開国前夜

鈴木由紀子(Suzuki Yukiko)著『開国前夜 田沼時代の輝き』を読んだ。江戸中期から後期にかけて名を残した9人の人物に焦点を当て、明治維新に至るまでの旺盛な知識欲、豊かな文化、様々な改革を描いている。杉田玄白の『蘭学事始』は以前読んだことがあったが、この本でも触れられた「腑分けの衝撃」は迫力があった。また最上徳内という探検家は、厳しい北の大地に繰り出して新たな発見と出会いがあり興味をひかれた。当たり前のことではあるが、この時代は現代よりかは人の死がありふれたものであり、それゆえに一人ひとりが何のために生きるのかを問いかけ様々な人々とのかかわりの中で身を処している。そのことを特定の人物や事件からだけでなく、本書全体から感じることができた。

以下は本書の長すぎる概要である。

序章 十八世紀後半の日本をとりまく国際社会

ここでは第1章から第6章までを通覧した概要が記される。
・自由をもとめる市民社会の台頭
・博物学の世紀
・中国文化の影響
・北方ロシアの極東進出

世界が産業革命、独立戦争と続いて市民社会が台頭するなかで、日本では大きな社会変動は起きずにいた。寛永(1624年~1645年)の鎖国政策によってオランダ以外との交流が禁じられたが、もっとも開かれた時代が田沼時代だった。「老中」と「側用人」を兼ねた田沼意次が、幕政の実権を握った明和・安永・天明にかけての時代である。

商人層が都市文化を享受する一方、地方の農民は飢饉で困窮した。そのような時代にも、田村藍水(らんすい)や平賀源内といった学者が西洋の技術を吸収していった。高松藩主・松平頼恭(よりたか)、薩摩藩主・島津重豪(しげひで)、熊本藩主・細川重賢(しげたか)や米沢藩主・上杉鷹山(ようざん)といった大名は博物学に熱心に取り組み、殖産興業につながる礎を築いた。

解体新書を翻訳した杉田玄白のほか、中川淳庵や桂川甫周(ほしゅう)、大槻玄沢といった人物が蘭学の開化に寄与した。中国の画家の影響は日本絵画に一大転換をもたらした。清朝の画家・沈南蘋(しんなんびん)は池大雅、与謝蕪村、円山応挙、伊藤若冲といった京都画壇に影響を与え、芸術表現の多様性を生んだ。

ロシアに漂流した日本人で名前がはっきりしているのは伝兵衛といい、ピョートル大帝は1702年、彼にロシア語を学ぶこととロシア人に日本語を教えることを命じた。探検隊を派遣し、カムチャッカ半島にまで南下した。エカテリーナ女帝の時代になり、日本への関心はさらに深まり、1778年に蝦夷本島の厚岸(あっけし)に来航し通商を求めた。松前藩は拒否したものの、事実を幕府には報告しなかった。

仙台藩医・工藤平助は危機を察知し、一刻も早く蝦夷地の全容を調査し、未開の大地を開発する必要があると行動に出た。意見書『赤蝦夷風説考』がまとめられ、田沼意次に提出された。1785年に日本最初の北方探検が開始されたが、江戸に戻った隊員たちを待っていたのは田沼政権の崩壊だった。1793年、ロシア使節ラクスマンが、伊勢の漂流民・大黒屋光太夫らの送還にことよせて根室に来航し、日本との通商をもとめてきた。もし日本が交渉に応じていたら、北方領土問題はこの時点で解決の道が見い出せたかもしれない。さらに田沼政権で蝦夷地開発と北方ロシアとの交易が開かれていれば、日本は明治維新を待たずに近代国家に生まれ変わっていたかもしれない。その下地をつくってくれたのは、田沼時代を生きた先駆者たちであった。

第一章 田沼意次(1719年~1788年)

一 光と影
・異例の出世をとげた田沼意次
・江戸のルネサンス
・杉田玄白が見た時代の闇

9代将軍徳川家重の時、田沼意次は本丸に移り、1746年に小姓頭取に昇進、1751年には側用取次にすすみ、1758年には1万石の大名となった。将軍に寵遇されて出世をした側近はたいてい将軍の代替わりで辞任するのが通例だが、意次は10代将軍家治にも信任され、1767年に「側用人」、1772年ついに「老中」となった。

