『東京の敵』#7 ロジックでなく感情論を煽るメディア、専門性のないコメンテーターの弊害

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ロジックでなく感情

 ここまで経緯を記しながら、現在の大きな東京の問題を語ってきました。
「東京の敵」は人物ばかりではありません。日本のメディアの現状も俎上に乗せるべきではないか――メディアによる炎上体験をくぐり抜けた一人でもあり、そう感じています。
 では、メディアのどこが問題なのか。
 最大の問題は、感情論を優先してしまう点にあります。むろん、それは欧米でも同じ面がないわけではありません。しかし、感情の度合いが強く、かつロジックがない場合が多い。日本人は情緒が豊かですし、日本語には感覚を表わす語彙がたくさんあります。それは長所でもありますが、論理に弱いのは日本のメディアの弱点でもあり、欧米の一流メディアとの根本的な差です。
 2016年9月に公開された、クリント・イーストウッド監督『ハドソン川の奇跡』という映画があります。この作品は、ニューヨークで起きた航空機事故をもとにした実録です。
 2009年1月15日、乗客乗員155人を乗せた航空機がマンハッタンの上空850メートルでエンジントラブルで推力を失う。機長のチェズレイ・サレンバーガーはとっさの判断で、ハドソン川に着水させる道を選択した。全員が事故から生還し、一度は国民的英雄として称賛される。だがその後、旋回して空港へ引き返すべきだった、機長の決断は誤りだった、と疑惑が生じ、国家運輸安全委員会やメディアから厳しく追及されることになります。
 『ハドソン川の奇跡』でも、メディアはサレンバーガー機長を英雄と持ち上げておきながら、機長が間違った判断で客の命を危険にさらしたのではないかと疑惑が生じると一転して寄ってたかって追いかけ攻撃し始めます。そこまでは日米に大きな差はありません。
 しかし、批判の仕方が違う。米国のメディアや国家運輸安全委員会は、あくまでロジックで追及していきます。エビデンスを求めて事実で迫っていきます。たとえば、機長の判断が正しかったかどうかを調べるために、当日の状況を再現した秒単位のコンピューターシミュレーションを実施します。離陸してから着水までわずか200秒強の時間のなかで判断の可否を問われているのですから。空港に引き返すことができるのか、エンジンが完全に停止したのかどうか機長が確認する時間を35秒とした場合、残りの持ち時間で空港へ引き返したら高層ビルに衝突してしまうのです。徹底的に科学的な検証にもとづいて証言が求められます。
 そこにあるのは、あくまでファクトとロジックで、シミュレーションの結果、パイロットの判断が正しい、と証明されるわけです。
 この映画を見て、僕は極東軍事裁判のことを思い起こしました。拙著『昭和23年 冬の暗号』(中公文庫)に詳しく書いていますが、極東軍事裁判では、追及する側と弁護をする側が論戦を展開します。

 東京裁判は「平和に対する罪」が「法の不遡及」の原則に反するために、冒頭から波乱含みだった。五月十四日、大柄な体躯のアメリカ人の弁護人が発言台に立った。三十八歳のベンブルース・ブレイクニーはハーバード大学を卒業し、戦時中は陸軍少佐で情報将校だったので日本語も理解できた。
 ブレイクニー弁護人は、国家利益のために行なう戦争を、国際法ではこれまで非合法とみなしたことはない。「平和に対する罪」と名づけられた訴因は、すべて、当法廷により却下されねばならないと主張した。
「戦争での殺人は罪にならない。それは殺人罪ではない。戦争が合法的だからです。合法的な人殺しなのです。たとえ嫌悪すべき行為でも、犯罪としての責任は問われませんでした」
 それから、「真珠湾爆撃による殺人罪を問うならば」と言い、かなり間をおいて、声を低めて、ゆっくりと右手の掌をうえにひろげてから衝撃的な発言をした。
「我われはヒロシマに原爆を投下した者の名をあげることができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も我われは承知している」
 廷吏にコップの水を要求してから、「何の罪科で、いかなる証拠で、戦争による殺人が違法なのか。原爆を投下した者がいる」と声を張り上げ、コップを受け取って、「原爆の投下を計画し、その実行を命じ、それを黙認した者がいる。その人たちが裁いている」と言い切り、ぐっとコップの水を飲んだ。
 なかなかの堂々としたプレゼンテーションである。このくだりは速記録では「以下通訳なし」と印刷されなかった。


