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vol.8『時代と呼吸するナレーターの育成・採用・生かし方とは』

テレビ&ラジオを生業とする者であれば一度は耳にしたことがある「ギャラクシー賞」。1963年から続くこの賞を選出している公式媒体が雑誌「GALAC」。10月号のテーマは「ナレーション考」。
寄稿するのはキー局の中心アナウンサーやベテランナレーターたち。その中で「人を生かすマネージメント」の視点からナレーション論文を発表したのが、ベルベットオフィス代表取締役・義村だ。
声業界に新人を生みだすためのまったく新しい仕組み「スクール&スタジオバーズ」「猪鹿蝶」を創り出し、才能を世に送り出し続ける義村が叫ぶ”時代”とは。(新時代メディア批評誌「GALAC」2012年10月号掲載)

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ナレーションは時代と呼吸する。

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深夜。ナレーション収録はなぜだか夜になる。ブースの赤いキューランプが点灯すると、MAルームに勢いの良い声が響き渡る。「尺こぼれました、もう一度」「もっと張って!巻いて!」「尺余ったな、原稿直します」「今の最高です。ではその調子で、もうワンテーク!」

ディレクターがブースのナレーターに指示を出す。企画、ロケ、スタジオ収録、編集を経て、作品の最終段階を迎えるのがMA作業。それまでの映像が、言葉を持つ瞬間だ。番組をわかりやすく噛み砕き、視聴者の注目を集め、さまざまな彩りを加える。最後に思いを込める。華やかさ、緊迫感、優しさ、高級感からお値ごろ感まで。読み手によってその番組のイメージがふくらむのだ。今のテレビ制作では欠かせない存在であるナレーション。その課題と、これからの可能性について考えてみたい。

テレビが誕生してまもなく60年。日々の事象を追いかけるテレビは今日もかしましい。そのかしましさの一端を担っているのもナレーションかもしれない。ナレーションは「説得力」を持つことが第一義的な意味である。それに加え、現代においては「カラーを決める」「注意を引く」役割がある。声は感情を表現できる最も効果的な方法だ。喜びや悲しみ、そして怒り。それだけではない。もっと高度な感情表現も可能だ。寄り添うこと、尊敬、癒し、軽蔑、そして勇気。そのひと声で空気が変わる経験を誰もが持っているのではなかろうか。

さらにテレビの中でメッセージを発することにはもう一つ、もっと本質的な、大きな役割がある。それはすなわち、映像に「魂」を入れていくことだ。

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混在するナレーションの定義

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「ナレーションとは何か?」という問いに対して、明快な規定は存在しない。来歴から、アナウンス(告知する技術)と語り(ドラマの表現)が混在し、融合して来た。だが進化した現代ナレーションの定義については、喋り手も作り手も曖昧な認識のまま、捉えきれていないのが現状だ。舞台での朗読、ラジオでのトーク、はたまたイベントでの司会まで、みな広義に『ナレーション表現』と考えられている。そのことが、曖昧さのもとではなかろうか。

数年前から、ある問い合わせが度重なった。
「ナレーターとして7年のキャリアがあるのですが、登録させてください」
話が噛み合わず最初は困惑したが、やがてそれがイベントのMC、つまりナレコン(=ナレーターコンパニオン)の方だとわかる。

近年、イベント業界ではナレコンとは言わず、ナレーターという名称で定着しているようだ。他にも結婚式の司会、朗読の会、小劇場での演劇、歌手によるボイストレーナーまで、それぞれの声を使う業界が、その表現の延長線上にナレーションがあると言い始めた。表現は突き詰めるとみな一緒なのだと。確かにそれにも一片の真実はある。しかし、その違いや特性の認識もないままでナレーションを語られることに、違和感を覚えざるをえない。

では、ナレーションと他の言語表現との違いは何か。ここではあえて「ナレーション」を狭義に、「テレビ(映像)ナレーション」と定義したい。
『映像メディアと共にある音声表現』である。
現代におけるナレーション表現は、映像なくしては成り立ちにくい。朗読、イベント、ラジオで語る表現は、その上演環境やメディアの特性によって、それぞれが独自のものである。舞台では「語り」や「司会」、告知放送では「アナウンス」、ラジオでは「トーク」だ。