浮世絵、歌舞伎、俳諧、戯作が花開いた時代、絵を好んでいた将軍家治に、意次は狩野典信(すけのぶ)を推薦した。暇を持て余した御家人が町人のように浮世絵などに手をそめ、商人をパトロンにして多くの文人が輩出したのは、まさに江戸のルネサンスともいえる文化の黄金時代であった。

杉田玄白のあまり知られていない随筆『後見草(のちみぐさ)』は、田沼時代の社会批評ともいえる貴重な記録である。当時起きた火事や、農民蜂起、打ちこわし、干ばつ、暴風雨、洪水、浅間山大噴火やその後の飢饉などが克明に描かれている。江戸の災害史ともいえるくらいの暗黒時代である。

二 田沼意次がめざした改革政治
・年貢増徴策の限界
・間接税の導入
・貿易の振興と鉱山開発
・新貨幣の鋳造と通貨の一元化
・輸入品の国産化
・巨大開発事業の失敗

8代将軍吉宗のもとで年貢による増収の限界を感じた意次は、9代将軍家重のもとで1758年に美濃郡上(ぐじょう)一揆を見事に裁いてその手腕が評価された。郡上藩が、それまでの定免法(過去の収穫を基準に豊凶に関わらず年貢を一定にする徴税法)から、農民側の負担が重くなる検見取法(収穫高に応じて年貢を決める徴税法)に切り替えて年貢を増収し、藩財政を立て直そうとし、農民の激しい抵抗にあったのだ。騒動の背後に幕府の要職者が絡んでいるとの情報もあるこの事件を審理したのが意次であった。

10代将軍に家治が就任すると、いよいよ意次の時代が幕を開けた。意次が執った政策は間接税の導入であった。流通段階ごとに組織された組合に営業の権利を認める代わりに、税を課した。また新たな経済活動に関する民間の献策も取りいれた。寛永の鎖国以後、貿易を縮小してきたこれまでの政策を転換し、意次は長崎貿易を拡大しようとした。その理由は、日本の鉱山資源が枯渇し、主要な輸出品である金銀が不足したためである。その代わりに銅や俵物を輸出した。貿易の拡大に伴い、銅山の開発を奨励し、あわせて銀山の再開発も進められた。

それまでの銀貨は重さが一定しないため、秤を使用していた。この不便さを解消するため、重さを表示した銀貨が鋳造された。使いやすさだけではなく通貨が一元化できるメリットもあった。江戸時代は金、銀、銭が独立した貨幣として成り立っていて、主に東日本では金、西日本では銀が使われた。名目は金貨という新たに発行された銀貨が東西経済圏で使われ「金安銀高」の相場で、物価に混乱をもたらしたが、次第に流通市場に定着していった。

原産地が中南米の薩摩芋は、17世紀後半に、中国から琉球を経て九州に伝わり全国に普及した。飢饉から人々を救い、救荒作物としてさかんに栽培されるようになった。吉宗は朝鮮人参の国産化にも力をいれ、本草学者の田村藍水は栽培法や薬製法に関する著作を書いた。そのほか様々な野菜や種子を輸入し国産化した。綿の実や白砂糖も重要な品目であった。

意次が最後の大仕事として取り組んだのは印旛沼干拓と、北方貿易をも視野に入れた蝦夷地開発構想であった。下総国の印旛沼の干拓工事は、利根川と接する部分を閉め、水を江戸湾に落として沼地を干拓し新田にしようという、江戸時代を通じても最大規模の開発事業である。意次は中断されたその工事を引き継ぎ、現地調査を踏まえたうえ再開したが、1786年7月、全工程の7割ほどのところで関東を襲った大雨による河川の氾濫で一帯は飲み込まれてしまった。8月24日、工事の中止が発表され、その3日後意次は辞職した。

第二章 平賀源内(1728年~1780年)

一 果敢に挑戦しつづけた鬼才
・独創的な仕事をしたいと願った自由人
・博物学全盛の申し子
・長崎遊学のあと辞職

本草学者、物産学者にして西洋絵画を描き、戯作も書けば浄瑠璃も書き、火浣布(かかんぷ、耐火布)やエレキテル(静電気発生装置)を製作した科学者でもあり、鉱山で採掘事業も手掛ける。まさに「江戸のダヴィンチ」だが、変人、ペテン師とも揶揄され、しまいには殺人で投獄され獄死するという生涯であった。すぐれた外国の科学や技術をとりいれて、国益に役立てようとする実利主義の気運は、型にはまらない独創的な仕事をしたいと切望する源内の野心をかき立てた。過剰なエネルギーを持つ源内のわまりには絶えず知的好奇心に満ちた人の輪があり、杉田玄白もその友人の一人であった。

