エヴァンゲリオンとは何だったのか


自分の10代のほぼすべてであったエヴァを総括したいと思います。

まずは構造的な話から。
エヴァの登場人物は3層に分かれます。

第1層 ネルフ(ゲンドウ、冬月) vs ゼーレ
第2層 29歳の人達(ミサト、リツコ、加持)
第3層 14歳のチルドレン達(シンジ、アスカ、レイなど)

第1層はお互いの「人類補完計画」達成のために化かし合いを繰り広げています。
(ネルフの人類補完計画とゼーレの人類補完計画は方法が違いました。
作中のエヴァ世界ではゼーレの方法が不完全ながら選択され、
ゲンドウ達の方法は明らかにされませんでした)

そして第2層は第1層に命令される形で使徒を殲滅します。
つまり第2層にとっての使徒殲滅は仕事としての要素が非常に強いです。
上からは一応「サードインパクトが起こるので」と使徒を倒す意味を説明してもらっていますが、
どうして使徒とアダムが接触したらサードインパクトが起こるのか
など細かいことは教えてもらえません。
よって使徒殲滅が「上からの命令だから」というニュアンスが強まります。

そして第3層はなすがままにエヴァに乗るという一番危険な任務をさせられています。
各々、シンジ「前の場所に戻りたくない」 アスカ「存在理由」 レイ「絆」
と理由はありますが、すべてパーソナルな理由です。
彼らは使徒が何者であるのかなど外部世界にさほど興味がありません。
彼らは使徒を「倒す」ことで「自分が他者に認められる」ことに最も興味があります。
チルドレン達は14歳の子供らしく使徒を倒すという「大人から与えられた正義」を
果たすために実に「無邪気に」手に入れた力を行使します。

視点を変えます。

エヴァの舞台はサッカーのPK戦に非常によく似ていて、
使徒にアダムと接触されたらアウトと言うことになっているので、
使徒=ボール、アダム=ゴール、エヴァ=キーパーと考えられます。
そういった意味では戦闘というよりはゲームに近い気がします。
エヴァの世界の出来事はほぼすべて第3東京市という「箱庭」での出来事です。
結局、 

・使徒が襲ってくる(出所は不明)
・アダムは動かない

という制約を付けてしまったので、エヴァは自分から攻めていく方法を失いました。
なので作中世界のエヴァはネルフ本部をうろうろするより他に仕方がなく、
絵に情景での変化を付けるのが難しくなりました。
これはアニメとしてはよろしくないので、
庵野監督は非常に苦心して様々な方法の使徒を考えましたが、
それにも限界があった訳で、その苦心の果てに内面世界があったと思われます。

内面世界は何を書いても「内面である」という事で自由です。
これによりアニメとして表現できる幅が広がりました。
内面世界については違う項でもう少し詳しく述べたいと思います。

さきほど第3層が非常に幼稚であると述べましたが、
第2層も29歳にしては子供っぽい部分を多分に持っています。
父親の面影を引きずるミサト。母親の不倫相手と同じ事を繰り返すリツコ。
そして大学時代からのヨリを戻すミサトと加持。
どこぞのメロドラマを想起させて個人的には29歳のドラマは気分が悪いのですが、
彼らの視点は過去から一歩も出ようとしません。
彼らは自ら望んで過去を繰り返そうとしています。

それでは第1層が大人かと言うと全くそうではなく、
ゲンドウが人類補完計画を行ってしたかったことはユイに出会うことです(冬月も同様)
ゼーレも人類補完計画を行うのは自分たちの宗教的テーマのためです。

これはキャラ論で述べたいと思いますが、
エヴァンゲリオンのキャラクターはすべて何か過去を引きずって
未来へ前向きな視点を持とうとしていません。

「大人がどこにもいない世界」

これがエヴァの一つの結論です。

エヴァンゲリオンとは何だったのか その2 ~エヴァの謎を読み解く~

今回はエヴァの謎解きに挑戦です。

当時の読者を混乱の渦に巻き込んだ数々のエヴァの謎ですが、
どうして混乱するのかというと、

作中で意味の分からないことが起こる→
ゲンドウがしたり顔で「死海文書に書いてある通り」と言う→
死海文書に何が書いてあるか分からないので読者混乱→
さらに意味が分からない事が起こる→以下ループ

結局このループが起こるので読者は置いてけぼりになります。

実際の製作過程を考えればこの謎は分かるんですが、
エヴァはスケジュールが押し押しだったので、その場その場で勢いで作っていました。
当然物語の細かい整合性なんて考えられる状態ではありませんでした。
加えて庵野監督の製作スタイルが「その時の気分をフィルムに定着させる」ものであるので、
基本的にアドリブに近いというか、ライブ感を大切にするので、
物語の細かい矛盾は大量に出てきます。

