらに訴えていた。いったん落ち着いたかと思うと、時々また「こわい~」と声をあげていたが、着陸した直後に「飛行機ありがとう」と言ったのが微笑ましかった。

預け入れの荷物はなかったのでゲートを出てそのままバス乗り場に向かった。バスの行先をざっと確認し、熊本駅行きのチケットを購入してリムジンバスに乗り込んだ。40分ほど経つと繁華街に至り、私の目的地としていた場所がその辺りから行く方がむしろ近いことが分かり、熊本駅まで乗り続けることはせずに、「桜町ターミナル」で降車した。広場ではラグビーW杯のパブリックビューイングがやっていた。

はじめて降り立った熊本市街は、市電や商店街がにぎわっており活気があるように感じられた。そこから白川へ向かい、雨に濡れた草むらを踏み分け川べりに辿り着いた。しばし眺めた後、銀座通りを歩いて通り抜けて、「天下天」本店でチャーシューメンを食べた。何かのイベントからの帰りがけでやって来たと思われるスーツ姿の男性客集団や若者たちや、観光で来た様子のカップルなどが並んだ。10人ほどが入れるカウンターは満員だった。アジア系の店員数名と店長らしい髭を蓄えた男性がきりもりしていた。ラーメンを食べ終わり、その日はそこから宿へと向かった。

■9月21日(土)①熊本~水俣

2日目は朝から熊本城へ。
一部崩落した馬具櫓を眺め、加藤清正像を見上げた。開店前の横丁(城彩苑 桜の小路)を通って未申櫓の目の前までやってくると、そこから先は通行止めとなっていた。二の丸広場には部活動中らしき学生たちが大きな木の周りに集まっていた。広場の先にある戌亥櫓もかなり崩れていた。歩道は立ち入り禁止のロープが張られアスファルトは苔むしていた。

そこから足早に加藤神社へ行き、木々の隙間から熊本城を見上げ、急ぎ上熊本駅へ向かった。わが輩通りに出るまでにはかなりの落差があり、坂道を駆け下りた。駅で市電の1DAYフリーパスを購入し、始発の路面電車に乗り込んだ。新町駅で下車。坪井川のあたりをうろうろし、宗教施設があったり、日本家屋で何かイベントがあったりしたのを横目に街中を歩き進んだ。20分としないうちに、呉服町駅から市電に乗り込み、市役所前で下車。

風が強くなっていた。

熊本市役所の14階にあがると、家族連れや女性客2人組など6~7名ほどが点々とフロアにいた。ネット情報の通り、やはり穴場らしくかなり空いているという印象。フロアからは四方を見渡すことができ、空港方面や鹿児島方面の市街を一望した。熊本城が工事中である様子など全体をはっきりと観ることができた。しばらく展望を楽しみ、地上へ降りてから「城見の水」を飲んだ。

その後、水前寺前に行ったが、時間的に水前寺公園を観て回ることはできなかった。白川近くにある徳富記念園も行きたい候補の一つだったが、改修中ということと時間がないことで断念した。大通りの様子をぐるりと見まわしてはみたものの、駅前からの移動はほとんどせずに終わった。サニー水前寺店でカレーパンなどを買った。無人レジが導入されていたが、PayPayが使えるのは有人レジのみだった。JR新水前寺駅のホームはドーム状になっていて錆が目立った。

そこから熊本駅に着き長大で美しい黒色を湛えた武者返しの駅舎を眺めた。何となく駅舎を東口、西口の両方から観ることにした。両者とも駅前を開発中であり、西口はやや閑散としたタクシー乗り場で、近くに高層マンションがある他、原っぱもちらほらと見えた。その後、おみやげエリアを見ることなく、すぐに新幹線に乗り込んだ。改札を入ったあとホームに向かう前に、お茶の試飲をさせて頂き、そこの店員さんと二言三言を交わした。

熊本駅から新水俣駅までの所要時間は約30分だった。
駅を出てすぐ西のほうに雲仙岳が見えて心が動いた。

ちょうど良い距離感というか、熊本と長崎の近さが体に伝わってきた。
いつか長崎にも行ってみたい。スマホの充電や腹ごしらえをしているあいだにあっという間に新水俣駅についた。観光案内所でレンタルサイクルの一時利用の登録をし、待ち合わせの時間まで駅周辺をぶらぶらとしていた。