 極東軍事裁判をあらかじめ結論ありきの茶番劇と批判することはできますが、そうであっても、これは演技ではありません。欧米圏は、ファクトとロジックを掲げ、フェアプレイで真実に迫ろるやり方が、ひとつのスタイルにまで昇華されている例です。
 これは東京五輪の招致活動でロンドンに赴き外国人記者団とのやりとりをした際にも感じたことです。
 ロンドンでの記者会見で「東京の放射線量は問題ないのか」と質問されました。そういう質問は当然来るだろうと思っていたので僕は、事前に調べておいた事実を基いて、「現在の東京の放射線量とロンドンの放射線量は、ほぼ同じです。確認してくださればわかります」と答えました。福島の放射線量の影響はなく、自然界に発生している放射線量があって、東京とロンドンは同じくらいの量だという説明です。それで記者は納得したのです。記者の質問もあくまでエビデンスを確認するためのものでした。
 ところが日本の場合、どうしても感情が先行してしまう面があります。
 先ほどの『ハドソン川の奇跡』の例にあてはめると、機長の弁明はほとんど聞かず、メディアはいったん炎上しますが、エビデンスの前では謙虚になり騒ぎは一気に収束します。日本であれば感情にとらわれて機長は黒だと決めつけたままで終わってしまう。「誰が悪いのか」という感情面ばかりに走ってしまい、原因追及をすべきところが犯人探しになってしまうのです。そしてメディアが事を大きくすると、方向性が決まってしまい、元に戻れなくなってしまうわけです。
 その典型例が、先にも述べた豊洲の汚染の問題です。
 2016年9月16日、共産党都議団が、地下のたまり水に関する民間の検査機関による調査の結果を発表しました。ここで示された事実は「検出されたヒ素は基準値の4割」でした。だが、ここから「環境基準値以下のヒ素検出」について、新聞や地上波テレビなどが大騒ぎしだしました。本来、基準値以下なら9割であっても意味はありません。それを問題にしたらコンビニで売っているペットボトルも、水道の水も飲めなくなってしまう。福島でも、放射線量が基準値以下の作物が風評被害に遭いましたが、それと似た構図になってしまっています。
 そもそも飲料水の基準値は、70年間、1日2リットルの水を飲用することを想定して設定された数字です。地下のたまり水は飲料水ではありません。排水の基準値は飲料水基準値の10倍ですからまったく問題はありません。普段は立ち入らない地下で、かつ飲用など想定されていない場所で、基準値以下、あるいは基準値と変わらない数字が出たとして、安全性を根本から脅かすものではありません。
 これらの報道に疑問を感じた僕が、ツイッターで、「ヒ素検出」発表の報道のあり方に違和感を示すと、4000以上リツイートされました。そしてこのツイートについて寄せられたコメントなどを見る限りは、多くが賛意でした。つまり一般国民のほうがメディアよりもコモンセンスを持っている、良識があります。むしろメディアの方が科学的知識に基づかない主張をセンセーショナリズムよって拡散してしまっているのです。