その矛盾を解決するための方法が死海文書です。

要は作中で起こったことは「既に死海文書に書いてあること」だとすれば、
既定の事なので読者が矛盾だと思っていることは矛盾ではなく整合性があることなのです
という風にしているのです。
この点が読者を最も悩ませました。
物語に矛盾があるのに作中で物語には矛盾がないと宣言されている。
一体どうしてなのかと真剣に観ている読者ほどこの罠にかかりました。

つまり死海文書とは後から書かれているのに先に書いてあると言い張っている
「偽りの予言書」です。庵野監督のハッタリです。

タネが割れたらどうという事はないんですが、
数々の意味不明なワードと意味深な展開に引きずられる中で
このある種不誠実なトリックを使われたため、
当時の読者はこの点を見落としていたように思います。

要は謎に関しては答えのない問いを答えようとしていたと言うことです。
謎に関しては衒学と言って差し支えありません。

もう少し謎を考えてみる ~アダムとイブの神話から~

エヴァの謎はキリスト教をモチーフにしているという点を考えると分かりやすくなります。
アダムとイブは神が作りたもうたものです。
エヴァはイブのことなのですが(福音という意味もありますが)、
作中で「人が神に似せてエヴァを作った」とリツコさんが言っているので
イブに似せて人間が作ったと言うことです。
イブは神じゃないだろと言われたらそうなんですけど、
リツコさんがそう言っているのでここはよく分からないポイントです。

エヴァの物語は神がかなり濃厚に関わっているのですが、
作中では神というフレーズを徹底的に使わないことで存在をボヤかしています。
(多少は使ってましたけど)
要はアダムもイブも人間も使徒も神が作ったと言うことなのですが
(エヴァは人がイブに似せて作った)、
そこをボヤかしているので分かりづらくなっています。

つまり作中で起こっていることはすべて「神の意志」と言うことですが、
なぜこれが起こらないといけないのかは神に聞かないと分からないので、
僕には分かりません。
また作品の創造主、つまり神たる庵野監督もそのあたりは考えてなさそうなので、
答えはどこにもないのかもしれません。

エヴァの物語は価値を上昇していけば神にたどり着きます。
逆に視点を小さくしていくと、
全員が母親(または父親)に対するコンプレックスを持っています。
というよりもミサトさん以外は母親に対するコンプレックスです。
女性キャラであるアスカ、リツコあたりもマザコンである点、
レイ自体がシンジの母親のユイのコピーである点からも母親という点は強調されています。

シンジ「・・・さよなら・・・母さん」

劇場版の物語の終盤でシンジは母に別れを告げ、母離れします。

エヴァンゲリオンは「神が命じた母離れの物語」という要素が非常に強いということです。

~エヴァの物語の簡単なイメージ~

↑概念の上昇

物語(新世紀エヴァンゲリオン)

↓概念の下降

次は時代性などを絡めた話をする予定です。

エヴァンゲリオンとは何だったのか その3 ~1995年をプレイバック~

エヴァンゲリオンは放送後社会現象と言われたのですが、
それは時代性に言葉を与えたという「印象を持たれた」のが一番大きいのではないかと思います。

ですのであの時代はなんだったのかという話になるのですが、
非常にざっくり言うと、1995年に起きた事件は阪神・淡路大震災とオウム真理教の事件の二つです。

現代社会で守られていると思われていた人の生命が簡単に無くなると言うのが
クローズアップされた年でした。(安全神話の崩壊)
まぁエヴァは前者よりも後者と絡めて語られる点が多かった訳ですが、
(例えばTV版最終回は自己啓発セミナーとの批判を受けた)
関連があるとすれば「不安」でしょうか。

エヴァの登場人物は基本的に自己不安に捕らわれているんですが、
(例えばシンジの「ここにいてもいいのか?」という問いは
自分が存在してもいいのかと言う事であり、問う事により自分の存在が自分によって脅かされている)
なぜ不安に陥るのかというとその人自身の価値観があまり確立していないからです。
はしょりすぎなのは承知なんですが、で、
普通に考えて10代で価値観が確立してるって言うのは異常な状態なので、
未熟な段階って言うのは基本的に情緒不安定なんですね。
だからシンジとかアスカが不安なのは当たり前なんですけど、
当時はもうちょっと日本が全体的に情緒不安定だったので、
エヴァの登場人物にシンパシーを感じる人が多かったと言う事なのかなと。