■9月21日(土)②水俣まち案内

相思社の「まち案内」に参加した。
職員の方が13時に新水俣駅に車で迎えに来てくださった。他の参加者と合流するため、まずはエコパーク水俣へと向かった。私を含めて参加者は4人。簡単な自己紹介を済ませ、竹林公園を歩いた。どうやらそれぞれのバックグラウンドは全く異なるようだった。公園は休日だが人気は少なかった。伸びている竹は、水俣にある7種類の竹らしい。

歩きながら様々な話を聞いた。

劇作家で水俣病に関する演劇作品を作られ自身も演じられた砂田明さんのこと。ヘドロ以外のエリアは、居住地など土地開発用に埋め立てたのであり、埋め立て時期が異なっていること。埋め立てた廃棄物のすべてが硫化水銀(メチル化水銀よりは溶出しにくい)になっているわけではないこと。廃棄され沈殿したヘドロを引き上げる浚渫(しゅんせつ、土砂を浚うこと)は埋め立てのために必要であるが、それによって沈殿物が巻き起こって海の水が濁ってしまうので住民の反対があったということ。年2回、水銀の曝度測定が現在でも行われていること。

しばらく進むと、百間排水口があった。ここでは立ち止まって話を聞いた。目線の先にある排水口は、干潮時と満潮時の水位の差でゲートが開閉し水が流れるという。逆流防止の機構になっていて、干潮時に排水が向こう(ゲートの奥)から流れ出てくる。百間排水口は、満潮が12時55分頃なので、私たちが着いたのはちょうど過ぎたころだった。かつてポンプ小屋の番人が付近にいて排水が流れるのを見ていた。ヘドロの色は、黒ではなく、赤かった。

その頃、船を百間港に繫留(けいりゅう)しにやって来た舟人たちがいた。彼らは、ここに停泊すれば、一晩でフジツボが死ぬと聞いて集まってきたのだ。フジツボが付くと、10個で約3ノット(時速5.5km)減速するからその効果は大きい。フジツボを死滅させるのは、港へ注ぎ込む排水であった。

1体のお地蔵があった。新潟水俣病とのつながりを示すものだった。お地蔵は新潟県を流れる阿賀野川の石で作られているという。実は水俣病の裁判が先に始まったのは新潟だった。ルポルタージュ作家の土本典昭さんは水俣のドキュメンタリーを数多く制作した。その中でチッソ社長にあぐらをかいて向き合ったのが川本輝夫さんだった。その川本さんが望んでいた水俣病巡礼八十八ヶ所のうち一番札所がまさにこの地であった。

車で少し移動。水俣病資料館の先にある親水護岸に来た。恋路島が近くに見えた。水俣湾埋立地の地図と歴史的背景を記した看板を前にした。そこで聞いた話。かつて、有明海で第3水俣病が起きたのではないかという新聞報道があり、社会不安が広がったこと。もうひとつ。最近では、魚介類に含まれるメチル水銀の含有量を調査していること。その結果、特定の魚種、キス、ベラなどは規制値以下となっている。しかし、0.3ppmというメチル水銀の規制値は、マグロには最初から適用されない。なぜなら水銀を多く含むことが分かっており、計測すれば規制値を超えてしまうからである。

護岸は3段降りると足場の向こうはすぐに海だった。岸に沿って目を向けると、きれいな波状に設計されていた。御所浦島、獅子島、長島、そのときはどの島がどれかとはっきりとは分からなかったが、目の前に広がっている天草諸島をゆっくりと眺めた。恋路島はかつて隔離施設だった。石牟礼道子さんのお婆さん(おもかさま)を想起させるエピソードが実際にこの島にはあった。足元にある護岸、それは有害物質が漏れ出ないように鋼矢板(こうやいた、鋼製の矢板、板状の杭のこと)で囲われてできていた。護岸建設当時、その耐腐食年数は50年だったが、熊本地震の後に調査した結果、さらに40年使用可能になったという。

台風17号の影響で停泊中の大型船が見えた。
内海である不知火海は穏やかだった。

浚渫(しゅんせつ)によってプランクトンが死滅したために、潮の香りがしないのだという話を聞いた。はっとした。さきほどから海の静かさや穏やかさに感じ入り、風景に見入っていたが、言われてみると確かに潮の香りがせず、そのことに衝撃を受けた。この旅で最も印象的なものの1つとなった。

