東京の敵#8 中立のウソ 当事者意識のない人は.当たり障りがなく居心地のよい「中道左派」に逃げ込む

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都政を監視していない

 こうしたレベルの低いコメンテーターに依存しなければいけないのも、もともと都政に詳しい専門家や記者が少ないことが一因です。
 第一章でも少し触れていますが、都庁の記者クラブにいる記者は、20代後半ぐらいの、まだ政治のことをよく知らない社会部の記者が少なくありません。そのような若い記者が、50代の職員からレクチャーを受けて理解するのがやっとの状態であり、それでは深い報道はできません。もっとベテラン記者も配置する必要があるでしょう。
 しかも新聞ではよほどのことがなければ、記事が掲載されるのが、中面にある都内版になってしまいます。新聞を講読していたとしても都内版を見ている読者は限られます。これが地方に行くと、信濃毎日でも静岡新聞でも新潟日報でも、地方新聞のトップは県政の記事が多い。しかも、地方紙は県内シェアが6、7割に達しています。だから、読者も県政に興味を持ちやすい構造にあります。国政の場合も、永田町にはベテラン記者が配置されているし、自民党の部会があると、永田町の記者クラブがカバーするのでしっかりと記事として出てきます。
 しかし、都政は政治に疎い社会部が中心で、ワイドショーが来て感情先行で報道が進んでしまう面が多かったのです。都政では「第四の権力」としてのメディアのチェック機能が十全にとはいえません。基本的に、都庁側は情報公開をできるだけ行って、それを議会やメディアがチェックするのが民主主義の原則です。行政は、国政でも都政でも県政でも、役所だけで動いているわけではなく、そのために記者クラブがビルトインされて、チェック機能を果たすことで成り立たせようとしているのです。繰り返しになりますが、メディアには、『ハドソン川の奇跡』のときの事故調やメディアのような冷静な報道、検証を臨みます。

中立とは何か

 加えて、日本のメディアは中立性をはき違えている面があります。都知事選の報道で有力候補の鳥越俊太郎氏がテレビ出演に応じないと他の候補者が出演できない。国連の安全保障理事会の拒否権と同じようなことがなされてしまいました。
 真の意味での中立とは、皆が横並びで報道するということではなく、人びとが中立に考えられるための材料を出すことであり、人びとが中立に考えられる状況をつくることこそがジャーナリズムの役割であるはずです。
 たとえば、鳥越氏のケースに当てはめると、彼に出演のオファーをしたうえで、相手が断ったのであれば、他の候補者だけで放送すればよかったのです。それなのにメディアは、個別最適で自社メディアの番組のなかの両論併記により「中立らしきもの」をつくることばかりを大事にしてしまっているわけです。
 メディアが個別最適ばかりだと、大事な情報が世の中にぜんぜん出てこなくなります。主要候補者が全員出演しないと番組が成立しないのであれば他の候補者の言葉も報じられなくなってしまう。都知事選でも、各局が同じ顔ぶれで同じような質問ばかりするため、有権者にとって必要な情報がほとんど得られなかった。過度に中立にこだわることによって、フェアネスが失われています。
 また、平等という名の中立にこだわりすぎてしまうと、「中立=現状肯定」になりかねません。権力側が有利になりがちな構造があります。与党なり政府は、毎日、記者クラブで発表できる立場にあり、情報発信力がそもそも強いからです。情報発信をするのはつねに権力側だし、記者クラブも権力寄りになる。野党や無所属の人とは立場が違うのです。
 いまだにテレビ関係者は、放送法が自分たちを監視する法律だと勘違いしています。そうではなく逆なのです。放送法は、むしろ国家権力をはじめとするさまざまな圧力から放送事業を保護するためにつくられたものであり、表現の自由を保障し、またそれにより公共の福祉に貢献することを謳った権利の章典なのです。
 第一条の二で「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」とありますが、この場合の「不偏不党」とは国家権力を含むいかなる圧力にも屈せず、の意味です。なぜならGHQの影響下、昭和23年(1948年)6月につくられた原案(第二回国会提出)では、「放送を自由な表現の場として、その不偏不党、真実及び自律を保障すること」と記されており、こちらのほうが日本語としてわかりやすい。
 どのような圧力や干渉に遇おうと報道機関として筋を通せ、というのが放送法の精神と理解してよいのです。ところが「不偏不党」は、いつの間にかどちらにも偏らない「中立」の意味に誤解されるようになった。きわめて日本的な現象です。
 ジャーナリズムに中立は存在しない。2人の人物がいて、1人は穴に落ちてしまっている状態があるとする。そのまま2人を平等に扱うのが中立なのか。それとも1人を穴から地面に引き上げた上で、同じ場所に立たせるのが中立なのか。
 僕は、まずは1人を穴から引き出すことから中立が生まれるし、それこそがフェアだと思っています。メディアの報道においても、みな両論併記や平等にこだわる必要はない。両論併記の記事があっていいし、特定の候補者を支持するオピニオン記事があっていいし、淡々とファクトを提示する記事があってもいい。とにかく社会の中に多様な記事があることこそが大事なのです。
 こうして、新旧の多彩なメディアから、いろんなタイプの記事が出てくることを通じて、論争が生まれていくのです。