1995年の人達がどう揺らいでいたかというと、
1990年前後にバブル崩壊で金儲けで物質的に幸福という価値が大きく揺らいでいた上に
前述の大震災とオウムで安全もおぼつかない、さぁどうしようと言った所です。

今でも一部はヒルズがどうのこうのとか言ってるんですけど、
バブルの時は全国民がそうだったようで、金狂いのピークでした。
元を正すと、戦後の復興って言うのは物質的に極度に貧相だったのを
まずどうにかしようっていう所から始まってそこに価値を集約して一致団結して
この豊かさを達成したのです。
で、戦前の軍国主義は良くなかったと言う事で
軍事はアメリカに任せて「いのちだいじに」で行こうという方針が取られました。
端的に言うと戦後は経済においては物質的幸福、
政治においては民主主義と平和が絶対的価値だったのです。
(そして現在も継続中)

「モノが豊かになってとにかく生きていればいいよね」

この価値観でとりあえずの安定を手にしていたんですが、
そこが行き詰まってきて不安になってきたという事です。

人は不安になると確固たるものにすがったり、自分で自分の不安を増幅したりします。
前者がオウムで後者がエヴァな訳で、エヴァに話を戻すと、
「不安」という一点ではたしかに時代性を表していたと言っていいのかなと思います。

ですがちょっと不満があって、
エヴァほど当時のテレビのコメンテーターに論評されたアニメはないと思うんですが、
僕の印象としては社会学者達がエヴァをダシにオウムを含めた時代を語ろうとしていたのかなと
思うんですよね。そのアプローチには個人的に否定的で、
なんでかと言うと、エヴァとオウムを絡めるのはちょっと無理があるんですよね。

確かにオウムの幹部は高学歴で理系の人たちが多くて、
俗に思われている「オタク」の人達が中心だった訳ですが、
(この頃はまだ今よりもオタクって言うのに大幅な
マイナスイメージがあって今みたいに気軽に使えるほど定着はしてなかったのです)
それにしたってアニメ=オタクって言うのもステロすぎると言いますか。

オウムは世界の救済を求めての狂信なので、非常にいびつな形なんですけど、
外部にアプローチしようとしての最悪な事件の数々があったんですよ。
あの人達はポアしたら相手が救われると思ってた訳で、相手の事を思ってやったんですよね。
狂ってるとしかいいようがないんですけど、オウムの人たちからしたら「正しい」行為なんです。

エヴァは強烈な自己不信(他者不信も含まれる)のカタマリなので、
信仰とはあまり結びつかないんですよね。
(遠巻きに信仰を望んでいると捉えてもいいんですが、それにしたって意志が薄弱すぎ)
基本的に他人の救済とかどうでもよくて全部自分のためにやってる訳です。

エヴァに関しては心理学的アプローチも盛んに行われたんですが、
その頃日本でAC(アダルト・チルドレン)っていうのが異常に流行ったんですね。
これは精神科医の斉藤学が日本では広めたんですが、
簡単に言うと親が虐待すると子供が精神的に幼いまま大人になる「傾向がある」という話です。
いや、斉藤学の本をまともに読んでないのに断定するのはよくないんですが、
たぶんこういった事が書いてあるはずです。

ですがこれが非常に安直に世間には受け止められてしまって、
「虐待されたら病気になるor病気でもしょうがない」となってしまって自称ACのいつまでも経っても
精神病気取りでいっこうに治ろうとしない人たちが大量に出てきてしまったのです。
(この悪影響で斉藤学自体もACという呼称、概念を提唱しなくなる)
今は下火になってアダルトチルドレンという呼称はあまり使われなくなりました。

もう言わなくても分かると思うんですけど、
当時エヴァの登場人物はアダルトチルドレンだって散々言われたんですね。
アスカの精神崩壊が顕著ですけど、
幼児期のトラウマ(「母親が首を吊って死ぬ」)が遠因になって
精神を病むって言うのが心理学的アプローチの格好のエジキになったのです。
ですがACが誤解されたようにトラウマ的出来事を経験しても元気に生きている人はいっぱいいる訳で、
全員が全員そうなる訳ではないです。
だから心理学的アプローチというのも有効だとは僕は思いません。

で、宗教的アプローチを述べるとその2でも言ったんですが、
宗教的アプローチって言うのは実際エヴァ自体の解釈としてはこれまたほぼ無効だと思われます。
要は宗教家が自分の活動成果をエヴァをダシにして語っているだけであり、
エヴァを語っている訳ではないのです。
なぜならエヴァはキリスト教をモチーフにしていると言うのもはばかられるというか、
完全に「利用」しているんです。
庵野監督はキリスト教について相当勉強されたと思いますが、
そこに学術的興味はあったとしても庵野監督に信仰はないのは明白なので、
どこまで行っても利用です。