獅子島の島民で産気づいた婦人がいると水俣の産婆のところへ連れて行ったという。水俣と島々の関係性のイメージが膨らんだ。そして水俣病患者たちの話も聞いた。ここから見えているあの島々にかつて患者がいて、今もいるのだということが強く感覚された。

海沿いの少し盛り上がった丘の上に、2メートルほどの距離を空けてぽつぽつとお地蔵さんがたたずんでいた。どうやら水俣病に関わってきた人たちの手作りのものらしい。当時、この場所の利用について、埋め立てた土地を遊園地にしようという意見もあった。しかし、水俣病で苦しんだ人たちを思い、自然と手を合わせる場所にしたいという願いが今の形になったという。医師の原田正純さんや茂道の漁師さんの手によるものもあるそのお地蔵たちに、魂を入れる火祭りが毎年行われている。

慰霊碑の前に来た。水俣病に認定された人の名前が鍵付きの石碑に記載されている。慰霊式と慰霊祭はその趣や携わる人々が異なる。市が主催する慰霊式については、自ら患者だと手を上げて闘ってきた人たちからすると、未認定の人々は今になって出てきたと見えて心持ちがよくない。当時声を上げた患者たちは、水俣のイメージを悪くするという非難を市民から浴び、それと闘ってきて今日に至るのだ。しかし近年では未認定の人々も名前を入れていいのではないかという意見も出ているという。

行政による水俣病認定患者数は2280人。それに対し、1995年の政治解決策で救済された人々、2010年の水俣病特別措置法によって救済された人々、保健手帳から水俣病被害者手帳への切替を申請した人々、細かくみればさらに分かれるが、現在でも申請者のうち未認定のままでいるのが約6万人だという。

今年(令和元年、2019年)は5月1日の慰霊式が延期となっていた。そして半年後のちょうど先日、10月19日に慰霊式は営まれた。(NHK産経新聞

エコパークをあとにし、JNC工場の脇を通り、丸島漁港へと向かった。チッソの完全子会社であるJNCは、水俣病補償業務以外のすべてが事業譲渡され、化学品の製造販売を行っている。丸島漁港からさらに先へと進んでいくと、かつて揚浜式で作られた塩田が広がっていた塩浜地区があった。ちなみに揚浜式は人力で海水をとりこみ、入浜式は潮の満ち引きを利用して塩を作る。

塩田の端っこを車で通った。なぜチッソがこの地に社を構えたかという理由と塩田は実はつながっている。水俣では漁業だけでなく塩の生産も生業としていた。それが国による専売制になったために、自分たちで勝手には作れなくなった。さらに収益から公益へと国の方針が変わり、価格も下がり、塩田で働く人々は仕事がなくなった。その結果、チッソ誘致に至ったのだった。

さきほどから通ってきた道が、大廻の塘(うまわりのとも、土手のこと)であった。石牟礼道子さんの作品で描かれている、石牟礼さんが幼いころ、狐の真似をして飛び跳ねた場所である。その土の下には今では廃棄物カーバイドの残渣が埋まっている。

途中、「喜楽工業」という看板が見えた(言葉のつながりで、私が2019年8月に訪れた豊田市の喜楽亭を想起させた)

水俣川河口付近の八幡廃棄物プールまでやってきた。このあたりは植樹をしても大きくなると枯れるらしい。根が伸びると廃棄物にまで届き、化学物質の影響を受けるのだ。このプール跡地では、岸壁の道の部分だけがいつの間にか水俣市に寄贈されていた。それで市が管理しなければならなくなったという。砂利の下にあるものは何か。ドラム缶に汚染魚が詰められ廃棄された。  

土地の歴史を聞いた。「猿郷」はかつて低く見られていた場所で、チッソの幹部社員は城下町である「陣内」に住んでいた。Wikipediaで調べてみると、水俣城は江戸時代には廃城となっていた。しかし、土地にはその名残があった。今でもそれがあるという話だったか。これは朧気な記憶だが、八幡プールから百間へと排水場所が変更されたのは、塩田側だと川の氾濫などで排水が工場に流れ込むことがあるからだった。しかも八幡から百間、そしてまた八幡と、水俣病の原因を特定するまで排水を停止するという措置を施すこともなく、チッソはその場しのぎに排水場所を変え続けた。この点も強く印象付けられた。