太平記』を愛読し、からくりを造ったりなどした源内は、博物学全盛の当時、13歳で本草学を学び、26歳のとき藩主・松平頼恭(よりたか)に取り立てられた。その後、長崎遊学でまぶしいばかりの刺激を受けた源内はオランダ語を学び、次いで蘭学に取り組み、翌年帰藩した。讃岐に戻った源内は、本草学の完成を目指して江戸への旅立ちを決意する。源内は当時の職を辞したが、1年余りは讃岐にとどまった。故郷を発つとき、
「井の中をはなれ兼たる蛙かな」
と詠み、井の中の蛙で終わりたくはないと、すべてのしがらみを断ち切って新たな一歩を踏み出そうとする源内の、家族や友人への断ちがたい感情の表出がここに見て取れる。

二 江戸のマルチタレント
・新進気鋭の物産学者
・高松藩に再度辞職願
・『物類品隲』からオランダ博物学へ

江戸に上った源内は本草学の基礎となる儒学(漢学)の素養を深めるため、湯島聖堂に入学した。自ら提唱した物産会を通じて、源内は日本の未来を担うことになる知識人グループに仲間入りし、その輪をひろげながら才能を開花させてゆく。そんな中、源内は高松藩に再度召し抱えられ多忙をきわめたが、主君に随行した京都への道中で鳥獣草木貝など採集した。しかし異例の出世のあとで源内はふたたび辞職願を藩庁に提出した。まだ誰も成し得ていない物産学の道を究めるという野望に駆り立てられていたのだ。

源内は5回の物産会に出品された約2千品種のなかから、有望と認めた360種を選んで『物類品隲(ぶつるいひんしつ)』全6巻にまとめ、1763年に出版した。本草書としては異例なほど鉱物が多く取り上げられており、鉱山開発の動きを察知していた源内の鉱物への関心、またオランダ博物学への並々ならぬ関心などもうかがえる。

三 古今の大山師
・戯作者風来山人の出現
・秩父山中で石綿発見
・みごとにはずれた大博打
・二度目の長崎遊学
・非常の人の非常な死

『物類品隲』刊行の約4ヶ月後には戯作者として作品を発表した。文学に関心がいったのはどういうわけだろうか。文人仲間との交流だけでなく経済的な理由もあったと思われる。しかしもともと文才はあったのだ。『根南志具佐(ねなしぐさ)』は、当時の溺死事件をヒントに、閻魔大王が人気の女形に心を奪われる奇想天外な地獄もの。『風流志道軒伝』は、諸国遍歴譚で、仏教界の堕落ぶりを説いて修行の冒険に出るという、さながらガリバー旅行記である。

源内は、物産会つながりで中島利兵衛に案内されて、秩父の両神山にのぼり、石綿(アスベスト)を発見した。石綿を使って、香を焚くときに乗せる「香敷」を織ってつくったのが有名な火浣布(かかんぷ、耐火布)である。浣は洗うという意味で油や墨で汚れても火に投じればきれいになるということから来ている。石綿の発見から鉱山事業に手を出した源内だったが、結果が出ずに2年ほどで休山することとなった。

無性に本業に立ち戻りたい源内は、ふたたび長崎への遊学を決意する。その目的は知り合いの大通詞(通訳官)の吉雄幸左衛門を頼って、西洋博物書の翻訳を完成させることにある。さらに鉱物技術の新知識を得ることで、金鉱が駄目でも鉄鉱採掘ならいけると見込んでいた。しかし翻訳作業は途方もない困難で実を結ばず、変わり身の早い源内は、作業を幸左衛門に押し付け、長崎をあとにした。

