見出し画像

「普通」をやめた私たち

私は何故、私を語らなければならないのだろう。
それはきっと、私が、私として生きていくためである。
けれど、言葉で語ろうとすると、どうしても私が私からどんどんずれていってしまう感覚がある。それはいったい何なのだろう。
書くという行為は、とてつもなく面倒なのだけれど、私は私をこうでもして誰かに語らないことには、私の中の私が、騒がしいのである。
今私は、「私の中の私」という言葉を使った。「私の中の私」とは、いったい誰であろうか。……


……と、ここまで書いてみたところで、一度整理をしてみます。朝にお読みの方、おはようございます。お昼の方は、こんにちは。夜の方は、こんばんは。深夜の方は……たぶんもう寝た方がいいと思います。明日また、覗きに来てください。お仕事中の方は、お疲れ様です。ちょっとした休息にでもなれば幸いです。
私は芥乃いのりと申します。とある一介の大学生です。女性です。もうすぐ卒業で、学生生活もおしまい(の、予定です、一応……)*1。
趣味は読書、映画に音楽鑑賞。こうして文章を書いているので、ものを書くのも、きっと好きです。旅行でどこかにふらっと行くのも好きで、上手な写真を撮ることができる人に憧れを抱いています。(ですが、インスタグラムはやっていません。そのうちやり出すかも、と周囲にはここ2年ぐらいずっと言っています。やるやる詐欺ですね)
果ては、スキューバダイビングまでします。インストラクターの、一歩手前の免許も持っています。本当に幅広いですね。ちなみに恋人もいます。

たぶん、順風満帆といえば、そうなのかもしれません。
ならば何故、文章を書くのか。不幸な人が文章を書く、とまでは思わないけれど、文章を書く人って、「何か」があって、そしてそれに満足行かなくて、(あるいは、その成果を広めたい人もいるでしょう)書いている人が、多いのではないかなあ、と思います。*2

私が何故、文章という面倒な手段を取って、しかもそれを世に広めようとして、このように公開してしまっているのか。それは、今こうやって私が私が……と語っている私は、果たして本当に私なのか?と思ったからです。もっと言うと、昨日の私と今日の私、または数時間前の私と今の私って、本当に同じなのか?と感じたからです。
普通はね、いやいやあなた、何を言ってるのと。苦手なタイピングまでしてここまで2時間ぐらいかけて(私は本当にタイピングが遅いんですよ。練習あるのみですけど……まだまだ思考の速度にタイピングが伴っていません)文字を打っているのは、他でもないあなた自身でしょう?と。今まで、普通に学校に行き、家族と普通に寝食をともにし、時に欲しいものを買い、また時にはあきらめたりなどして、高校、大学にも行きたいところに普通に合格し……と本当に恵まれた環境で育ってきた。のにも関わらず、何故そんなことを感じてしまうのか。私の疑問はこれにつきました。

「普通」って、なに?

ありがたいことに大学は行きたいところに合格し、今はやりたい研究もできていて、本当に私は幸せだと思います。でも学べば学ぶほど、視野が広がれば広がるほど、たくさんの人と話せば話すほど、私の中の私たちは騒ぎ出すのです。普通、常識、当たり前……これらは、いったい何処から生まれたものなのだろう、と。
そう思ってしまったが最後、私は語弊を恐れずに言えば、「道を踏み外して」しまいました。教員の道を志していたのですが(それが自分で思う、自分の社会貢献の形の最適解だと思っていました)、次第に大学の主催する対策講座に行けなくなりました。面接対策の授業で、何を話せばいいのかわからなくなってしまったからです。「今はこう思ってるんですけど、明日になったらどうなんですかね、それちょっとわかんないんで、今日じゃなくて明日の私に訊いてやってくださいよ~、あはは!!」なんて、言えたらよかったのかもしれませんけど、当時の私は言えませんでした。


そして、自分で自分自身に、静かに社会不適合者のレッテルを貼りました。


自分の地元の教員採用試験のみは何とか受けたものの、周りは勿論対策をして、「普通に」頑張ってきた人たちばかり。*3 結果は不合格。目に見えていました。
返ってきた通知の面接欄のDの文字を見て、泣けたら良かったのかもしれませんが、なんと当時の私は、「ふーん」としか思っていませんでした。自分の中に、自分の人生に全く興味がない私がいるのが、もうこの時には、明確に見えました。自分というロボットのコックピットに、全く機器の状態を知らないし、知ろうともしない人が乗っているんですよ。怖いでしょう。社会不適合者の感がますます強まりましたね。*4