水俣は熊本以南で電気が来たのが一番早かった。チッソは元々、曽木電気という発電会社だった。水俣大橋を越えて水俣第一小学校の近くを車で通ったとき、校歌の話になった。「華咲く煙」という語が入っているという。チッソによって町が発展するという正の面と、工場で爆発が起きて付近の建物のガラスが割れたり、工場の煙でむせたりするという負の面が浮かび上がる言葉だ。巨大企業が地元へ恩恵をもたらすと同時に一番の被害をも発生させうるということに、改めて思いを馳せざるをえなかった。

肥薩おれんじ鉄道を越え、山道を進んでいるとき、今通っている道(県道?)はなくなり、高速道路が通る予定だという話を聞いた。茶畑やミカン畑が広がっているのが見えた。かつて漁師だった人々はやがて新たな職を始めたのだった。和紅茶が水俣の名産らしい。山の中腹で車を止め、水俣市街を眺めた。九州電力の電線とチッソの電線が並走しているらしかった。チッソの大きさが窺い知れる。恋路島も少し見ることができた。

山を下り、田んぼの近くを通ったとき、イノシシの道が見えた。稲穂全体がなぎ倒されているのではなく、つぶされた箇所がS字のようにうねっており、明らかに台風によるものではない。この近くではよく出るという。車は袋湾、そしてその先の茂道へと向かっていた。

茂道へ着いた。ここにはかつて洗濯場があった。海は、深い緑が美しかった。とても静かで、地元の子供たちの明るい声がときおり遠くから聞こえてきた。恵比寿崎には茂道松という特有の木が広がっているらしい。かつて天草から茂道へと移り住んだ網元が4人いた。網元は言わば親方であり、親方のところへと網子が集まり、集落を形成していった。「いりこ」を並べて干したりした。漁だけでは生活が不安定なので、漁師たちは生計のためにミカン山を作り始めたのだった。

海には「たこくらげ」がぷかぷかと浮いていた。海の色に隠れているような感じだったが、1匹見つけると、そこにもいる、ここにもいるという風によく分かるようになって、全部で10匹くらいは視認できた。原田医師のエピソードを聞いた。彼は茂道の漁師さんに送迎してもらったことがあり、その際、漁師さんが袋駅へと歩いて送ってくれるのかと思いきや、水俣駅まで船で送ってくれたという。港町らしい、不知火海らしいエピソードである。

■9月21日(土)③水俣病歴史考証館

茂道をあとにし、相思社へ。
歴史考証館を見学させていただいた。

印象的な写真が目に入った。大人の女性と子供たち。この子供たちの両親は水俣病に罹患し入院中で不在であった。そのため子供たちの母親のお姉さんが面倒を見てくれているのであった。しかしこの時代、最新の情報が正確に伝わるのは難しい側面がある。かくして、子供たちは大好きで美味しい魚を食べてしまう。水俣市の坪谷(つぼたん、坪段とも)は、地理的に畑が作れなかったことも食材の種類が少ないことの遠因と思われるが、やはり水俣と海や魚は分かちがたく結びついていた。

パネルに目を向けた。不知火海は「米びつ」だったという。九州本土と天草諸島に囲まれたこの海は漁師たちにとって、たくさんの種類の魚がとれる豊な漁場であり、常に生活とともにあって、切っても切り離せないものだった。

漁師道具が並んでいた。漁師にとって水俣病の苦しみは病気それ自体だけではない。器用さが奪われた。手が震えてしまうことよる、道具を作れない悲しみもあったのだ。

チッソは、曽木発電所の余剰電力でカーバイド工場の操業を開始した。そこから次第に発展を遂げていった。三菱では間に合わないという中でチッソへの期待が高まった。興南工場へ進出し、爆発的な事業拡大を行った。チッソは積水化学や旭化成の母体ともなった。

細川一医師の手記があった。故郷へ帰るという選択。

「空白の9年」について。水俣病は終息したとも取れるチッソの主張が新聞紙面に載った。それで安心して魚を食べてしまった人々もいた。沈黙の年月が続き、やがて再び体の異変が人々に出始めた。もう水俣病が終わったのだとどうやって知ったのか。人々は何を信じたらよかったのか。