つまりエヴァに時代的アプローチ、宗教的アプローチ、
心理学的アプローチをかけるのはその人の自説を述べ立てているだけなんです。
そう断言すると言い過ぎなんですが。

男性は自分の専門領域でエヴァを語り女性は登場人物の心象風景で語ると言った傾向があるのかなと
当時流行りに流行ったエヴァ関連書を読んだ感じでは思いました。
これはエヴァの鏡としての特質がよく現れているというか、
ざっくり言うとエヴァの「どうとでも取れる」側面が出ているという事です。

庵野監督自体も何度も言っているんですけど、
エヴァはどうとでも取れるように作ってあるので、
その人達(主に男性)のエヴァ論は自分の得意分野の話を反射しているだけなんです。
そういう意味では全員で庵野監督の仕掛けた罠に嵌っている状態です。

僕の答えとしてはエヴァンゲリオンって言うのは
どこまで行っても庵野秀明の個人的な作品であり、
結局庵野秀明とはどういった人物なのかという所に行き着かざるを得ないんです。

ですからこのエヴァ論も少しずつそちらにシフトしていく予定です。
ですがその前に演出について話しておこうと思います。
と言うわけで、次回は多少無謀ですが、演出論をしようと思います。

エヴァンゲリオンとは何だったのか その4 ~リミテッドアニメとしてのエヴァ~

今回は演出論です。
庵野監督のアニメ演出は日本のTVアニメがリミテッドアニメである事と深く結び付いています。

まずリミテッドアニメには2つの意味がありまして、
①絵が一部だけ動くシーンがあるアニメ(例えば喋っている時は口だけ動くなど)という意味と、
②動画枚数がフルアニメなら1秒あたり24枚のところが、
8枚で製作されているアニメ(つまり3枚は同じコマ)という意味です。

今回リミテッドアニメと言う時は②の意味で使いますので、ご注意ください。

なぜ日本のTVアニメがリミテッドアニメなのかと言いますと、
簡単に言うと予算と時間の都合です。加えて人材難もあるでしょうが、
人もお金も時間も十分に確保できない状況で日本のTVシリーズアニメは作られているので、
その中でできるだけ質の高いアニメを作るために採用された窮余の策です。
(日本では「鉄腕アトム」の時に手塚治虫が採用したらしいです)

リミテッドアニメの経緯はほどほどにしまして、
リミテッドアニメを演出する時に大事なのは「絵を動かさない」ことです。
絵を動かすとどうしても同じコマが3つずつ続くので、
フルアニメに較べてカクカクした動きになります。
アニメーションなのに絵を動かさないことが大事なんて矛盾していますが、
TVアニメでは動かそうとすればするほど質が落ちます。
(時間がない、人がいない、お金がないという三重苦で)

一番不自然に見えるのは映画で言う同一シーンの回し撮りのような手法が一番ダメです。
カクカクするし、作り手としても思ったように動かないし動かせないのでイライラします。

ではどうすればこういったリミテッドアニメのデメリットを克服して、
効果的に絵を見せる事が出来るか。

庵野監督がエヴァで採った演出方法はこの二つです。

①場面転換の多用
②長止め

場面転換で最も有名なシーンはOPでしょう。
OPでは中盤から終盤にかけてものすごい勢いで場面が展開しています。

このように、パッパパッパとシーン転換すればリミテッドである不自然さは全く気にならなくなります。
場面転換するという時にはフルアニメもリミテッドアニメも同じで
違う絵を挿入するので、言ってみればフルアニメとの差がないんですね。

このテンポ良く場面転換を重ねると言った手法が庵野監督は非常に上手く、
エヴァでも効果的に使われています。

エヴァの演出の特徴の一つとして明朝体での文字が挿入されるというのがあります。
あれは場面転換との関連性が深いです。
なぜかというと、場面転換の一つの問題として、
「違う絵になって話の筋が飛んでしまう可能性がある」というのがあります。
つまり、絵→絵と続けて飛んでしまうと読者が見ていて
意味がつながらない場合が出てくると言う事です。
そこで、文字を使って次の絵(場面)を説明することで、意味を繋げるのです。