一般人目線で騒ぐワイドショーの弊害


 豊洲については長年かけて安全対策を講じてきました。盛り土のはずが空洞になっていた、なぜそうなったのか、そこでどういう意思決定・情報共有があったのかが不明で間違った広報活動があった、それがテーマのはずが、基準値以下の汚染、あるいは周辺の道路とさほど変わりない空気中のベンゼンが密閉空間から検出されたなど、大げさな報道で風評を煽って不安感を植えつけたのです。
 盛り土の問題についても、本来このような問題においては捜査に協力する代わりに、免責がなくてはなりません。解明すべきは決定の過程であり、個人の責任追及は事故を防ぐ手立てにならないからです。だがメディアが犯人捜しを求めすぎるがゆえに、小池知事は「公益通報制度(免責)で情報を募る」との言い方にとどめていたにもかかわらず「懲戒処分などしかるべき対応をとる」と言わざるを得ないことになったのです。
 メディアがテーマにすべきは豊洲の建屋の入札過程の透明化のはずです。陰でどんな力が動いたのかを推理し、証明する手立てを考えなければいけない。週刊誌が独自取材をしているが、テレビはコメンテイターを並べて発言させているだけです。
 テレビなどに出演するコメンテーターは、本来ならその専門性からメディアのセンセーショナリズムを抑制しなければならない立場にいます。専門知識を活かして、前提や背景を説明したうえで、感情に流されない、論理の通った意見を述べることがコメンテーターの役割です。
 しかし、日本では、コメンテーターの中に「一般人目線で騒ぐこと」になっている人も少なくありません。
 たとえば、あるコメンテーターは「築地はこのままだったらどうなるんでしょうね?」という質問に「どうなるんでしょう」という返し方をしていました。つまり「移転する上で、なんとかしなければいけない」という立場には立ちません。
 「築地は移転までの期限が限られているし、これ以上税金を投資するわけにもいかない。なんとか解決しないといけない」と考えるのが当事者の立場ですが、多くのコメンテーターが解決するという発想がないまま無責任にしゃべっています。

(※今回のオリパラ中止の意見もこれに似ています)

 あるいは、「豊洲をやめて築地でやり直すしかない」と主張していますが、それは歴史的な流れを知らなさすぎます。築地が限界との前提でなければ意味がありません。
 すでに述べましたが昭和10年に開業した築地は老朽化が進み、危険なアスベストが残ったままです。貨物列車からトラックによる物流へと変わる時代の流れから取り残され、現地建て替え案も不可能と確認され、豊洲にしか代替地がないとの結論に至った、その前提を理解していないから無責任な発言が生まれるのです。
 都議会でも2009年に、民主党が議会で最大勢力となった際に、現地建て替え案が検討されたが、民主党は結局、その案をひっこめた。現地改築は無理との結論に達したからです。営業しながら建て替えるのは不可能だし、やるとしても結局移転して建て替えないといけません。都議会の共産党や一部のコメンテーターは「反対だから反対」という原理主義に陥っているようにみえます。
 しかも、メディアは豊洲の汚染を細かいところまで追及していますが、衛生面では築地のほうがよっぽど問題があります。屋根もない市場で、地面に魚を置いてセリをしているのは、先進国では築地ぐらいでしょう。
 築地への外国人観光客がある時期から爆発的に増えたのは、ある種の前近代的な部分を観に来ている面があります。僕たちはアジアの途上国に観光に行ったらバラックのあるワイルドな場所に惹かれますが、ああいうノスタルジーの場所なのです。逆に世界有数の水産国である日本の市場を視察した海外の業者が「輸入する際にあれだけ安全性を問題視しておいて、この扱い方はなんだ」と怒ったと話もあります。ノスタルジーとしての観光遺産ではなく、現実的な市場の役割をどうするか、責任を持って前にすすめていかなければならないのです。
 豊洲の汚染が基準値以上であればもちろん看過できませんが、基準値以下にもかかわらず、築地よりも衛生面で問題があるような報道が多くありました。テレビのコメンテーターが、「どうしたら解決するのか」との視点でコメントせず、いたずらに視聴者の不安が煽られるだけでは都民が問題を考えるきっかけにはならないでしょう。

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