猫の小屋。高さ1メートル大、横2メートルほどの実験用設備である。かつて病院からミカン農家の方へと譲渡され、そのまま放って置かれたものを奇跡的に相思社で回収できたという。私がその小屋を目の前で見たとき、思っていたよりも大きいという感覚があり、全体が赤茶の鉄錆に覆われ年月を刻んでいる様子が見て取れた。猫小屋の実物を見ることができたということも、この旅の最も印象に残るものの1つとなった。

続くパネル。水銀説を否定する科学者がいた。有毒アミン説。腐敗アミン説。現在では熊本大学研究班により、アセトアルデヒド製造過程で排出されたメチル水銀化合物が、魚介類を通して濃縮蓄積し、人体に摂取されて中毒性の中枢神経疾患を引き起こした、ということが確定している。(アセトアルデヒドは酢酸エチルの合成原料となる。酢酸エチルは、塗料の溶剤、食品添加物、防虫剤、薬品として使う)

公害認定されるまでに多くの歳月を必要とした。

川本輝夫さんは、救済運動に尽力し、ともに血判を押そうとチッソ社長に直に訴えた。当時、排水は違法ではなかったから、チッソからの見舞金という形で患者に支払われたが、患者はそれを受領する際に、今後一切要求をしないという誓約書を書かされた。難しい裁判が続いた。チッソの負債は現在2000億円近くになっているという。

1つ1つのパネルが重く受け止めるべき内容だった。妊婦の母に栄養のあるものを食べさせたいという自然な思い。栄養は母体を通して胎児にいく。そのことが胎児性水俣病を引き起こすことになった。今でも病名の変更を訴える人々がいる。水俣の過去を消し去りたいという思い。イメージの漂白と語り継ぐ意志が闘っている。

ハイヤ節。長崎から熊本へ。

■9月21日(土)④火のまつり@水俣病資料館

日程がちょうど合い、第24回火のまつり(西日本新聞)に居合わせることができた。19時前に資料館に着いた。例年はエコパークで開催されるが、今回は雨天というか台風17号のため、水俣病資料館のホールが開催場所となった。屋内なので、火は使用できず「祈りの火」はLEDライトで代用されていた。

語り部の話や、祈りの火が壇上へ供えられるなど、しめやかに営まれる一方で、奉納演奏だったと思うが力強い太鼓が披露された。それから合唱が行われ、1曲目の地元の歌のようなものは、ふむふむと門外漢ながら聞いていた。その後、2曲目の「ふるさと」は知っている曲だったので途中から私も口ずさんだ。そして、何となく迎えた終盤に待っていたのが「水は清き故郷」という歌詞であり、ここで人々が合唱する歌声の高まりもあって、不意にこみ上げるものがあった。

火まつりは1時間ほどで終わり、あまり遅くまではいられませんとの館内アナウンスが流れて、人々は次第に退場していった。階段を降りると、川本輝夫さんと旗野秀人さんの絆などに関する企画展(西日本新聞朝日新聞日経新聞)が催されていて、少しの時間だけ鑑賞させていただいた。最後、出入り口で「水俣の塩」「菜の種」などを頂いた。

私が普段の生活で見聞きし感じている範囲では決して到達できないものが、水俣の街と歴史の中にあった。

■9月21日(土)⑤水俣病センター相思社

袋にある「貝汁味処南里」で貝汁定食を食べた。わっぱめしも捨てがたかったがまたの機会に。21時ごろ相思社へ戻ってきた。雨足はかなり激しくなっていた。

この日は私を含め3人が宿泊されていたが、合宿所の大きな部屋を私1人で使うこととなった。畳の上に座って、打ち付ける雨の音、風に揺れる戸の音を聞いていた。風呂場を利用する際、巨大な蜘蛛がいらっしゃったので、身をよじりながら急ぎ風呂に入って足早に出てきた。相思社は歴史的な重みがある一方、仏壇や布団類、衣装ケース、台所、縁側などがいかにも民家というか合宿所というか親しみを感じさせるもので、鴨居に掛けてある絵や写真を眺めたり、今日1日を振りかえったりしながら広い空間で時を過ごした。0時前には眠りについた。

