見えないものを見ようとする、望遠鏡を手にして街へ!

どうも。いのりです。
今回は某バンドの歌詞のフレーズ、のような言葉から話をさせて頂きましょう。

最近、ものが食べられないんですよね(当社比)。
勿論、全然食べられない!という人よりはきっと食べています。ご安心を。でももともと、食べる量が多めだった私が、食べられなくなっている。加齢のせいか。コロナによる(よらなくても)先行き不透明なこの世の中への憂いのせいか。それとも。

学食

こちら先日の学食でのメニューになります。いや食べとるやないかい。ちゃっかり副菜までつけとるやないかい。この丼、何と見かけによらず小サイズ。ちなみによく食べるときは中サイズでこんな感じのセットにデザート2個くらい追加できます。というか追加しないとお腹が鳴る。これは私の特徴の一つで、偏食というか、食が細いとき(これはまだ全然細くはない。何も食べられない日もある。気がついたら夜までヨーグルトとコーヒーしか口にしていなかった、ということも過去に何度かある)と、明日世界が終わるんか、というくらい滅茶苦茶に食べるときの差が歴然としすぎるだけである。
ちなみに食べられなくなると3㎏くらいはストン、と落ちてしまうので、食べられるときに食べて、自分の生命くらいは何とか自分で維持していきたいと思う所存である。

今までは丼小サイズ注文なんて可愛らしい女の子のすることだと思っていたので、当然だがそれを食べる人の気持ちは全く推し量れていなかった。というか、もとの考えが既に独断と偏見に塗れきっている。たまたまその時だけ食べられなかったのかもしれない。ダイエット中かもしれない。とにかく丼小サイズを口にすることとなった私は、丼中サイズが普通だと思っていたかつての私とは違う視点を手に入れたな、と思いつつ、のんびりもぐもぐひとりで昼食を取っていた。

他人の見えない部分は、勝手に決めつけるべきではない。

某ユーチューバーさんが、「人間は空白を嫌う」とおっしゃっていたが、まさしくその通りだと思う。解答欄の穴埋めを勝手に行って、他人と答えを比べることばかりしてしまう私たちにとって、見えない部分、則ち人の心や内面というものは、とても厄介だ。

私には、発達障害の友人がいる。
彼女には、苦手なことがある。例えば、人混みでの声の聞き取りや、同時に多くのことを進行すること。言葉を譜面通りそのまま取ってしまうこともあるので、その裏にどういう気持ちがあるのか推し量れず、いつも他人の気持ちを汲み取ろうと努力しているように見える。そのせいかどうかは分からないが、きっと疲れやすいと思う。
しかし、彼女には得意なことがある。繊細な表現に長けていて、私が見つけられないような視点の文章の解釈をさらっと意見として持っていたりする(さらっとではないかもしれない。でも、少なくとも私は、とても素晴らしい感性をお持ちだと思っている。羨ましいぜ)。絶対音感もあるようだ。ピアノも弾ける。ちなみに私は圧倒的リズム感の無さから楽器には手を出せないでいる。交互に両の膝を叩いていたはずの手が、いつの間にか一緒のリズムを刻んでいるくらいには不器用で、同時に違う指使いができない(これは指使い以前の問題かもしれない)。
だから私は、彼女を尊敬しているのである。

かつて私が今よりもっと無知だったとき、彼女と組んで発表をする機会があった。私の手際ももちろん悪かったが、彼女も先生からのお題や私の指示がうまく汲み取れず、苦しい思いをしていた。そのことに私は気が付いていた。彼女から、事前にこういうことが苦手で……と話まで受けていた。それなのに、何もサポートというサポートは出来なかった。毎日自分のことで精一杯で、精神も荒れ果てる一方だった。バイト先では途方もないミスをやらかして、一年ほど仕事を一部干されることもあった。

今だから、正直に言おう。
「どうしてできないんだ」と、思っていた。
必死に周りと同じことをやろうとしても、人より何十倍も時間を掛けても、出来ない彼女に対して。
そして、それを知っていながら何も出来ない、無力な自分に対して。