源内が江戸に帰り着いたのは1772年の秋だったが、その年2月の大火で源内の留守宅は焼けてしまった。江戸と秩父を往復しながら、戯作も書くという生活を続けているうち、杉田玄白らが3年の歳月をかけて完成させた『解体新書』を知った。友人の偉業に喜びながらも心中は複雑であったろう。しかも鉄山もうまくいかずまたもや休山に追い込まれた。精神のすさみが作品にも生活にもあらわれることとなった。追い詰められた源内は細工物を売ったり、長崎から仕入れたエレキテルを復元して見世物にしたりして生活費を稼いだが長続きはしなかった。そしてついに1779年11月21日、神田橋本町の宅で殺傷事件を起こしてしまう。様々な言い伝えはあるが、発作的に人を切りつけて死亡させ、小伝馬町の牢屋につながれた。12月18日に病死し、死因は破傷風であったという。

当時の混乱する伝聞から人々の驚きと衝撃がうかがえる。特に志を共有した玄白の嘆きは深く、私財を投じて墓碑を建てようとし、墓碑銘を選び痛恨の思いを込めた句を彼に詠んだ。

第三章 杉田玄白(1733年~1817年)

一 医学者にして筆まめな社会批評家
・杉田玄白にとっての平賀源内
・得意の源内、迷う玄白
・くじかれた望み

玄白と源内は分野こそ違えど、日本における新たな医学、物産学を確立したいという共通の情熱があった。源内より5歳年下の玄白は、1757年の物産会で出会ったと思われる。会うたびごとに西洋学問について語り合った。オランダ語の書物を翻訳したかったが、江戸にオランダ語を読解できる人間は1人もいなかった。上記のことは、玄白が83歳で書き上げた回想録『蘭学事始』の記述であり、明晰な記憶力もさることながら文章も平易で読みやすい。

『物類品隲』や火浣布を世に出し注目を浴びて自由に生きる源内を、家業を継いだ玄白はうらやましく思ったことだろう。あるとき通訳の吉雄幸左衛門がオランダ製のタルモメートル(寒暖計)を見せてくれた。源内は一目見て仕組みを理解し、3年後には自作し、図や訳文を付けて世に披露した。いっぽうで玄白は日本橋に開業して9年目、33歳のときにようやく栄進し、先の見通しがついた。しかしまだ家業の医術や医学についていまひとつ確信が持てずにいた。

1766年の春、江戸にのぼったオランダ商館長ヤン・クランス(『蘭学事始』にカランスでしばしば登場する)、その付き添いで来た通訳官の西善三郎のところへ、玄白はあまり付き合いのなかった前野良沢に誘われて訪問した。オランダ語を学びたいという2人の望みを聞いた善三郎は、ただならぬ道だと諦めるように言った。しかし玄白より10歳年上の良沢は44歳にして一念発起し、長崎へ遊学した。良沢は吉雄幸左衛門らに師事しすさまじいばかりの執念で学び、江戸に戻ってからも「オランダ人の化け物」と語られるほどであった。玄白はオランダ語の習得は断念したが、医学に有用な知識は取り入れたいと熱望し、蘭書の挿絵や図を写し取った。

二 日本の医学界を一新させた『解体新書』の翻訳
・『ターヘル・アナトミア』入手
・運命の日
・艫舵なき船の大海に乗り出だせしが如く
・宛名のない手紙

1771年、同僚の中川淳庵を通じて高価な『ターヘル・アナトミア』を何とか入手した玄白は、何度も繰り返しページをめくって彼我の差を感じていた。その17年前、京都の山脇東洋らによって死刑囚の解剖が行われ、日本における最初の人体観察記録『臓志』が刊行されていた。関西の内科医ですら漢方医学の陰陽五行説による人体観を打破し実証主義を唱えているのだ。江戸で外科医に生まれた身として、この業で一家を起こすべきだと考えた。

同年3月3日の夜、町奉行からの手紙で腑分けに立ち会えることになり、淳庵や良沢らにも声をかけ、ターヘル・アナトミアを持参した。当時の腑分けでは医者が執刀するのではなく、執刀者が臓器を取り出して見せるだけで、医師は疑いをはさむ余地がなかった。玄白らは一つ一つ臓器を確認し、腸や胃の位置や形状に関して日本や中国の人体図が間違っており、蘭書がまったく正確であることを目の当たりにした。

人体の構造を知らずに治療してきたことへの自己批判と、それゆえに真の医学に邁進する決意を新たにした。腑分けという劇的な体験は、個別に模索を続けてきた3人を結束させ1つの目的に収れんさせた。腑分けに立ち会った翌日、3人は良沢の住まいに集まった。現在の聖路加病院の敷地内である。ときに良沢49歳、玄白39歳、淳庵33歳。