しかしここでいよいよ、ずっと書いてきた「私の中の私」が、本領を発揮してきます。
実は私は、私の中に、たくさんの私がいるのを自覚しています。こんなこと、言うのは簡単ですけど、これ、結構大変ですからね。普段は整合性を持って活動しているんですけど(そのつもりなのですが)、何か起こるとさあ大変。騒ぎ出すんですよ頭の中が。あっちへ行け、こっちがいい、もうどこにも行きたくない……。そして取りまとめである議長はなんとこの議論に興味すら示していない。なんだか書いていてむかついてきました。しっかりしてくれよ私。
こんだけ分裂しているように感じる理由もいろいろありますが、長くなるので省きましょう。端的に言えば、それぞれの自我が強すぎるのですね。しかしこの辺りは説明がとても難しいんですけど、どうやらいわゆる多重人格(解離性障害)という訳でもなさそうなんです。ここまで読んで、あれ、私にも色んな私がいるかも……もしかして病気?と考えた方、安心してください。たくさんの私がいることは、本来は別に病気でも何でもないんですって。*5 ただここからは私の持論になりますが、それでも、うまくいかなくなったときは、深刻な状態に置かれている可能性があると思います。なので早急に誰かを頼ったほうがいい。
……と言っているにもかかわらず、私は内なる私の言葉を無視して、自分で勝手に診断をつけようといろいろ文献を読んで、インターネットでまで調べてみました。*6 記憶がなくなることはない(忘れっぽいのはある)し、人格の目に見える交代もなさそう、けれど強い自分の統合性の無さがあって、生きづらい……。そうしていろいろ調べまくっていたある時、とある「私」が、私に語り掛けてきました。

あなたは、「普通」にとらわれてるよ。

ここまで読んでくださった方はもうお分かりかと思いますが、当時の私には全く理解できませんでした。今まで普通に生活できていたのに、常識的に考えておかしな気持ちの変動があるから、当然自分のことを病気だ!と信じて疑わなかったのです。
しかし結論として、どの文献に書かれている病気も私の症状には該当しませんでした。というか、当てはまりにいってたんですよね。「何らかの病気」に当てはまる、「普通」出てくるとされる症状に。

今は、今まで本当に集団生活が営めていたのが奇跡だ!というくらい「普通」のことに対する懐疑心が深まって、ますます生きづらくなりました。なんと、症状回復のご報告ではありませんでしたね。生きづらさが深まっているよ、というご報告でした。いやほんと誰得。でも同じ理由じゃないにしても、生きづらさを抱えている人って今多い気がする。
世の中も、新型コロナウイルスという未知なる脅威にさらされている今、「普通」の数はきっと人の数だけあって、でもそれでも太刀打ちできないような新しい世の中の尺度が、きっと必要になってきている。*7 その中で、じゃあ私にできることって何かな?と考えてみたんです。

私には、たくさんの声なき声を聞く力がある。

これ、もっともらしく書いてみましたけど、本当はそんなことないのかもしれない。傲慢かもしれない。でもたくさんの私が、私の中にいることで、そうした私の中の私の声に耳を傾けることで、時には意見が割れて大変なこともあるけれど(というか、大変なことのほうが多いけど)よりたくさんの他の人の気持ちも汲み取ることができるのではないか?と。
私の中の私は、本当に同じ人か?と思うほど、趣味も思考も年齢(精神的な?)も性別までも!(なんと、私の中には男性もいるようなんですよ。多様でしょ)全然違います。でもおかげで少しだけ、自分と違う意見をもった他者に対しても、おおらかな心を持てるようになったと思います。

私は「病気」としてではなく、元々持っている気質として、私の中の私たちと付き合っていくことにしました。今日も本当にいろんな声が聞こえてきます。でも聞こえてくる限りは、出来るだけ拾っていきたいと思います。そして今まで私が「普通」や「当たり前」と思ってきたことは、時として、誰かにとっては普通ではないかもしれないということも意識して、そして私は私のこれまでの人生に感謝して、生きていきたいと思います。