翌朝、6時ごろ目が覚めた。風は吹いているものの、雨は時々ぱらつく程度で台風の勢いがやわらいでいるようにも思われた。もっとも昼には再び強まることになるのだが。同宿の方が台所で読書をされていて、二三会話をしたのち、外へ出た。曇り空は動きが速かった。茂みと民家の先にわずかに不知火海を見ることができた。あの島は恋路島だったろうか。

その後は、棚にある本を読んだ。「水俣の経験と記憶―問いかける水俣病」執筆者それぞれの立場から編まれた文章のうち、熊本大学教授の田口宏昭さんの章を記憶に留めた。直接水俣病に関わってこなかったとしつつも、自らの経験や考えを明らかにしながら水俣とのつながりを言葉つむいでいて素晴らしいと感じた。

9時過ぎに考証館を再び見学し、10時頃に相思社をあとにした。

■9月22日(日)①水俣 蘇峰記念館

新水俣駅でレンタルサイクルを借りた。時刻は10時半。3分ほど様子を見たが、風の勢いはまったく収まらず、意を決して自転車をこぎだした。新水俣橋の近くにある蘇峰記念館へ着き、中へ入ってみると台風の中なんと開館中とのことで職員の方に応対して頂いた。それだけではなく、展示物について詳しく説明して頂いた。失礼ながらあとでそのご年配の男性に館長ですかと聞いたところどうやらそうではないらしく、いろいろと勉強中であるとのことだった。

蘇峰記念館は、昭和9年、淇水文庫として建てられた。淇水は蘇峰の父、徳富一敬の号である。築90年を数え、八代以南で初の鉄筋コンクリートの建築物であった。蘇峰の生家はこの地、水俣にあるのだが、兄弟のうち蘇峰だけは益城(2016年熊本地震の被害が大きかった地域で熊本市の隣町)で生まれた。母親の久子は、蘇峰への男子としての期待が心苦しいと思い、自身が目の病気を患っていたこともあって、子供を連れて実家に帰った。もし次の子が女の子ならば、もう徳富家には戻らないと覚悟を決めた。年表をたどりながら、そのような話を聞いた。

同志社を設立した新島襄は、蘇峰が尊敬していた人物の一人であった。新島襄はニューイングランドにあったアンドーヴァー神学校で教えを受けた。(職員の方はニューイングランドという地名が思い出せないからとわざわざノートを事務室へ取りに行って調べ、教えてくださった)

蘇峰は優秀で飛び級だったが、8歳で退学した。母の久子は近所の貧しい人々を分け隔てなく世話した。このエピソードを聞いて私は福沢諭吉の母を思い出した。徳富家は、水俣の「浜」にある生家から「大江」に移住した。ここで、私が前日に熊本市街を巡っているあいだに行くことができなかった「徳富記念園」が、徳富家の水俣からの移住先であることを知り、2点がつながった。蘇峰は、熊本の大江にある家に置いてある不要なものを捨てていったら部屋が空いたので、家計の助けにしようと大江義塾を開校した。

館内は空調がなくだんだんと暑く感じてきたところで、職員の方が団扇を貸してくださり、ご自身は手ぬぐいで汗をぬぐいながら説明を続けて頂いた。2階へ上がる。

熊本英学校時代、ジェームズ先生は種苗(しゅびょう)、たねものを輸入し、育て方を教えたという。蘇峰は英語ができなかったが、先輩に教わるうちにキリスト教にはまっていった。熊本英学校生が決起集会を開いたあとに蘇峰も学校をやめて、同志社へ入った。

大江義塾の閉校?後、旅から帰ってきたら、家族からお前には奥さんがいるからと言われ、紹介された人が嫁として既に入っていて、親族まわりも済んでいたという。結婚などに無頓着な蘇峰とその家族らしいエピソードの1つとのことだった。蘇峰の姉が横井小楠に嫁いでおり、関係が近かった。蘇峰は、秘書の八重樫に数多く手紙を送り、筆まめでありとても気遣いが厚かった。