ターヘル・アナトミアの翻訳に立ち向かったが、舵なき船で大海に乗り出したがごとく途方に暮れるしかなかった。先人の苦闘に感動したのは福沢諭吉だった。諭吉は原本が消失した『蘭学事始』をたまたま手に入れ、1869年に刊行させた。

3人は互いに主君に仕える身で多忙な中、月に6,7回の会合をもった。たゆまぬ努力を続け、次第に1日10行、それ以上と訳せるようになった。1日の訳を持ち帰り、その夜のうちに整理し記録したのは玄白であった。その意気込みと統率力がなければ、個性的な面々をまとめて持続していくのは難しかったろう。

1年半ほどが過ぎ、いちおう翻訳の草稿ができたが、幕府の禁令に触れないかという不安はあった。出版に先立ち、見本にあたる『解体約図』で世間の反応を見ることにした。ちょうどそのころ奥州一関の医学生・衣関甫軒(きぬどめほけん)から宛名のない手紙が届けられた。同じ境遇、志を抱いた老医師・建部清庵(たけべせいあん)からのものだった。感激した玄白は最新の知識と情報で返書を書き、『解体約図』を付けて甫軒に託した。清庵の喜びようは「口は開いたまま合わず、舌は上がったまま下がらず、見開いた老いの目に涙があふれるばかり」だったという。2人はついに生涯会うことはなかったが、深い信頼で結ばれ、往復書簡を続け、それは門下生によって書物にまとめられた。

1774年8月、『解体新書』は刊行された。玄白は良沢に序文を依頼したが、蘭学に従事するのは真理を追究するためであり、名聞をもとめないと太宰府天満宮に祈願したのだと固辞された。良沢の意思が固いことを見て取った玄白は訳著の全責任を負うことを決意した。そしてついに万全の体制で世に送り出されたのだった。

第四章 島津重豪(1745年~1833年)

一 途方もない蘭癖大名
・将軍家から嫁いだ祖母竹姫の感化
・重豪の開化政策
・開明的な田沼意次と重豪
・田沼意次の失脚

オランダ商館長とも親交を持つ「蘭癖大名」島津重豪(しげひで)は生まれると同時に母と死別し、11歳で父を失った。養育したのは義理の祖母に当たる竹姫で、島津家と徳川将軍家との架け橋となり、その結びつきを強める役割を果たした人だった。

重豪は28歳のとき藩主として次々と開放的な政策をうちだしていく。薩摩人の容貌や言語のみならず喧嘩口論や殺傷などの粗暴なふるまいを何とか直そうと躍起になった。薩摩の閉鎖性を打破するため他国人の入国を自由にしたり永住や復縁も自由にした。蘭学への傾倒といい、革新的な感覚といい、田沼意次と重豪は親子ほどの年齢が離れていてもうまが合った。

1784年3月24日、父・意次と改革政治を行ってきた田沼意知(おきとも)が斬りつけられ死亡する事件が起きた。オランダ商館長ティチングの記録は、田沼父子の改革政治をはばもうとする反田沼派が、暗殺という手段に訴えた事件の核心に迫っている。そして息子を殺された意次にさらなる不幸が追い打ちをかけた。将軍家治が発病したのだ。いよいよ危篤状態となり日にちははっきりしないが記録では1786年9月6日に家治は死亡した。その後10ヶ月近く政権内部の田沼派と反田沼派の政争が続いた。

二 島津斉彬につながる知の系譜
・深謀なる隠居
・高輪御殿
・蘭学への傾倒
・大いなる遺産

1787年正月、重豪は44歳で隠居し、14歳の斉宣(なりのぶ)に家督を譲った。田沼意次の失脚が隠居を決意させた最大の理由と思われる。肌合いの異なる松平定信が老中に就任した場合の対立を避けるための方策でもあった。

1796年、重豪は人の出入りが絶えないので芝藩邸から高輪藩邸に移り、悠々自適の生活に入った。藩主の時から薩摩藩の文化向上に取り組んできた重豪は、多方面の書籍編纂、オランダ文化の吸収といった文化事業に後半生のすべてをそそぎこんでいく。