絵→文字(次の絵の説明)→絵

これで急な場面転換をしても読者が意味が理解できる話になるんですね。
伝聞によると、庵野監督の演出は岡本喜八という映画監督、
文字は市川崑という映画監督から多大な影響を受けているらしいのですが、
(両者の映画は未見なので、真偽はみなさんにお任せします)
要はリミテッドアニメに一番適した演出方法を持った人から庵野監督がもらっているという事です。

次は②の長止めですが、具体的に言うとシンジがカヲルを殺す前のシーンと、
アスカとレイのエレベーターのシーンが印象的です。

絵が動くのを止めるとこれまたフルアニメとリミテッドアニメは同じなんですね。

長く止めるのはバンクシーンと効果が似ています。
TVシリーズの製作は時間との戦いです。
一定のクオリティを維持するためには、
作画枚数を一定数以上増やさない工夫が必要になります。

要は動かない事で時間が稼げると言う事です。
バンクシーンも使い回しでその間の製作を省力しているので、
長止めは効果的に使えれば省力に役立ちます。

この二つの方法によって庵野監督はエヴァの製作をなんとか乗り切ったのです。

今回なぜ演出に触れたかというと、
外部状況が物語世界の内容に干渉すると言うのは当たり前なんですね。
リミテッドアニメという外部状況が演出という作品内容に大きく関わっているのです。

ついでに言うと、スケジュールが押さなかったら(これは外部状況ですよね)、
物語があそこまで内面世界に踏み込む必要もなかった訳で、
(内面世界は戦闘に較べて作画枚数が大幅に少なくて済む、
というか今思い出したら内面世界はバンクシーンも多かったですね)
要は物語は「物語そのもの」で語るのでなく、作り手がどういった状況で作ったのかまで考えないと
作品が見えてこないのではないかと僕は思うのです。
そしてそこを想像しながら作品を語るのが僕の物語に対する鑑賞姿勢だと言う事です。

次はエヴァを作り出した庵野秀明とはどういった人物なのかと言う
僕が一番関心を持った所に入っていきます。

エヴァンゲリオンとは何だったのか その5 ~庵野秀明とは何者なのか~

今回は庵野監督論です。
失礼ながらエヴァの時の庵野監督を一言で述べると、「マザコンの重度のアニヲタ」です。

これだけ切り取ると散々な人物評ですが、エヴァンゲリオンを観る限り、
当時庵野監督は二つのコンプレックスを抱えていたと思います。

①マザーコンプレックス
②対人コンプレックス(ほぼイコールアニヲタコンプレックス)

①はなぜかというと、繰り返しになりますが、
ほとんどのキャラが母親に対するコンプレックスを抱えているという点、
主要人物のレイが母親の写しである点、
最後に母に別れを告げて母離れ=マザコンからの解放を遂げる点、
などからそうであると考えられます。

また、放映前後庵野監督はエヴァに関して様々なインタビューを受けていましたが、
これだけエヴァで両親がテーマに上がっているのにも関わらず、
実の両親に関する言及がほとんどない点(特に母親に限って言うと一切言及がない)
という点からも考えられます。
庵野監督にとって大学に入る前までの両親との思い出は
あまり思い出したくない類の話だと考えられると言う事です。

②の対人コンプレックスというのは、シンジ君が抱えているものであり、
またこれも他の登場人物も抱えているものなのですが、
こういったものが作品に出てくる点で庵野監督も似たような対人コンプレックスを
抱えていたと思われます。

これは庵野監督に限らず、エヴァに興味関心を持った人、
もっというとアニヲタ全般が多かれ少なかれ抱えているものだと僕は思います。

庵野監督に限らずアニヲタがなぜ
アニメーションに興味関心が行くのかというと、直接的な対人関係が苦手だからです。

あえて断言しましたが、アニメでも漫画でも小説でもいいんですが、
それら間接的表現に作るなり観るなりで没入する人と言うのは、
直接的な表現に対してなんらかの苦手意識を持っているんですね。
つまりダイレクトに相手に伝えられないので、間接的な表現を選択するのです。
もう少し細かく言うと、間接的な表現を選択するのには二つの理由があって、
①直接的表現が苦手 ②間接的表現が得意
これらに当てはまる人が間接的表現を選択します。

当然①かつ②の人が一番アニメの作り手になりやすい訳で、
庵野監督は両方に当てはまると思います。

だから庵野監督は生々しい現実のリアルさには拒絶反応を示すんです。
エヴァで言うと穢れの象徴として繰り返しイメージされるミサトと加持のセックスシーンは
リアルさに対する拒絶でもある訳です。
二人のセックスシーンにはもう一つの意味があって①と絡んでくるんですが、
そういった穢らわしい行為に及んでいる両親への嫌悪感、
もっと言うとそこから生まれた自分への嫌悪も含まれます。

