文字噛み砕く音のする:中島敦著『文字禍・牛人』を読んで

 この週末はいちだんと冷えこんで、私の街でもそろそろ雪が積もりそうな気がしています。

 私はもともと雪国の生まれではなく、ご縁があって今の町に住んでいるわけですが、何年もいると厳しい冬にも愛着がわいてくるものです。

 そもそも小さい頃から親の都合で転勤が多かったものですから、生まれ故郷と呼べるような町がありません。前の町ではそこが一番だと思っていましたし、今はこの雪国が一番だと思っています。また別のところに移れば、そこが一番だと言うのでしょう。要は、行く先々に魂を売るわけです。故郷への愛情が強い人たちには根無し草の悲しい生きかたに見えるかもしれませんが、根無し草には根無し草の自由と気楽さがあって結構です。

 そんな私でも、慣れない雪国に住むとなったときはさすがに不安でした。そこを好きになれるかどうかというよりも、そこで生きてゆけるかどうかがわかりませんでした。一年の半分近くを雪とともに暮らす生きかたというのは想像できませんでしたし、もともと身体も強くないものですから、寒さが身に応えるのではないかという気がしてなりませんでした。それが杞憂に終わったのは喜ばしいことだと思います。

 初めての冬、見渡す限りの銀世界を見たときはその美しさに息を呑んだのですが、三日で飽きました。あと半年と言わず、半月で融けてしまえばよいのにと思いながら、春が来るのを指折り数えて待ったことをおぼえています。ですが融けたら融けたで何となく寂しい気持ちがして、要は立派な雪国の人間になったわけですね。

 そうは言っても寒さに弱いのは変わらないもので、冬場は家で本を読むことが多いです。世間一般には読書の秋と言われていますが、雪国の人間にとっては読書の冬ということも多いにあるように思います。

 今回読んだのは中島敦氏の『文字禍・牛人』です。といっても初めて読んだわけではなく、再読になります。

 この角川文庫から出ているものを一冊持っていたのですが、今の町へ引っ越すときに人に差し上げたきり、手元にない状態でした。それがたまたま書店で目に留まったので、懐かしくなって買ってみたところ、知らないうちに表紙が変わっていて驚きました。
 調べてみると『文豪ストレイドッグス』という、キャラクター化された文豪たちが戦いを繰り広げる漫画があって、中島敦氏が主人公に選ばれたらしいのです。
 文豪とは誰のこと指すかという終わりなき論争のことはさておき、こうした漫画作品を通じて普段小説を読まない方々にも中島敦氏に触れる機会が与えられることは素敵だと思います。

 角川文庫からはタイトルにもある『文字禍』と『牛人』のほか、『狐憑』や『木乃伊』、『斗南先生』、それから『虎狩』の六篇が一冊の本に収録されています。

 なかでもやはり『文字禍』と『牛人』は傑作です。

 文字を操っているはずの人間が、実は文字に宿る霊に操られているのではないか。それを確かめるために研究を続ける博士が、徐々に自らも文字に魅入られてゆくさまを描いた『文字禍』。文字に踊らされるというのは昨今でもよくあることで、いわゆるデマの類が顕著な例でしょうが、あれのおそろしいところはある情報が流布した後にそれが誤りだとわかっても、出所を特定するのが難しいという点です。言い換えれば、もともとある人間が発したデマが、人口に膾炙する過程で主体を獲得したということにもなるでしょう。そういう意味では、現代にも文字の霊というのは多く存在しているように思います。

 仮初めの恋の相手が生んだ子。牛のような見た目をした彼が父に取り入って、やがて邪魔者を次々と排除してゆくのが『牛人』のあらすじですが、これは何らかの寓意を含んでいるようでありながら、そのようなものを軽々と超越するおそろしさがやはり際立ちます。このあたりは倉橋由美子氏の『大人のための残酷童話』にも通ずる部分があるのではないでしょうか。

 このほか、個人的には『斗南先生』が気に入っています。中島氏にしては珍しい私小説的な作品で、わがままで厳しかった叔父との思い出に潜む複雑な感情は読んでいてもどかしくもあり、また少し羨ましく思うところもあります。

 お肉や野菜に硬い、柔らかいの違いがありますが、文章にも同じことが言えると思います。文章の難しさとは関係のないtextureが存在していて、それが物語を楽しむ幅を広げてくれるのです。
 中島氏の文章は私にとっては硬い、噛み応えのある文章で、読んでいると一文いちぶんをしっかり噛み砕く音が聞こえてきます。
 個人的には食べ物も文章も柔らかいほうが合っており、硬い文章を読み終えたときにはすっかり顎が痛くなってしまうのですが、それでも読まずにいられないのが中島氏の作品の不思議なところです。

 満腹感とでも言うのでしょうか。そういうものが中島氏の文章にはあるのです。しかも味が格別であることは約束されていますから、食べないわけにはゆきません。私が中島氏の作品を知るきっかけになったのは高校の国語で『山月記』を読んだことで、そのときに上質な満腹感を味わって以来、氏にはしばしばお世話になっています。

 上質かつ歯応えのあるものを食べたいという方にはぜひおすすめしたいところです。

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