中国語を話せたという重豪は、中国文化に深い関心を寄せるとともに、オランダの文化に興味を持ち、商館長とも書簡を交わすほど親しかった。重豪が27歳の時に初めて長崎を訪れ、オランダ商館を訪問したが、ちょうどその年1771年は玄白らが『解体新書』の翻訳に着手した年だった。

日本の近代化は薩摩藩から始まったと言っても過言ではない。そこには重豪から孫の斉彬に至る知の系譜があった。高輪御殿には珍しい異国の鳥や動物もいたので斉彬の知識欲を満たしたことだろう。

1826年、重豪はシーボルトとの面会を果たし同行した斉彬も会見した。82歳の重豪はたいへん話好きで収集品の数々やはく製の方法を尋ねたりした。その後もオランウータンやイグアナ、ダチョウ、ウミガメなども飼育し庭はまるで動物園のようだったという。1833年、重豪は高輪御殿で89歳で亡くなった。豪放磊落な性格で死ぬまで精力的かつ知的好奇心全開の人生だった。

第五章 池大雅(1723年~1776年)と玉瀾(1727年~1784年)、只野真葛(1763年~1825年)

一 池大雅と玉瀾の超俗的な芸術人生
・日本絵画の黄金時代
・祇園の三才女
・奇妙な夫婦
・司馬江漢と玉瀾

文人画を大成した池大雅や与謝蕪村、写生画の円山応挙や伊藤若冲らの出現は、日本絵画の黄金時代を作り上げた。大雅の妻・玉瀾(ぎょくらん)は夫婦で『近世畸人伝』にとりあげられた。頼山陽の女弟子として有名な江馬細香は、47歳にして江戸に遊学し前野良沢に師事して蘭学をおさめるほどの教養人であった。

玉瀾の養祖母・梶子は、歌集『梶の葉』で知られた有名な歌人で『近世畸人伝』にも登場する。玉瀾の母・百合子は、祇園で茶店を営み歌人としても知られた人で、女手一つで町子(玉瀾)を育てた。町子の夫となる大雅を大成させようと援助したのも百合子だった。

大雅は30歳前後で4歳年下の玉瀾と結婚した。大雅は母や姑の百合子を埋葬するとき自ら棺桶を背負って寺に行ったという。結婚してからも気軽に旅に出て諸国を巡ったり、裕福ではない夫婦が見かけを気にせず招待された家に伺うなど人柄がにじみ出る。

あるとき大雅が大阪へ旅立ったが筆を忘れたときがあった。追いかけた玉瀾が筆を大雅に渡すと「どこのどなたか存じませんが、よく拾ってくださいました」と礼を述べて立ち去った。玉瀾も一礼してそのまま帰宅したという何ともいえないエピソードである。

細野正信著『司馬江漢』に玉瀾の像が残されている。母と自分を捨てた父を訪ねて江戸に出ていた可能性を示すものだ。異腹の弟が彼女を訪ねてきたとき、赤の他人で迷惑だときっぱりと伝えたが、内心は後悔があったのか、弟と名乗った武士の面影にもうこの世にいない父が重なったのか、哀惜の念にかられ江戸に出たのかもしれない。

二 滝沢馬琴が絶賛した只野真葛
・みちのくに埋もれた才女
・馬琴との文通
・まばゆいばかりの少女時代
・人生の意味を問い直す

只野真葛(ただのまくず)の死後108年目にして草むらに埋もれていた墓が見つけ出された。墓の移設に尽力した中山栄子氏は『只野真葛』の著者であった。真葛はあの有名な滝沢馬琴とも交流があった。女であるがゆえに社会的な縛りの中で生きざるを得なかった彼女は、女性解放思想の先駆ともいえる「独考(ひとりかんがえ)」を馬琴の推薦で出版したいと考えた。

「みちのく 真葛」とだけ記した手紙と草稿を預かった馬琴は最初不快感を示したが、次に届いた手紙で、父が高名な医者の工藤平助であることを知り、また真葛が身分を明らかにして、態度を改めたことでやり取りが始まった。しかし筆一本で生活している馬琴にとって頼みごとを催促がましくされると疎ましく感じ「独考」にいたっては女の闘争宣言ともとれる内容で、儒教道徳を重んじる馬琴には受け入れがたかった。そして馬琴が反論として書いた『独考論』を絶交状とともに送ったのが最後となった。真葛は礼だけを述べ反論はせず以後は一切の音信を断った。