苦手なことを伝えるのには、とても勇気がいっただろう。彼女はSOSを出してくれていたのだ。こんな、何も出来ない私に対しても。
幸いにも、今は自分の心に余裕がある状態だ(私は人よりもたぶん心に余裕がなくなりやすい人間だと思っているので、あくまでも今、これを書いている現時点では、の話だが)。そして、その後、その悔しさから多くのことを学ぼうと思い、講演を聞いたり、文献で調べたりした。
しかし、目の前にいる彼女を救うには、やはり彼女と向き合うよりほかない。何故なら、ひとくくりに発達障害と言っても、人によって過ごしやすい環境は異なるから(障害がなくたって人はひとりひとり違うのだから、障害がある人だってそれは同じことだよね)。そして何より、彼女は私の大切な友人だからだ。私は一度友人認定すると、徹底的に向き合おうとするようだ(だから当時は、実はまだ友人ではなかったのかもしれない。よくわからないけれど)。

先程、目に見えないのは厄介、と述べたが、彼女も外見的な特徴からは障害があるとはわからない、いわゆる「普通」の女子大生である(全然関係ないことだが、ふんわりとした雰囲気が魅力だ)。しかしその内奥には、大きな生きづらさを抱えている。

彼女は現在就職活動をしているが、そこでも困難にぶち当たっているらしい。詳しいことはあまり聞いたことがないし、分かったようになるつもりもないので書かないけれど(ちなみに私は、彼女には困難にぶつかっても割とぐっとつき進もうとする、何というのだろう、ガッツ?みたいなものがあると思っていて、ここも彼女のストロングポイントの一つだと捉えている)。

有り体に言えば、障害者雇用という点を企業側から鑑みても、「扱いづらい」「サポートしにくい」内面に障害のある人よりも、「扱いやすい」「サポートが分かりやすい」障害のある人(例えば、精神疾患や発達障害の方ではなく、身体的な障害のある方)が採用しやすいというのは、残念ながら事実としてあるように感じる。この辺は具体的なデータに基づいていないので、あくまでも彼女の話と、私の推測によるものだが。

しかしそれは、逃げではないだろうか。
かつての私と同じである。分かったような気になって学びもせず、知ろうともせず、真に向き合っていなかった、「外面だけの」企業であり、人間である。
だからもう少し、歩み寄る気持ちを持ってほしいと思う。苦手なことも多いけれど、得意なことだってある。それは、障害のあるなしには関係ない。だからそこはフェアに評価したいと思うのだ。

全部わからなくていい。ただ、わかろうとして欲しい。まあ、私が言っても何の権威でもないし説得力はないだろうけど。

私のもうひとつ幸運なことは、自分の余力に加えて、少し知識を獲得したことである。
自分の無力さに打ちひしがれていた、あの頃の私ではない。だから、一つだけ、ここに断言させてもらいたい。
誰かの「見えない部分」を勝手に推し量り、あれこれと空欄を埋めようとすることと、本気で相手に向き合い、「見えない部分」を互いに開示しながら、支え合って生きていくことは、似ているようで全く違う。

先日授業で、「障害者に優しくして欲しい」とおっしゃった先生がいらっしゃった。それには半分賛同したい。もう半分は、「障害者じゃなくても」できる限りひとに優しく生きていきたい、という私の無謀な矜持による。でも私でさえ生きづらいと思っているこの世の中を、友人含め、何かしらのハンデがありながらも必死に生きている方々には、本当に頭が上がらない。きっともっともっと私の計り知れないような生きづらさがあるだろう。だからこの発言の意図も、何となく分かる。

でも、人には、人それぞれ、見えない部分がある。見えない生きづらさを抱えている人が、今日もたくさん生きている。

私には何ができるだろう。
目の前の相手には、何が必要だろう。

そういったことを考える視座や余裕を一人ひとりが持つことから、世界は少しずつ、生きやすいものになっていくのではないだろうか。
以上、見えないものを見ようとして、望遠鏡を(勿論、望遠鏡でなくたっていい)覗き込む、勇気を持とうぜ!というお話でした。

さあ。彼女には取り敢えず、今度会ったらプリンでも買って渡そうかな。

新しいキーボードを買います。 そしてまた、言葉を紡ぎたいと思います。