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私的「フリーター」再考

「フリーター」

という言葉を聞いて、皆さんはどう思うだろうか。否定的な意味を浮かべる人もいるだろうか。もしかしたら、これを読んでくださっている自分がそうだ、という方もいらっしゃるかもしれない。
こういう時は、辞書で調べて……だめだ。中国語の辞書しか手元にない。何故だ。
ちなみに中国語では、

自由职业者

と言うらしい。*1 いや知らん。
私はたかだか2年、しかも大学の第2外国語で齧っていたくらいである。幾ら学問の多様性を説いたところで、教養テキストにフリーターが出てくることは今後もきっと永劫にないだろう。
ちなみに気になったのでその延長で更に調べてみたが、「自由职业者」は「自由な」「職業の」「人」。文字通りの意味である。(というかたかだか2外レベルの私では、残念ながら文字通りの意味でしか取れない。ほんとうは現地ではもっと毛虫でも見るような扱いを受けているのかもしれない。実際のところはわからないのでどなたか知ってたら教えてください)

なんだか中国語辞書なんかで引いたから話がややこしくなってしまった。そうこうしている間にもう2段上の棚に国語辞典があったのに気づく。もっと目の前にあった。これが灯台もと暗し。
そうそう。日本語での意味はどうなんだ。

フリーター (「フリーアルバイター」の略)自由な生活を続けるため、定職に就かず、アルバイトで生計を立てている人。
(旺文社「標準国語辞典」第6版より)

ここで私は思う。フリーターって、フリーアルバイターの略だったのか。(知らなかった。というかfreeにerを付与してフリーな人、ぐらいにしか思っていなかった。それではfreeerになってしまう。なんだかノリノリのサンバみたいな単語にも見える。ここで私は、我ながらほんとうに浅はかな自らの思考を呪ったのだった)
そして、もちろん辞書によって定義の違いはあれど、この文面を見たとき私は、「自由な生活を続けるため」には、「定職に就かない」ことがなんだか前提になってる感じがした。そんな馬鹿な。出来るなら自由に生きていきたいと思うのは、恐らく誰しも1度は思うことであろう(私は1分1秒常に、今この瞬間も自由に生きていきたいと思っている)。そうなると全人類が定職に就けなくなってしまうのか。恐ろしや。

ここで私の話になるが、私は、自分で自分のことを「学生フリーター」と自称している。何故なら、学生の傍ら、週7でアルバイトをしているからである。*2 もうフリーターの傍ら、学生をやっているのかもしれない。 我ながら馬鹿である。しかし頼まれたら断れない。要するに雇用者にとっては都合のいい、ただの「1人分の存在」なのである。

ダブルワークのひとつ、学習塾のメンバーはさすがに学生ばかりだが、もう片方の映画館は、フリーターにとても優しい。私の同級生でも、夢を追いかけるために、自らフリーターの道を選んだ友人がいる。そういう人を多く見てきたので、私の中ではフリーターは、

「夢や目標のために頑張ることのできる、精神的に自立したかっこいいひと」

と定義づけられている。旺文社も是非改訂の際には参考にして頂きたい。
私はほんとうに意志という意志が薄弱なので、初志貫徹・終始一貫のその姿は、憧れでしかないのである。しかし、定職に就かない人に、残念ながら世間の風当たりは強い。再度繰り返すようだが、自由は、それこそ自由に、いくらでも求められるものである。定職に就いているからと言って、不自由な生活にやり込められてしまうのは真っ平御免だ。(もちろん出来ないこともある。私は憲法に書かれている生存権すらろくに守れていないような人間ですが、みんな大切な条文なのでこれを読んでいる皆さんはどうか逸脱しないでください。というかあまり捨てにいってるとそれこそ警察のご厄介や懲戒免職にもなりかねませんので……)もちろんやりたいことがないから、自分を探すため、またはやむを得ない事情で……など、後ろ向きな理由でフリーターに「なりたくないけどなった」という人もいるかもしれない。でも私はここは敢えて、チャンスと捉えたい。

何にもなっていない、ということは、何にでもなれる、無限の可能性のある状態なのである。

私の夢はフリーターである、と言えるのかもしれない。(こんなことを堂々と言ってしまうと、親不孝感が全面的に押し出される。繰り返し述べるが、私はフリーターの皆様に最大限の敬意を表したいとおもっているので、フリーターだから親不孝なのではなく、不肖とは紛れもないこの私のことである。それはどれくらいかと言うと、親不孝がこねられるものだったら、こねて丸めて整形したら私という人物が出来上がるのかもしれない、というほどだ。ほんとうに子どもたちに見せられる代物ではない。何度も言うが、私には圧倒的に倫理観という倫理観が欠けてしまっているのである。こねられている間に気づきたいものだった)
大きく話が逸れてしまったが、それほどまでに彼ら彼女らには憧れと崇拝と、そして魅了がある。
しかし、また、こうも思うのだ。

どうせなら何かを諦め、逃げるためではなく、何かを追い求め続けるフリーターでありたい、と。

*1「プログレッシブ 中国語辞典 コンパクト版」(小学館・2004)が、家に転がっていたので参照した。ちなみに棚の3段目である。どうして1番上の棚にあった国語辞典に気づかなかったのか。
残念ながら、同辞書の現在の出番はほとんどない。ちなみに20歳を過ぎたもう見た目的には立派な大人が「授業で必要なんだからね!」と書店でゴネ倒して親の金で手に入れた代物である。コンパクト版ではあるが、3000円程である。
我ながら書いていて自分がほんとうに情けなくなってきた。これを機に使おう、と思ったり、思わなかったりなどした。

*2 これは決して労働基準法に違反することでもなんでもないのでどうか私の職場を知っている人も、訴えるのは待って欲しい。某映画館(大手シネコン)と学習塾のダブルワークの結果、そうなってしまったのである。というかダブルワークをしていても普通はそうならないようにするのが人間的だと思う。しかし私は何故か進んでそうなりにいっている。経済的困窮も今のところないのに。要するに生存権を自ら放棄し、法律という法律から、勝手に逸脱しにいっているのである。ほんとうに阿呆の所業だ。
なのについ先日まで、なんとその事に気づいていなかったのである。訂正しよう。ただの阿呆ではない。もう救いようのない、どうしようもない阿呆だった。
危ない。社畜予備軍として、正規労働者社会に徴兵されるところであった。それに気づけただけでも救いになっているか。いやたぶんなってないな。

新しいキーボードを買います。 そしてまた、言葉を紡ぎたいと思います。