蘇峰も弟の蘆花もはじめ平民主義だった。しかし日清戦争後、蘇峰は視察(中国の旅順?世界旅行?)に行ったことによって、三国干渉で遼東半島を返還せざるを得なかった日本の状況を肌で感じ、富国強兵政策に切り替わった。そのあたりから、あるいはもともと、兄弟は相いれない性分があり、蘆花は姓の徳富に、点のない「冨」の字をあてていたというエピソードがあるほどであった。徳富の家系の方が最近亡くなられたらしく、遺品整理で出てきた書を、一箇所に集めた方がいいと思うので引き取ってくれないかと蘇峰記念館に連絡があったという。

校長の新島襄は、休学した生徒に対する他の生徒からの不満が出たとき、自分の身体をたたいてみせた。勝手に休んだ生徒に罰則が必要だという意見に対し、彼らは悪くない、ということを示すためだった。蘇峰は、勉強できるやつ、できないやつを陰ひなたなく応援し、学校側と折衝したこともあった。

思いがけなくも職員の方に親切に対応して頂き1時間ほども滞在してしまったのち、雨の中を次の目的地に向かって自転車を進めた。

■9月22日(日)②徳富蘇峰・蘆花の生家

蘇峰記念館から10分ほどで到着。受付には2名の方がいた。こちらでは妙齢の女性にいろいろと説明をして頂いた。

床は「タブノキ」でできた板。囲炉裏が部屋の端っこにあるのは、この家では台所にいる人でも近くによって温まれるようにしていたとのこと。

庭には、「カタルパ」という木が植えてあって、新島襄がアメリカから持ち帰ったものだという。また、天草の石が使われているらしく、だんだん状の表面に雨が濡れて趣があった。

鮫島白鶴(幕末の書家だが、なぜこの名を私がメモしていたかは思い出せず。掛けてあった書の言葉が気になったか)

蘆花の「ホトトギス」「みみずのたはこと」を読みたくなった。

生家であることを示すのに「棟札」が証拠になるらしく、それが残されていために市の指定文化財になっているとのこと。「はなれ」がちょうど工事中で見学することはできなかったが、いつかまた訪れたい。

その後、水俣市立図書館へ立ち寄った。ちょうど入館したそのとき雨足がまた一段と強まった。しばらく雨宿り。M'sCITYに行ってチキン南蛮弁当を食べた。和紅茶のコーナーがあったのでお土産として買った。JNC正門に行った。何の変哲もない工場の入り口。しばらく眺め、反転して道路を渡った。水俣駅で自転車を返そうとしたが、操作ミス(そのときは装置の不備だと勘違いしていたのだが)によって返却が受け付けられず、新水俣駅まで急ぎ戻ることとなった。肥薩おれんじ鉄道に乗車してみたかったが残念ながら叶わず。のぼり坂を電動自転車で駆け上がり、新水俣駅に到着し、ようやく返却。みなまた観光物産協会を5分ほど見てまわって、14時22分発鹿児島中央駅行きの新幹線に乗り込んだ。

■9月22日(日)③水俣~鹿児島

新水俣駅から鹿児島中央駅へは「さくら」でわずか35分ほど。駅前広場に出ると、風は依然として強く、ときおり雨が強烈に打ち付けてきた。

まずは大久保利通生家へと歩いて向かった。傘をさし、10分ほど進んでいくと、駐車場の角にひっそりとそれはあった。

そこから甲突川(こうつきがわ)にかかる橋を渡ったところに、昨年の大河ドラマ「せごどん」のときに作ったものと思われる西郷隆盛と大久保利通の上半身像を映したパネルがあった。

川沿いに進み、維新ふるさと館へ入場。この時点で16時くらいだったと思うが、見ごたえのある内容のすべては見切ることができなかったのが心残り。島津家の成り立ちや大奥についてなど多数の展示があり、16時30分からは人形劇が25分間上演された。衝撃的な場面に使われる雷の演出に昭和感があったけれども、西郷を中心にして様々な登場人物が語り掛ける様子は見ごたえがあった。ポストカードを数枚購入した。

退館時間になり外へ出ると、雨、風がともに強まっていた。
円形広場から川沿いに歩いて大久保利通像の前へ。

そこから天文館へ歩いていき、アーケードを散策した。東京で行ったことのある「いちにいさん」の本店らしき場所を発見。宇宙ミュージアムは数年前に閉店しているらしかった。外目から見ると営業している様子だったが。

さらに足を延ばし、通りを抜けて中央公園へ。そこで鹿児島市コミュニティサイクル「かごりん」の存在を知った。ステーションで登録してその場で使い始めることができるらしい。いろいろと情報を得たので、翌日の朝に使うことに決めて、その日は付近を歩くことにした。