真葛は、江戸日本橋の数寄屋町で生まれた。父は仙台藩医・工藤平助、母は遊(ゆう)。弟4人、妹2人の7人兄弟の長女である。その責任感の強さが只野真葛の生涯を決定づけた。当時医者は士農工商に属さず身分制に縛られない一面があり、分け隔てなく診療してもとがめられることはなく、そのような家風の中で真葛は育った。

幼くして国学者・荷田春満(かだのあずままろ)の姪である荷田蒼生子(かだのたみこ)に古典を学び、16歳で初めて書いた和文で才能を認められた。家はいつも平助の学者仲間の来客であふれ、外国の新知識を吸収していった。1786年、弟・元保(もとやす)が22歳で亡くなった。やがて嫁いだ二人の妹が亡くなり、そのうち母も亡くなった。

1797年、35歳の時に長年住み慣れた江戸を離れ仙台に嫁いだ。悲壮な覚悟であったことが「独考」の冒頭に記されている。父が没したのは1800年の師走で、その死には大きな喪失感があったが、家督を継いだ弟・源四郎が立派に務めを果たした。しかし、その源四郎も7年後の1807年に風邪の大流行にかかり死んだ。絶望のどん底に突き落とされた真葛は自ら命を絶とうとするまで思いつめた。しかし強靭な自我は打ちのめされることを潔しとはしなかった。これまでの価値観を疑い否定することから生きるよりどころを模索し始めた。

母のことを知らないと嘆く末妹の照子のために書いたのが『むかしばなし』であった。一族の歴史にとどまらず社会の様子やオランダの珍しい文物のことなどが書かれ、無意識のうちに父・平助にまつわる物語となっていった。やがて照子が男の子を出産しその誕生を祝っているとき、夫の伊賀が亡くなった。源四郎を無くし生きる目標を見失った真葛を励まし、執筆をすすめてくれたのが伊賀であった。

失うばかりで50歳を越えて精神的にも不安定になっていた真葛は苦しみぬいた末にふと悟りの境地に達した。社会的規範や慣習を相対的なものとみなすようになり、変わらない絶対的なものは自然のリズムだけであると感じるようになった。それを押し拡げて同時代の日本の政治・経済に言及したのが「独考」だった。馬琴の激烈な反駁文をうけとった6年後、真葛は63歳でこの世を去った。

第六章 工藤平助(1734年~1801年)、最上徳内(1754年~1836年)

一 天明の蝦夷地探検
・『むかしばなし』で語られる偉大な父
・工藤平助の『赤蝦夷風説考』
・蝦夷地調査団の派遣
・日本最初の北方探検

只野真葛の父、工藤平助は、同じ築地に住んでいた前野良沢と親交があった。平助はこうした蘭学者たちとの交友のなかから知識を深め、海外の事情に通じていったものと思われる。平助が北方問題に関心を持ったのは元松前藩の勘定奉行だった湊源左衛門から情報を得たことが大きく、当時あまり知られていなかったロシアの情報を彼らから得ていた。日本側の記録ではロシア人が蝦夷本島で日本人と交渉したのは1756年が最初といわれる。しかし松前藩は幕府の干渉をおそれてこの事実をひた隠した。

1771年、ロシアと戦って捕虜となりカムチャッカに流されたハンガリー生まれのベニョフスキーが、何とか帰還しようとするも難破し土佐沖に漂着した。彼は日本側にロシアの思惑を伝えたが幕府は黙殺した。しかしベニョフスキーの情報は一部の知識人に長崎からもたらされ、平助もその一人だった。平助はこれを「北方問題」と捉えて関心を抱き調査した。ロシアの陰謀というだけではなく、オランダの思惑もあるだろうと考え、国際情勢の理解に努めた。

ロシアとの交易は、距離的にも遠いオランダよりも国益になり、通商を結べばロシアの国情も分かり、国防の対策も立てやすいうえ密貿易も取り締まれるだろう。それらの考察をまとめたのが『赤蝦夷風説考』であった。上巻で、ロシアの南下の実態を示しその対策を論じ、下巻で、ロシアとカムチャッカの地理と歴史を考証した。

