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あの日の言葉を、もう一度考えてみる。

中学を卒業する日、当時の恩師から送られた言葉があった。この二つを自分の生きていく上でのスローガンにしている、という言い回しであったと記憶しているが、わたしは毎年のようにスケジュール帳(タスクの管理は苦手だが、書くという行為が好きなので、今でもアナログを採用している)に、恩師から送られた言葉を書いていた。

誠実さ、そして向上心

わたしに送るという形をとっていたこの言葉は、以降いついかなる時でも、ずっとわたしに付きまとうようになった。
験というのは、一種の呪いである。あの頃のわたしは随分ひたむきであったから、誰に対しても誠実に、何に対しても向上心を持って生きる真っ当な人間に憧れたし、自身でもそうなれるように努めた。しかし世の中の多くの人間がそうであるように、わたしもまた、清廉潔白な聖人君主ではいられなかった。そこで清濁を併せ吞めば良かったが、どうも黒白せめぎ合う盤面が許せない。そして不幸なことには、理想とかけ離れたエゴまみれの自分の様相に、苦しむこととなってしまったのだった。
芥川の言うことはいつでも正しかった。幸福を問題にしないとき、人ははじめて幸福であるといえる。わたしの学生時代は、恐らく取り立てるほど不幸ではなかったろうが、手放しで幸福でもなかったのかもしれない。だが、個人的な幸福ほど欺瞞に満ちたものはないと思う。それは今も変わらない。

自己紹介をするとき、就職活動をするとき、わたしはこの二つを自らの長所として掲げてきた。それは半分は正しく、半分は間違っている。10年近く意識してきたことだから、恐らく態度として表出される場面は多分にあっただろう。しかし、わたしは究極を言えば、興味のある人や物事にしか誠実でいられないし、手広く興味の幅を持っていると自負してはいるものの、やはり興味のないことをするのは苦痛である。というよりそもそもやることができない。そしてまた、限られた範囲にしか向上心も示さない。事実出世や名誉といったものは、わたしには人間のままごと遊びにしか見えない。やりたいことを、やりたいだけしかできないのは、いくら綺麗なスローガンを並べたところで、変わりはしなかった。

わたしは汚い人間だと思った。
けれども同時に、そんなわたしを愛するものだけ、大事にしていければいいとも思った。これを幸福と呼ぶなら、もう手遅れなくらい閉鎖的である。あれだけ安定や安心を嫌っていた人間のすることではない。けれども、八方に美しく見えることも、もうできはしない。

わたしは、わたし自身のために誠実に、そしてわたし自身の向上心でもって世界に対峙することにした。それがいつか、誰かのためになればいいと、今はそのくらいのことしか、考えることができない。

新しいキーボードを買います。 そしてまた、言葉を紡ぎたいと思います。