私は冒頭で、私語りをするのが何故か、と述べました。
それはいたってシンプルで、私の中の私が、そうしろと言っているからです。本当に面倒なやつらで、みんな意見はいっぱしにする癖に、身体の操縦を行おうとはしないので、こうやって遅い手さばきで頑張ってカタカタとキーボードを打ち続けているこの身体を、なんの苦痛も伴わずに「がんばえ~」ってプリキュアを応援するみたいにペンライトでも振ってる4歳くらいの私もなかにはいるんですよ。おい出てこい。
まあ、でも私を応援してくれているだけでいいか。

自分にとっての「生きやすさ」を求める

私は様々なことを学び、そうして気づきました。普通はこうだから、って生きているよりも、私の中の私たちの声に従って生きている方が、生きやすいんだ、と。あくまで私は、ですけどね。
普通とか、常識って、確かにめちゃくちゃ大事です。目に見えないけれど、世の中を動かすうえで、重要な指針となってるのも確か。でも「普通」という言葉は、時に「普通でなくなってしまった」誰かを迫害し、追い詰めてしまう危険性がある。みんなにとっての「普通」が、私にとっての「生きやすさ」にならなかったように。だから私は、「普通」という誰かの言葉に縛られて、生きていくことをやめようと思いました。それが、自分にとっての「生きやすさ」だから。
誤解して欲しくないのですが、私は皆さんに普通とは何かを疑え、と言いたくてこの文章を書いたわけではありません。(むしろこんな生き方は全くおすすめ出来ません。社会貢献なんてくそくらえ!なんて言っていたら、親孝行でもないし、むやみに敵を作ることにもなりかねませんしね)へえ、こんな人もいるんだ、生きづらそう、くらいで結構です。*8 でももし、今のこの世の中で生きづらい、とか、心の中で声がするって人がいたら、ちょっと心の中の声に耳を傾けてみるといいかもしれません。時に彼ら彼女らは、私に本当に大切なことを教えてくれるので。

それで4歳児が来ても、責任は負いませんけど。


*1 私はここで保険をかけていますね。私が生きづらさを感じていることのひとつに、「社会に出ても何もやりたいことがない」「いつまでも学び、勉強(自ら勉め、自らを強くするための!)していたい」という気持ちがあるのは事実で、このまま社会に出るか、院進するかで迷っています。えっこの時期に?って思う人、大丈夫です。私もそんなことは重々承知の上で、迷っているのですよ。さいころでも振って、人生決めようかね、なんて、思ってしまうときもあります。それは時に贅沢で、そして深刻な選択の自由という問題です。この辺りについても、いつかこの場でお話ができたらな、と思います。それはまた、別の機会に。

*2 まれに、何もないことを文章になさる方もいます。私はお笑い芸人さんも好きで、よくテレビも見ます。いわゆるテレビっ子ってやつですね。そんな私の好きな芸人さんのひとり、ハライチの岩井さんが書いた、『僕の人生には事件が起きない』(新潮社・2019)は、その最たる例だと思います。でも「何もない」ことをここまで切り取って文章にできるのも面白くって、ひとつの才能だと思います。それはむしろもう「何かある」状態になっちゃってるよ、っていう。ご興味のある方は是非。

*3 こんな記事をこんなところまでしっかり読んでくれている方に限ってそんなことはないと思うのですが、教員採用試験をはじめとする全ての夢や目標に向かって頑張り続け、その結果が正当に反映された人を馬鹿にする意図は全くありません。むしろそれはまだ見ぬ新たな地平に望まれている、ということですので、私は心から応援しております。どうか恐れず、楽しく、そのままのあなたで突き進んでください。この先大変なこともあると思いますが、こんな世界の端くれに、あなたを応援する私がいます。赤の他人に応援されたって元気なんか出るかよ、思う方もいるかもしれません。ですが、私はそれでも応援しています。心が弱ってしまった時には、どうか少しでもこのことを思い出していただけると幸いです。
そしてまた、何かにうまくいかなくて挫折を味わってしまった人に対して、お前は私と同じ、社会不適合者だ!と申している訳でももちろんありません。私とあなたは違います。私は本記事をここまでお読みになった方には分かるように、しんどくなって(まあ、社会貢献!的な意志が薄弱なのもあって)その道を追うのをやめました。しかしあなたの道は、あなたが決めるべきです。やめるも続けるもあなた次第です。さいころ振って決めてみるのもいいかもしれない。本当に無責任ですね、私。でも、どちらにしても楽しく生きていて欲しいなと思います。ここで人生終わり、ではありません。ここが始まりというつもりもないですが。人生の終わりは自分で決めない方がいい。(私はこう書きながらも、他人にも決められてたまるかよ、とも思っています。本当に面倒なやつですね)同じように、どんな道を選んでも、私はこの記事を読んでくださったあなたのことを、皆さんのことを心から応援しています。一度きりの、大切な命です。どうか生きてください。(できることなら、楽しくね)今はただ、それだけです。