映像メディアでのナレーション技術は、表現文化として独自の進化を続けてきた。特に日本のバラエティにおけるナレーションは、作品の変化とともに、世界にも類を見ないであろう多様性を生み出しているといえる。

「アナウンス」と「語り」。ナレーションはこの2つの喋りの技術から発生し、それらを融合させ、進化させてきた。まずは、それぞれの問題点を書いていきたい。

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初音ミクがアナウンスする日

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まず、アナウンスとは明解で正確であることを基にした『告知のための技術』である。抑揚を抑え、客観性を持たせる。また、標準的なアクセントであること。これらはしばし「正しい日本語論」と結びつけられ、古参のアナウンサーたちの存在理由になってしまっている。それはプロパガンダとしてのメディアの誕生とともに、標準語を制定した必然と無関係ではないように思われる。「正しい日本語」の軸が時代とともにうつろい、同時にアナウンスの言葉も彷徨い続けている。だが皮肉なことに、今のメディアで生き残っているアナウンサーたちは、告知技術から離れ、ほとんどみな独自の「語り」を編み出した人である。みのもんたしかり古舘伊知郎しかり。

朝の情報番組では裏声の女子アナたちが、けたたましく声を張り上げる。裏声が可愛らしさの記号なのだろうか?歌舞伎の女形は当然みな裏声だ。これは日本文化の特殊性だが、これも女子アナという日本の特殊文化に起因する事なのだろうか?人は緊張がある時やウソをつく時に声が裏返るはずだ。 にもかかわらず、多くのアナウンススクールの教育では、いまだに裏声で読むことに違和感がないようだ。全国各地の番組に、アナウンスくずれの裏声ナレーションが溢れている。ナレーションの大切な要素である「説得力」とは真逆の方向性にもかかわらず。

アナウンサーは、その読みに正統性を追い求めてきた。だが、『日本語アクセント辞典』(NHK)の改定ごとに日本語の変化は確定され、そのたびに正しい日本語論は迷走してきた。文学者は言葉が変化することを前提にしているのに、それを受容しきれていないのだ。

抑揚のない無味乾燥なアナウンス技術の延長でドキュメンタリーなどを読まれると、眠気を禁じ得ない。伝える何かを失ったとき、その表現は窒息してしまう。それまでのアナウンスの必須要素である滑舌、アクセント、鼻濁音や無声化など。それらを完璧に操る初音ミクがアナウンスする時代はまもなくだろう。災害緊急時のアナウンスにはそのほうが迅速に対応できるのではないか。

アナウンスは、あるべき姿そのものを打ち破ることなくして再生はない。それを打ち破って来た先達たちはいる。次世代のアナウンサーたちにもそれを期待したい。

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声優教育の二つのガラパゴス

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もう一つの流れは、声優による「語り」である。物語り、すなわちドラマを表出することはナレーションのもともとの語義である。それゆえ、古典的な語り芸を持つ声優が売れているのは、ある意味もっともなことかもしれない。

もう一つ、声優ナレーションの現代の流れとして、アニメのキャラクターボイスでの表現がテレビで流行し始めている。説得力という点では問題があるにせよ、キャラクターボイスは「注意を引く」「カラーを決める」読みということではテレビ的に効果がある表現である。子どもの頃から親しんだ特徴的な声には、引きつけられる要素があるからだ。

しかし、声優教育ではなぜかアニメ的な表現は軽視され、見下されている。「変な声さえ出せばそれが表現だと思ってるのか」とは 某大御所声優の弁である。そのような評価は残念だ。アニメの表現は、声優たちが編み出した、異世界で非日常の表現なのだ。

 声優の教育は、今も演劇による舞台教育が主流だ。肉体と言葉をつなぐこと。それはそれで表現として重要ではある。しかし声優教育は戦後の新劇を引きずったまま、そこから抜け出せていない。新劇的リアリズム表現も、表現の中で大きな柱ではある。ただ、いまだにテキストが民話や昔話だったりするのは困りものだ。古典を学ぶことを否定するわけではないが、戦後リアリズム表現と現代演劇の目指す地平との距離は遠い。同じく現代のテレビ表現と時代のずれを感じることもしばしばだ。声優教育は進化のサイクルから離れ、もう一つのガラパゴスにいて孤立しているように思える。