これは完全な類推ですが、庵野監督は小さい頃に両親のセックスシーンを
目撃してしまったんじゃないですかね。
それがものすごく良くない思い出として残ってしまったという事です。
憧憬している母親が汚されていくイメージ。
それがネガティブなしこりとして残っても不思議ではないはずです。

アニヲタのややステロな一般論になりますが、
彼らが卑屈になりがちなのは間接的な表現は直接的な利益を生みづらいからです。
アニメーションというのはどこまでも行っても現実の代償行為です。
どんなに二次元が好きな人でも本当に求めているのは現実の人間関係なんです。
そこでうまく利益を得られないので、
アニヲタは直接的な表現が得意な人たちを嫉妬してしまう傾向があります。

結局このアニヲタの「うまく相手に伝えられない」という感情はどうして起こるのかというと、
多大な自意識を持って相手と接するからです。

「相手に自分が見られている」という意識が強くなればなるほど身体は動かなくなります。
「失敗したら相手にバカにされる」こう強く思うと失敗が出来ません。
人間は失敗する生き物なので失敗が出来なければ何も出来ません。
失敗が出来ない人間はどうするか。失敗しないで住む世界へ「逃避」します。
そこは失敗という痛みのない安らぎの世界です。
ただそこに本当の人はいないので本当に欲しいものを得る事は出来ません。
だから楽だからと言ってそこに留まっていていいのか-

庵野監督が一番エヴァ時に悩まされていたのは
「対人コンプレックスを持つ自分に対するコンプレックス」
つまり③自意識に対するコンプレックスに他ならなかったのです。

次回はそういった庵野監督がエヴァ後にどうなったのかについて述べていきます。

エヴァンゲリオンとは何だったのか その6 ~非モテの庵野とリア充の庵野~

5の続きです。
エヴァで自分のコンプレックスを赤裸々に披露した庵野監督が
エヴァンゲリオン後に進んだ道は「アニメから離れる」という道でした。

エヴァ後にアニメ『彼氏彼女の事情』の監督をしましたが、
その後は映画監督として5年以上行動する事になりました。
ポイントは「なぜアニメから離れたのか」という事なのですが、
これはどこまで行ってもアニメにしか興味が持てない
自分自身に心底嫌気がさしたという事だと思われます。
だからこそアニメーションという虚構そのものから
一番遠い「実写」というリアルそのものに転向したのです。
しかしその転向とて一種の逃げでした。
(宮崎駿監督も庵野監督の映画監督への転向は
アニメからの逃げであるとの旨の発言をしています)
なぜ逃げだったのかというと、
結局一番庵野監督の才能を活かせる分野はアニメーションだからです。

結果的に庵野監督は実写の映画監督として名作を作り出す事はできませんでした。
『ラブ&ポップ』では徹底的にパンチラシーンをカットしたり(リアルさの排除)、
『キューティーハニー』ではハニメーションというアニメの要素を入れてみたりしたのですが、
これはアニメから離れられないまま実写を作っていたという事です。

要は庵野監督はむき出しのリアルそのものに耐えられない人間なんです。
そして実写って言うのはリアルさを全開にしないと人の心に届かない分野なのであり、
庵野監督は苦手な分野でずっと行動していた事になります。

庵野監督自身もアニメが得意分野だと言う事は深く自覚していたと思います。
しかしどうしてもアニメには戻ってこれなかった。
なぜかというと、再度触れる予定ですがエヴァンゲリオンで
徹底的に視聴者に「アニメから離れよ」というメッセージを発信したからです。
その張本人がアニメを作り続けるという矛盾を強く強く感じていたと言う事です。

庵野監督はエヴァ前とエヴァ後で人間関係も大幅に変わりました。
エヴァ前はガイナックスの面々、いわゆる同じアニオタの人たちとの関係が当然中心だったのですが、
エヴァ後は有名になった事もあって他業種の人たちと関係を持つようになりました。
特に演劇関係の面々と知り合いになり、対談本を出すまでになっています。

周りから見るとこれはエヴァ前とエヴァ後で庵野監督は
非モテからリア充に変わったと言う事です。
アニメ監督→実写映画監督という転身を考えれば
非モテからリア充というのも分かりやすいと思います。

しかし庵野監督にとっては前述したように失敗に終わった転身だったのですが、
大きく得たものがありました。
それが安野モヨコ先生の存在です。
いわゆるリア充になっていなかったら安野先生と結婚するなんて事はなかったと思います。