*4 ご心配をしてくださった方、どうもありがとうございます。随分前から気分の波には悩まされていたので、今は然るべき医療機関において、然るべき治療を受けています。自分のために高い治療費使うのやだな、死のうと思う人、その気持ちもよくわかります。私もそう思っていた時期がありました。でも駄目です。あなたが生きることを、誰かが望んでいます。身近な人を一人ひとり、明確に思い浮かべてみるといいかもしれません。残念ながら互いに顔は見えませんが、私もそのうちのひとりです。生きることに理由なんてありませんが、ないということは、いくらでもつくれるということです。私はこの世界のそういう側面に気づいて、ちょっとだけ楽になりました。共に生きましょう。

*5 これは個人の見解ではなく、医学の解離性障害の本に詳しく書かれていました。ここでソース忘れという重大なミス……。ごめんなソイソース。……これ今の私のマイブームです。噓です。本当にすみませんでした。代わりに、といってはなんですが、文学の世界でも、「分人主義」といって、似たようなことを言っている人がいます。平野啓一郎さんです。簡単に言えば、一個の「私」じゃなくて、時と場合によって複数の「私」を持っているって考えてみよう!という感じですかね。間違ってたらすみません。要約力ないので……。私は考え方としては、とても好きですし、面白いと思います。でも一方で、別にこの考え方をもってしても、私の「私の中の私」に対する疑念が、全て晴れたという訳でもありませんでした。本当に面倒なやつですね私。ここまで読んでみて、分人主義が気になった方は、『「私」とは何か 「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書・2012)に詳しく書かれていますので、是非。この本は本当に面白いです。まあ、面白いと思った本しか紹介しませんけどね……!

*6 これ、お医者さんならまだしも、全く知らない人の自己判断は本当に良くないと思います。病気に限らず、今は簡単にサクッとインターネットとかでも調べ物って出来ますけど、本当に大切なことって、プロの力を借りた方が絶対にいいです。自分の身を危険にさらすなら尚更。あといろんな人に聞いた方が、可能性もぐっと広がります。それって大変ですけど、結構楽しいものですよ。ちなみにそんな私の中高の時の口癖は「人と話すぐらいなら、死んだ方がマシ」。ほ-ら一気に説得力がなくなった。でも今はそうは思いません。簡単に人と繋がれる今だからこそ、できることを模索していきたいものですね。

*7 まあこの記事を書きだしたのも、「子どもの教育格差と自己責任論」というとある動画(https://t.co/yxq9uNet6A?amp=1)をたまたま見たからで、こんな私の記事よりももっと優秀なコロナ禍における分断の危険性について、高校生の方がご意見をなさっています。私は自らの体験を踏まえつつ私なりに「普通」ってなんだろうな、と考えてみただけです。これも人の数だけ答えがあると思います。人の数だけ答えがあることを考えるのが、私大好きなんです。

*8 ちなみに先日、人生で初めて友人と占いに行きましたが、生年月日以外には何も伝えていないのに占い師さんに真っ直ぐ私の目を見て、「あなた、本当に生きづらそうですね」と言われました。噓でしょ。まだ何も話していないのに。ですので私と全く同じ生年月日の人は、生きづらさを抱えているのかもしれませんね。これは占い師さんを揶揄している訳ではなく、その後に伝えられたいろいろの内容も、私にとっては興味深い内容でした。ふと視線を感じて横をみたら、友人は私を見て必死に笑いを噛み殺してました。おい。読んでるか。お前だぞ。笑うな。

誤解をなるべく生まないように、いろいろと注釈をつけてみましたが、本当に長くなってしまいましたね……。この言葉たちが、今日もどこかで生きづらさを感じている誰かに、届いてくだされば幸いです。

改めまして、最後までお読みいただき、ありがとうございました。

新しいキーボードを買います。 そしてまた、言葉を紡ぎたいと思います。