 声優志望者もナレーションを学び、トップナレーターたちの喋りを習得しようと励んでいる。それなのに、多くの教室ではそんな読みは全否定されている。肝心の講師がそれを評価できないからだ。番組を注意深く見ていないだろうし、今のナレーションも意識してないからだ。そんなことで時代が求める表現を伝えられるのだろうか?つまりは今の現場で活かせない表現や技術を教室で学ばせられているのだ。声優教育も、独自のアニメ表現を包括した教育を再構築すべきである。それがナレーションと声優をつなぎ、その表現をもっと豊かにするだろう。

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芸人や俳優という読み手を使うこと

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現代のナレーションは、時代変化やメディアの変化とともに進化してきた。古典の語り芸、落語や講談、客観性を持つアナウンス。英語まじりのDJスタイル、ハスキーボイス、アニメからのキャラクターボイス。そして絶叫とささやき(ウィスパー)の表現が生まれてきた。
録音再生技術の向上もあって、ナレーション表現は映像とともに貪欲に新しい表現を求め、テレビ番組のるつぼの中でそれぞれを融合し、「新しい声の表現」として変化し続けてきた。日本が80年代以降、笑いの時代に突入し、バラエティ全盛となったことがそれを後押ししてきたといえる。大量の原稿を即座に読み込み、張りながら、巻き巻きで、的確に映像に合わせて必要な情報を伝えていく。そしてウイットとエスプリを番組に添える。情報・バラエティ番組は「説得力」「カラーを決める」「注意を引く」の3つの高度なテクニックを要求される、ナレーターにとって檜舞台だ。

最近は大型番組から深夜バラエティまで、芸人の活躍が目立ってきた。それらはうなるほど上手かったり、まだまだ文章を読むという行為に慣れてなかったり、キャラも喋りもさまざまだが、逆に慣れていないこともまた新鮮だったりする。笑いの独自文化を築き、熾烈な戦いを生き残ってきた芸人たちは、そのキャラクターを生かした喋りと声が武器である。作り手は見事にそれを生かしていると言える。ナレーターたちも専門家として、それらの表現に負けないように精進しなければいけない。

俳優の読みについても一言。元来、俳優がナレーションをするのは真っ当なことである。存在感や声の魅力、説得力、ナチュラルな表現はさすがである。しかし、それはレギュラーでナレーションに携わっている少数の俳優だ。ポンとキャスティングされた多くの俳優は、長文を即座に読みこなすのに悪戦苦闘していることが、その語りから伝わってしまう。表現の手法も、モノローグ的な坦々と(または淡々と)した語り一辺倒だ。坦々とした表現は禅に通じる日本的な価値観だとは思う。しかしながら、手っ取り早く俳優の声を収録するには、その表現しかないといったところが実際ではないだろうか。BSの旅ものやドキュメントで、それは顕著である。それでも聞かせることができるかはその人の力量と言ってしまえばそれまでだが、もうひと工夫あっていいのではないだろうか。

キャスティングで視聴層を広げようとする試みはもっともなこと。しかし、いかんせん俳優の魅力や能力を生かしきれていない。安直な作りは勘弁してほしい。そして、俳優たちも真剣にナレーション表現に取り組んでほしい。大型ドキュメント番組で有名俳優がボソボソと読みながら、滑舌がボロボロだったりすると悲しくなってくる。例外としてNHK「サラメシ」の中井貴一は俳優としての表現だけにとどまらず、今のナレーションをしっかり研究しているように聞こえる。これはテキストや演出と、うまくコラボレーションができているからだろうか。

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読み手の感性と対峙する現場であれ

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制作現場がデジタル化してずいぶんと経つ。しかし、まだアナログな部分も残されている。

例えばキューランプ。タイムコードが完備された今、その必要性を問いたい。プロのナレーターたちはタイムコードで原稿を読んでいる。あえて言ってしまうと、そこにタイミングのずれたキューボタンのランプが点灯すると、呼吸が合わないのだ。キューは呼吸が合えば勢いがつくとの意見もあるが、そうではないことがほとんどだ。キューはアナログ編集時代の遺物になっているのではないか。原稿のタイムコードさえきちんとしていれば不必要になっている。

