谷川俊太郎が歌う鉄腕アトムと僕の少年時代の想い出

 11月20日の僕の誕生日パーティーの翌日11月21日土曜日昼過ぎ、銀座7丁目のライオン6Fで『絵の内と外』のパーティーがありました。銀座の後藤画廊が谷川俊太郎の詩とそのイメージに沿った絵画を一冊の本にした、その記念パーティーで、88歳の詩人谷川俊太郎とその息子谷川賢作(音楽家)のコラボがありました。
 谷川俊太郎には想い出があります。
 僕が思春期のころ、しょっちゅう書店に出入りして、マルクスやエンゲルやレーニンなど岩波文庫を買い求めていたのです。当時の流行思想に追いつこうと背伸びしたからです。
 すると書店のお姉さんが、この子、大丈夫か、そんなのばかり読んでいたらダメになっちゃうよ、と僕に箱入りの『谷川俊太郎詩集』(思潮社、1965年刊)をプレゼントしてくれた。
 当時の価格で1000円近い。いまの物価に換算すると5000円くらい、コーヒー色の箱入り、贅沢な装丁の丈夫な紙質の分厚い本です。


 ちょっといい話、でしょ。僕、可愛かったのかな、笑。
 この方は28歳か30歳ぐらいで妊娠してお腹が膨らんでいる人でした。その書店は長野市ではいちばん大きく文化の発信地のような店でした。作家になってからお礼を述べようと行ってみたのですが彼女の消息はわからずじまい、いまだに心残りです。
 僕の文章が難しいテーマであっても比較的読みやすいのは、谷川俊太郎が現代詩であっても難解でなく読みやすい、そこは通じているのです。
 谷川賢作は、『唱歌誕生 ふるさとを創った男』(猪瀬直樹著作集第9巻)がTBS系で1時間のテレビドラマとして放映されたとき(1998年の長野五輪開催の直前)、「故郷(ふるさと)」の作詞高野辰之、作曲岡野貞一、のうちの岡野の役を演じました。
 賛美歌をヒントに日本的な音律を重ねるため作曲に苦闘する岡野の様子は名演技でした。
 明治時代まで日本人は西洋の楽曲が歌えませんでした。ドレミファソラシドのうちファとシが欠けた5音音階が伝統だったから。そのため文部省では低学年には「春の小川」や「春が来た」の5音音階を、高学年になってから7音音階の唱歌「紅葉」や「故郷」を用意した。その文部省唱歌の裏方のスタッフが無名の高野辰之と岡野貞一でした。
 長野五輪の閉会式は「故郷」の大合唱で終わりました。テレビの前で世界中の人が歌いました。なぜなら賛美歌に通じるメロディだからです。
 谷川俊太郎詩集のこと、谷川賢作さんの演技のこと、そういうエピソードを挨拶で語りました。

 蜷川有紀は、銀座1丁目のギャラリー後藤に懇願されグループ展に出品したことから庵主の後藤真理子との縁ができていて今回ともに招かれた。

 谷川俊太郎さんの詩の朗読が始まると会場はコンサート会場のように静まりました。
 そして「音楽のようになりたい」の朗読の音声ががひたひたと沈むように滲み入るのでした。

 場面は打って変わって、鉄腕アトムの歌です。谷川俊太郎が歌います。ピアノは谷川賢作。
 あの歌詞、谷川俊太郎が書いたのです。

 空を越えて ラララ 星のかなた
 ゆくぞ アトム ジェットの限り
 こころやさし ラララ 科学の子
 十万馬力だ 鉄腕アトム

 

帰路、銀座は歩行者天国。ライブペインティングをしているのはガイジンです。日本人はただ歩いているだけ、せっかくの空間、何で自由にやらないのだ!
 書を捨て街に出よ!と言ったのは寺山修司だが、みな書を読んでいたのだよ、その上で街に出よだ。ところがいまは書も読まず街にも出ない、時間が止まったのだから小さくまとまらないでほしいね。

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