文書に目を通した意次は、今まで考えが及びもしなかった蝦夷地という手つかずの大地に初めて気付かされた。66歳の意次は子を突然奪われ様々な社会問題に対処する中で蝦夷調査の決意を固めた。幕閣の評議にはかけず内密に準備をすすめ、そのあと公に発表し派遣隊が組まれた。そのなかには天文・地理に詳しい関流の数学者・本田利明もいた。彼は病気を理由に弟子の最上徳内を推薦したが、初めから徳内を遣わすつもりだったようだ。

蝦夷地の夏は短い。急ぎ計画し、東蝦夷班は、陸路で霧多布(きりたっぷ)から根室、千島の国後島へ渡り、そこから択捉島、得撫島(うるっぷとう)へ渡り地理や交易の状況を調査する。西蝦夷地班は、西海岸を北上して宗谷に至り、樺太に渡り異国への通路や地理を調査する。こうして日本初の蝦夷調査が始まった。

東班は、帰路の日程から千島に渡るのをためらったが、徳内らが先陣を切り、アイヌたちを説得し南端オトシルベ、そしてついに北端アトイヤに達した。そこが択捉への入り口だったが、冬の気配を前にその先は断念せざるをえなかった。西班は、6月半ばに宗谷に達し、主に舟で測量しながら進んだ。樺太にも渡りシラヌシ付近に着岸した。

公儀普請役(土木の役人)佐藤玄六郎が東西の情報をまとめ、中間報告したことで幕府は事態を認識し、蝦夷本島開発に着手した。内地から8万人を移住させる計画で本格的に動き始めた。前年の功績をかわれた徳内は、東蝦夷地方面の先陣を命じられた。4隻の蝦夷舟で国後島に渡ったあと本隊も到着し択捉に渡った。

そこにはアイヌの人々が「フウレンシャム」とよぶ赤人(ロシア人)が住んでいた。徳内は衝撃を受けたが、実情を聞き取っていった。ロシア語が話せるアイヌもいた。3ヶ月にわたり生活を共にし、通訳なしで日常会話ができるまでになり、最後には涙ながらに別れを惜しんだ。

二 挫折した蝦夷地開発と北方交易
・江戸の政変
・国後騒動
・蝦夷地の探検に挑みつづけた最上徳内

1786年、江戸では将軍家治の死によって政局が急変していた。田沼の重商政策によって密貿易がはびこり、あげく田沼派は鎖国を説いて外国との通商をさえ結ぼうとしているとして反対派が勢いづいた。そして蝦夷地一件の差し止めが発令された。

調査の成果まで見捨てられるわけにはいかないと、佐藤玄六郎と山口鉄五郎の2人は『蝦夷拾遺』という詳細の記録を書き上げた。徳内も『蝦夷草紙』を著した。これらは田沼政権の崩壊によって、調査隊そのものが悲運な結末をむかえたため、公にされることはなかった。意次は亡くなり、元勘定組頭の土山宗次郎は死罪となった。蝦夷地見分を主導した張本人と見られたためと思われるが、蝦夷地一件に関わった人物のなかで最も重い処分である。

暇を出され今後の身のふりを考えていた徳内は蝦夷地の見分を続けた。千島は林子平が考えたような群島ではなく、斜めに連なる列島であることが分かった。その後も単独で続けていたが、警戒する松前藩からは追放処分された。1789年、アイヌの蜂起があり真相究明のため、本田利明の友人・青島俊蔵とアイヌ語に堪能な徳内が派遣された。松前藩討伐軍により騒動は鎮圧されたが、彼らはアイヌに同情した。松前藩の無法な交易のやりかたが原因であると指摘した青島に松平定信は激怒した。青島、徳内は捕縛された。師の本田利明のはからいで徳内は何とか保釈されたが、青島は遠島となり出帆を待たずに病死した。夫の徳内が死罪になるかもしれないことを知った妻・ふでは意を決し息子を背負って200日にわたる江戸への旅路に出た。やがて徳内の無事を知った。

伊能忠敬に師事した間宮林蔵はシーボルトから受け取った小包を開けずに奉行所に提出した。林蔵の成果をヨーロッパに紹介した彼にとっては裏切られたようなものだろう。一方で徳内とシーボルトにもやりとりがあり、徳内は学問の進歩に役立つと信じ彼に蝦夷、樺太の地図を貸し与えた。シーボルトは約束を守り25年にわたってそのことを公表しなかった。

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