安野モヨコ先生の『監督不行届』を見れば二人がどんな感じで過ごしているのかは分かるのですが、
とにかく庵野監督がオタク丸出しです。

でもこれは安野先生と二人きりだからこそ庵野監督が見せる自分自身の本質なんです。

このオタクである本性を親に出せなかったからこそのエヴァンゲリオンであり、
庵野監督がずっとオタク性を出せない環境にあったと言う事が分かります。

庵野監督が結婚生活で得たものはコンプレックスの解消です。

マザーコンプレックスも結婚生活によって解消し、
アニオタとしてのコンプレックスも解消されたはずです。

後者がなぜ言えるかというと、再び庵野監督はアニメーションに戻ってきたからです。
逃げ続けていたシンジという主人公を描いた庵野監督が、
ようやくアニメから「逃げない」という選択肢を取ったのです。

エヴァンゲリオンは庵野監督のコンプレックスの塊でした。

それがなくなった今、庵野監督がどんな作品をアニメーションで作るのかに、
大変興味がそそられます。

次は番外編でヱヴァンゲリヲンとは何なのかを話します。

エヴァンゲリオンとは何だったのか その7 ~ヱヴァンゲリヲンとは何なのか~

今回は新劇場版についての話です。
なぜ新劇場版が作られたのかというと、
まず庵野監督がスタジオカラーを立ち上げたためにお金が必要というのがあります。
そして次としては、新たにエヴァを終わらせる事によって
エヴァのTVシリーズ化を狙っているというのがあります。
僕が強調したい点はこの2点よりも次の点で、
「エヴァを引きずっている人にピリオドを打つ」
という意味がヱヴァンゲリヲンには込められていると思います。
それは視聴者側もそうですが、それよりも製作者側、特に新劇場版の監督である鶴巻監督
のために作られているのではないでしょうか。(庵野監督は総監督)

庵野監督はエヴァのパチンコ化にしても二次創作にしてもどんどん認めてきました。
これはアニメ関係者の中でエヴァが神格化されていく状況を快く思わなかったためです。
しかしこれだけ庵野監督がエヴァを破壊してもエヴァの神格化は止まりませんでした。

その中でも特に身内で関わっていた鶴巻監督が一番エヴァを引きずっていたと思います。
どんなにアニメを作ってもエヴァには及ばない。
この「エヴァには勝てない」というコンプレックスを覆すにはどうすればいいか。

実際にエヴァを作って自分で壊せばいいのです。

つまり新劇場版ヱヴァンゲリヲンは実質的に鶴巻監督が作っていると考えるのが自然です。
庵野監督は文字通り総監督としてサポートに回っていると思われます。
例えば新キャラのマリですが、これは世代を代表しているキャラとかそういったものではまったくなく、
鶴巻監督の作品に出てくる主人公キャラそのものです。

序は文字通り序だったのでほとんど前作を踏襲された作りでしたが、
破では新キャラが登場し、物語が少し違う方向へ進み出しました。
おそらくこの傾向は強まり、
Qでは鶴巻監督によるさらなる旧エヴァの破壊が行われると思います。
(より鶴巻カラーのエヴァになる)

そしてそれが鶴巻監督をエヴァの呪縛から救い出す事になるのです。
そういった庵野監督の鶴巻監督に対する思いやりが込められているのではないでしょうか。

次は旧劇場版に庵野監督がどんなメッセージを込めたかを説明して
この総括を終わりにしたいと思います。

エヴァンゲリオンとは何だったのか その8(終) ~まごころを、君に~

最後は旧劇場版に僕なりの解釈をして終わりにします。

・旧劇場版はディスコミュニケーションの世界である

これはここの内的世界での会話劇を読んでもらえば分かります。

アスカ「何も判ってないくせに、私の側に来ないで!」
シンジ「・・・判ってるよ」
アスカ「判ってないわよ、バカッ!」
アスカ「あんた私のこと、判ってるつもりなの!?」
アスカ「救ってやれると思ってんの?」
アスカ「それこそ傲慢な思いあがりよっ!!」
アスカ「判るハズないわ!!」
シンジ「判るはずないよ」
シンジ「アスカはなんにも云わないもの」
シンジ「何も云わない、何も話さないくせに、判ってくれなんて無理だよ!!」
レイ「碇君は判ろうとしたの?」
シンジ「判ろうとした」