次の問題は、尺に収めることだけに終始すること。
ほとんどのディレクターは尺をこぼすか余すかにしか注意がいってない。それを監視することがナレ録りの目的であるかのように。気持ちよく尺に収めたいところとそうでないところの緩急がない。厳格なだけの作業が続くと、ファーストテークに最も集中している新人ナレーターは疲弊し萎縮してしまう。

時間に追われるテレビの現場では、ナレーターがどう表現したいかを上手く作り手に伝えられる余裕のないことが問題ではあるのだが。ディレクターはキューや尺だけにとらわれずに、本来の演出やディレクションに集中して欲しい。そうすることで読み手の感性と対峙する場になっていくのではなかろうか。声が生きれば、作品はもっと生き生きと仕上るはずだ。

尺の問題は、テキストと密接に関連する。情報番組はその性質上情報量が多く、原稿がパンパンだ。必然、早口で入れねばならない。まるで喋り手の能力が早口だけかのような詰め込み具合だ。ただのトーキングマシンと思っている放送作家もいるかもしれない。

テキストは喋りのスタイルを決定する。文体のリズムがナレーションのリズムに影響を与える。「朗読」は小説の文体をなぞるが、音楽のリズムからDJの喋りが、漫画から声優のキャラクター表現が生まれた。そして、テレビにも文体がある。アバンやキューカットのあおり、VTRへのツッコミがナレーション独自の言語表現を構築してきた。

書き手と読み手。もっとも密接に関連している作家とナレーターだが、なかなか接触する機会がないことが問題なのかもしれない。多忙な作家たちとは現場でめったに会えないのだ。

そして、キャスティングの問題。イケてないナレーターで低予算の番組はいかにもな残念なデキだ。少ない予算でもしっかりしたナレーターを使えば、高級感を保った良質な番組に仕上がるはず。ロケやセットにかけるより、コストパフォーマンスははるかに高いのではなかろうか。低価格のナレーターに安易に飛びつかず、ナレーター選びにもこだわってほしい。

ただし、ナレーションのキャスティングに流動性が低いことにはもっともな理由もある。ナレーターの声の宣材であるボイスサンプルは、3分を20人分聞くのに1時間以上かかる。声はどうしても実時間かかるのだ。玉石混淆の音声のみを集中して大量に聞くのが苦痛な作業であることはわかる。20人のグラビアアイドルの写真からモデルを選ぶのに3分とかからないのとは大違いだ。

忙殺される制作現場では、見知ったナレーターを使い続けてしまうのは仕方ないかもしれない。時間をかけて発掘していくのは困難であろう。発掘するにしても、表現の感性より声の響きだけで決めてるのが現状ではなかろうか。ナレーターの感性を知ってもらうための何らかの工夫は、私たちのマネージメント側の問題ではあるのだが、新しい読み手のチャンスをもっと広げていただければ嬉しい。

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テレビは本来の”毒”を忘れるな

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ナレーターに限らず、ポップな新人の誕生がテレビを新鮮に保つ。例えばヒップホップなナレーターが誕生すれば、テレビはもっと楽しいのではないだろうか。そのために必要不可欠なのは作家、ディレクターとの協力である。豊かな表現のために、創造的な環境をいかに育めるかが、これからのナレーター界の課題である。ディレクターや作家と共にナレーターのワークショップの場が持てればいいのだが、参加してくださる作り手はいるだろうか。

テレビが魅惑の宝箱であった時代は過ぎ去ってしまったのかもしれない。このまま60年の還暦を迎えて老い枯れていくのか。歴史が一巡りした後、生まれ変わることができるのか。老人だけが見るものになっては寂しすぎる。漂白された表現に留まっていてはつまらなすぎる。テレビが本来持っていた表現の毒を忘れずに、クリエイターたちを巻き込む力を持ち続けること。テレビはこれからの未来もポップカルチャーであり続けて欲しい。ナレーターもそれに貢献でることを願っている。

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