公園を抜けた先に城山があり、その手前に西郷隆盛像が5メートルほど上方にそびえていた。もうすでに日が暮れて曇り空が赤みがかっているところに、西郷像がライトアップされていた。しばらく眺めた後、歩道橋を渡り市民会館の側からも西郷像を観た。カメラ台が設置されていたので何となく使ってみた。風であおられて撮影できたりできなかったり。

同じ敷地の反対側に小松帯刀像があった。手に和紙と筆を持ち、先を見据える姿がかっこよかった。ちょうどホールから看板を設置あるいは撤去して軽トラックに運ぶ男性がいた。何かのイベントがあったのだろうか。

さきほどとは少し違う道を通って天文館を抜けた。セブンイレブン前に人だかりができていたので何だろうと覗いてみたところ、どうやらポケモンらしかった。市電を横切った反対側(天文館公園側)はリニューアル中らしく、公園までの通りは工事中の様子。途中で貝汁の店を見つけたがそこには入らずにホテルへと向かった。いったん外出し、夕飯は鹿児島ラーメン我流風(がるふ)にした。

ホテルへ戻り、ビニール傘は入口の傘入れに預けておいた。

■9月23日(月)鹿児島~博多

翌朝、8時にホテルを出た。空はすっかり晴れ渡り、すがすがしいまでの快晴。まずは天文館公園の「かごりん」をめがけて足早に進んだ。遠目から見ると残り1台。しかしステーションの前にはスマホを見ている人が1人いて、これから利用するのか返却するのか分からない状況だった。急きょプラン変更し、公園を斜めに横切り、海に近いステーションを目指すことにした。

早歩きで進む。いづろ通と大門口通りの交差点にあるステーションに自転車が複数台あることをスマホで調べて確認できたため、そこへ向かった。タッチパネルの反応が鈍いなど登録をするのに手間取ったが、なんとか借りることに成功し、桜島をその目で見ようとフェリーターミナルのほうへと自転車で走った。

出航を控えるフェリーの向こう、晴れ渡る青空に桜島が映えていた。ターミナルから引き返すときに、ウォーターフロントパークという場所があることに気付きしばらくそこにいた。NHK鹿児島放送局が近くにあった。城山を上る時間はないため、薩摩義士碑の手前まで向かうことにした。「かごりん」を返却し、鹿児島市役所前で市電を待った。

市役所前から鹿児島中央駅へ向かうときに、はっとして、ホテルに傘を忘れたことに気が付いた。その傘について、様々な思いがめぐったが、結局、この地を離れることにした。15分ほどで駅へ着いた。

鹿児島中央駅でお土産を物色。安納芋のお菓子などを購入。
テイクアウトでさつま揚げを買って新幹線内で食べた。

鳥栖を超えたあたりで空が曇りはじめ、台風の影響が九州北部ではまだ残っている様子であった。鹿児島中央駅を出発してから85分で博多駅へと到着した。時刻は11時半。

博多は、以前一度だけ来たことがあるのだが、その時どの辺りに来たか思い出せなかった。

ふだん利用しているHello Cyclingが駅の近くにあることが分かりレンタルすることにした。メルチャリのことはすっかり失念していた。メルチャリのアプリをインストールしてはいるが、その他の諸手続きを考えると時間も限られているので利用するのは難しかったかもしれない。メルチャリのステーションはとても多かったのでいつかまた来た時に利用したい。

キャナルシティ付近を通り過ぎ、とあるセブンイレブンでしばし雨宿りをし、そのあと清流公園のある三角州に辿り着いた。そこから博多ベイサイドポートへ行き、博多豊一で海鮮丼を食べた。博多ポートタワーは改修中だった。

バスで天神へ。バス停を降りると、ちょうどバスが4台ほど立て続けに入ってきた。京都のようなバスの街なのだろうか。天神の地上をわずか20分だけ周遊してから地下鉄へ。博多駅へ着き、新幹線の案内掲示板を確認した。新幹線ひかり広場がどんなものなのかと見に行ったら、意外とこじんまりとしていた。15時半から約5時間の帰路に着いた。

旅のリアルタイムツイート(主に写真)

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