この先も分かり合えない会話が続くのですが、
エヴァは自意識に苛まれて他者と上手く繋がれない人間をずっと描写しています。

・なぜアスカは最後に気持ち悪いと言ったのか

その前になぜ最後にアスカとシンジの二人が残されたのかという疑問もあるのですが、
これはエヴァに乗っていたのが二人だけだったからなんです。
つまりエヴァに乗っていたから人類補完計画が発動しても比較的早く自我を取り戻して、
あそこに残ることになったんですね。
このように庵野監督は精神論だけじゃなくて物理的な根拠もきちんと残しています。
アスカが精神崩壊したのも、プライドがズタボロになったという点というよりも、
使徒の攻撃を受けたという点の方が大きいというような点もそうです。

で、なぜアスカが最後に気持ち悪いと言ったのかですが、
これはみんなが人類補完計画で溶け合った時に
自分の本心をシンジに覗き見られたからです。
一番知られたくなかったと同時に知って欲しかったシンジへの好意が、
みんなの心が一つになった事でバレてしまったんですね。
「あんたが全部わたしのものにならないのなら、私、何もいらない」
という気持ちがバレてしまった。

これはシンジ側からすれば一種の「ズル」です。
本当なら現実のコミュニケーションで知る努力をして
知らないといけないアスカの気持ちをショートカットして知ってしまったんです。

だから気持ち悪いとアスカは言った、と解釈します。
あのラストはあれからディスコミュニケーションだらけの世の中でそれでもなんとか
コミュニケーションを積み重ねていかないといけないというラストなんです。

・なぜ「逃げちゃダメ」なのか

これは旧劇場版というよりはエヴァの全体的なテーマですが、
なぜかというと逃げちゃダメな局面では逃げた方が遙かにつらいからなんです。
シンジはエヴァに乗る前はゲンドウの知り合いの所に預けられていたんですが、
そこには結局何もなかったんです。確かに傷つく事はない場所だったんですが、
同時に誰からも必要とされていない場所だったんです。
それよりもエヴァに乗るって言うのが非常につらい事でも、
誰かから必要とされるっていう意味での充足感があるんです。
だからこそ「逃げちゃダメ」なんです。

・本当の夢とは何なのか

僕が何度も旧劇場版を見るうちに最後は二つの場所を繰り返して見るようになりました。
それがアスカとシンジが言い争う場面と、この夢が何かを問うシーンです。

シンジ「ねぇ・・・」
ミサト「何?」
シンジ「夢って何かな?」
アスカ「夢?」
レイ「そう。夢・・・」

シンジ「わからない。現実がよく分からないんだ」
レイ「他人の現実と自分の真実との溝が正確に把握できていないのね」
シンジ「幸せがどこにあるのか、わからないんだ」
レイ「夢の中にしか幸せを見いだせないのね」
シンジ「だから、これは現実じゃない。誰もいない世界だ」
レイ「そう“夢”」
シンジ「だから、ここには僕がいない」
レイ「都合のいい作り事で、現実の復讐をしていたのね」
シンジ「いけないのか?」
レイ「虚構に逃げて、真実をごまかしていたのね」
シンジ「僕ひとりの夢を見ちゃいけないのか?」
レイ「それは夢じゃない。ただの現実の埋め合わせよ」

シンジ「じゃあ、僕の夢はどこ?」
レイ「それは、現実の続き」
シンジ「僕の、現実はどこ?」
レイ「それは、夢の終わりよ」

この最後の4文に非常に感銘を受けたんですが、
この文の意味はずっとよく分かっていませんでした。
ですが今ではこういった意味だったと思っています。
この文章はこう補足すると意味がよく分かります。

シンジ「じゃあ、僕の(現実世界の)夢はどこ?」
レイ「それは、現実の続き」
シンジ「僕の、現実はどこ?」
レイ「それは、(虚構世界である)夢の終わりよ」

つまり、本当の夢(目標)はどこまで行っても現実世界にしか存在しないんです。
だから虚構世界から戻ってこれていない人は現実に戻ってこないといけないんです。
現実の目標を目指して現実と闘わないといけないんです。

庵野監督がこれほどまでに旧劇場版で現実世界に回帰せよというメッセージを発しているのに、
そのメッセージは今のヱヴァンゲリヲンに歓喜している人たちには伝わらなかったと言う事です。
庵野監督の「まごころ」は受け取られませんでした。
それこそが最たるディスコミュニケーションだったと言うとそれは皮肉に過ぎる話なのかもしれません。

それでも僕たちは現実に生きています。
よって現実を生きない事にはどうしようもないんです。
だから最後に僕も庵野監督と同じ事を言わないといけないんです。

虚構世界からいつまでも戻ってこない人達!
現実世界にあなたを必要をしている人
がいるんです!!
だから現実世界に戻ってきてください!!
お願いします!!



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