中道左派の欺瞞

 メディアが、感情的で、紋切り型の批判ばかりを繰り返す背景には、それぞれに当事者意識が欠如しているからだと思います。
 メディアとは、取材する側であって、さまざまなニュースの当事者ではありません。しかし、報道する側にも、当事者意識は絶対に求められる。それがないと深い報道はできません。当事者に負けないくらいの情報を集めた上で、「もし自分が当事者であればどう考えるだろう。どういう意思決定を行うだろう」と想像力を働かせることで、報道は現実を動かす力を持つのです。
 当事者とはいわば、「家長」と言い換えることができます。
 たとえば、僕が都知事になったとき、メディアの人たちに「猪瀬は権力の側に行った」という言い方をされました。首相時代の小泉さんを手伝ったときも、「小泉さんは権力だ」とみんな言ってきました。しかし、権力と一色ではありません。“都議会のドン”に権力があるように、当時の小泉さんの権力より、抵抗勢力の権力が強かった。かたちだけを見ると都知事も権力だし首相は権力だけれども、実勢というものがあります。
 日本のメディアが「中道左派」のようなふりを適当に批判しているのはそれがいちばん楽だからです。日本のメディア人の多くは、「権力」という言葉の使い方も含めて、家長の意味がわかっていない面があります。
 かつては、原敬しかり、石橋湛山しかり、ジャーナリスト出身者が首相になることもありました。よくも悪くも、昔のほうが権力側に対する想像力があり、家長の意識があったのです。「ジャーナリスト」という言い方が、甘ったれたような感じになるのは、いまの日本の場合だけです。 
 日本の官僚機構というのは厳然たる存在です。しかもその多くが東大法学部を出た秀才で早朝から深夜まで勤務しています。タテ割りではありつつも、個々の組織が自律して強固な存在です。
 だから、官僚機構に対して、ふつうの国会議員が質問しても歯が立ちません。専門知識のレベルが違うからです。小さい街の市議会議員ぐらいであれば兼職でもどうにかなるし、実際、北欧諸国では市町村にそうした例もあります。しかし都庁も霞が関に次ぐ官僚王国です。本来なら都議会議員に求められる知識は多岐に渡るはずです。しかし 東京都の予算を正しく検証できるレベルの人物は限られています。だからこそ、官僚機構と戦えるような能力を備えた人材を、メディア界がつくらなければいけません。
 たとえば、道路公団については、僕が問題提起しなければ何も変わらなかったでしょう。『道路の権力』『道路の決着』に改革のプロセスをすべて記録してあります。テキストとして活用してほしいが、道路公団や国土交通省の官僚と戦える知見がなければできません。官僚との発想が違いが切り口になります。

*官邸HPに民営化委員会の議事録が残されています。詳しくはこちらのnoteをご覧ください。

 僕は一人のドライバーとしての体験から発想が生まれました。高速道路の御殿場インターの出口がいつも混雑していてなかなか外に出られない。御殿場のアウトレットモールの駐車場の入口からの渋滞が高速道路の出口にまで及んでいたのです。ならば高速道路のサービスエリア、パーキングエリア自体をアウトレットモールに変えれば、渋滞がなくなるはずだと考えた。ただSA、PAは天下り先のファミリー企業が仕切っているので、民営化して自由化するしかない。当局との戦いは熾烈をきわめました。結果、寂れたSA、PAはアウトレットモール以上の集客となり、その利益が通行料金値下げの原資になっています。
 2015年10月に、道路公団は民営化10周年を迎えました。しかし、朝日新聞の見出しは「高速道無料化遠い道のり」、日経新聞は「高速道、遠のく無料化」でした。まるで民営化が無料化のためだったような見出しで、心底あきれました。問題をはき違えているのもはなはだしい。
 僕は最初から、高速道路が無料になるとは考えていません。談合体質により雪だるま式に増えていた借金を整理する、そして民営化によるサービスの向上を進められればいいと考えていました。だいたい維持管理費はずっと取る必要があるのですから、そこは利用者負担があってしかるべきです。僕がやったのは、借金を45年で返済する仕組みをつくったことです。そのままで行けば40兆だった借金が50兆円、60兆円と増え続けて、通行料金は値上げされる一方だったところを食い止め、料金を値下げさせたのです。民営化したことでサービスも向上し、順調に借金が減っています。もちろん、NEXCO各社の経営努力も大きいのですが、10年前に38兆円だった債務は、今では28兆円にまで減っているのです。
 今回も、NewsPicks のロングインタビューが出るまでは、“都議会のドン”が道路公団改革の際の抵抗勢力と同じであることが表に出ていませんでした。だからこそ、その実態を、具体的なファクトとともに、樺山さんという自殺した人もいることを示して、問題提起したのです。
(次回はこちら

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