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想像力って難しい

どうも。生きにくい系ライター(自称)のいのりです。今日も大変朝から生きにくいなと思いながら、のんびり起床しました。
特に理由はありません。でも、生きにくい世の中だな、という気持ちが常に念頭にあります。言語世界のほうが息がしやすいという感覚があるので、今日もこうして綴っていきます。よろしければ、お付き合いください。


幼い頃は、大人になればなるほど生きやすくなると思っていた。けれどもそれは、もしかしたら「生きやすさ」とは少し違うのかもしれない。価値観がある程度固定化されてくるから、無駄な不安や心の揺らぎを拾いにくくなるのではないかとわたしは思っている。もちろん、それが全てでは無いけれど。ただ、感受性というか、些細なことを拾うセンサーが鈍ってしまうとするならば、生きにくい生きにくいと言いながら、何とか這うように生きているほうがましだ、とも思う。われながら、面倒なやつだ。
酷く精神が揺らぎやすいわたしはどうかというと、色々あってあっさりと学生でなくなった今も、些細なことで落ち込んだり、めちゃくちゃ喜んだりする。
喜んでいる時はいい。わたしはガリガリ君を与えるだけでも気分が良くなるくらいちょろい。しかもあたりかハズレかも関係ない。ただ甘いものを頬張るそれだけが、わたしを喜ばせる。経済的にも精神的にもエコだ。しかし落ち込むきっかけもまた些細であり、そして根深い。残念ながら、ガリガリ君で得られる多幸感よりも、ストレスの方が重たい打撃を執拗に喰らわせてくるようだ。思考がループして、いつまでも苦しくなる。
この嫌なこと(というか、苦手なこと)を、あえて幾つか挙げてみたい(共感してくださる方がいたら、幸いである)。


1 「普通」という概念

これは最近になってから思うようになった。昔は普通が「普通」であるということに違和感を特に覚えなかった。それは大きく言えばわたしがマジョリティに属するからであり、今でもそうである。けれども、一時期のタイミングからなんとなく、徐々に、「普通」というものに疑問を持ち始めた。そもそも普通なんてあるのだろうか。大勢の人間が集まって意見を交わして納得して、そうしてやっと得られるある一定の方向性が普通、や常識、と呼ばれるものであって、既定のものでは無いはずだ。だから自分が「これは普通」と思っていても、他者にとってそうであるとは必ずしも限らない。
教育実習がやっぱりわたしにとって大きかったのだけれど、「普通そうだよね」「それは当たり前だよね」という指導教官の授業をにこにこ観察し、職員トイレで嘔吐くみたいなことがあった。自分でもどうしてだかわからなかったが、とにかく今でも何故か、マジョリティにいる、という意識を多分に持ちながら(実際、生徒として通う学校は好きだった)、なんだかこんなふうに変な事を考えてしまうマイノリティさみたいなものを合わせ持ってしまった。大事にしたい視点ではあるが、これも使い方を誤ってはいけない。マジョリティもマイノリティも無くなってしまえばいいと思うのだけれど、現実問題そうもいかないだろう。だからわたしはいつまでも多数と少数の間で揺らぎ続けてるし、往還しなければならないとも思う。それはとても苦しいことだけれど、想像力を働かせつつ、暴走させないためには大切なことだと信じている。

2 「不文律(しかも、誰も意味を知らない)」

これも「普通」に似ているが、わたしの苦手な類である。「空気を読む」ということ。できない。一生懸命推し量っているつもりではいるんだけどね。今でも「ああ、合ってたか」とか、「間違えたか」とか思うことがある。というか、推し量っている時点で既に下手くそだと思う。
わたしは昔から、とにかく自分にとって筋の通る理由がないと行動に起こせないタイプである。なんでもすぐ「何故?」が先立つので、行動がよくワンテンポくらい遅れる。結構な悩みなのだけれど、あんまり伝わりにくい。「マイペース」はめちゃくちゃ言われてきた。ほんとうにそう。この前誰かがテレビで、「思考して踏み留まろうとする人は、組織の効率を悪くすると思われがちだが、群れとしての生存率を高めるためには非常になくてはならない存在である」みたいな事を言っていて、非常に救いとなった。もう忘れてしまったけれど。ダメージの吸収率がいい分、排出効率も上げていかないといけない(そうしないとやっていられないのだけれど、時々そのフィルターは詰まる、定期的清掃が必要みたいだ)。しかしそうすると嬉しいことも平気で忘却の彼方へ追いやってしまう。悲しいことである。

3 「悪口」

「ちっちゃな頃から優等生 気づいたら大人になっていた」という歌詞があるが、この表現にはいたく感服した。更に現役高校生(当時)が書いているのだから、頭が上がらないな、と思う。わたしが高校生の頃はここまで達観できていなかったから。しかし、かく言うわたしにも、この歌詞の条件は当てはまった。よく言えば手のかからない子ども。悪く言えば特徴のない子ども。しかしこの社会を風靡した曲の本当の怖さは、サビの部分で突然の裏切りがあるところだ。「優等生だと思ってた?そんなわけないじゃんね~誤解されちゃあ困りますよ~~べろべろばあ~~~」と言わんばかりに、語気を荒くし、相手を見下し始める。この痛々しさと、同時に持ち合わせる「あたしも大概だけど」という虚無と諦念。身に覚えしかない。「青春」というものだ。わたしの場合は更にここに、「こうしたら優等生に見えるだろう」という打算的思考も相まって、救いようのない学生時代を過ごしていた。けれども当時のわたしに一つだけ誇れる部分があるとしたら、「他人の悪口を言わない」ということではなかろうかと思う。今となればそれは当たり前のことだと認識しているが、悪口でコミュニティが作られることもある狭い世界で、そこに染まらなかったことだけは矜持として胸に持ち続けていたいと思うのだ。しかしどれだけ外に出さないとはいえ、嫌なことは嫌だし、嫌と思ってしまう自分も嫌だったし、ほんとうは親からそのように教育されたからであって自分の意志ではないのではないだろうかとも、じゃあ自分の意志なら極悪人にでもなれるのではないかとも思っていた。当時はただ鬱々としていた。今でこそ人間は矛盾の多い生き物なのだから、と思えているので、多少は自己嫌悪のループから抜けられたのではないかと思う。けれども「悪口」(=「何かを悪く言う」)が言えない癖は人間以外にも拡大してきて、反射的に嫌悪感を抱いてしまう虫に対してでさえ気を抜くと、「確かに嫌だけど、殺してしまうのは人間のエゴだしな…。見た目で差別はよくない、と言いながら、虫を殺してしまう人間とは、わたしとは一体……」と気落ちしてしまう。慈悲と偽善、このあたりをはき違えて自己嫌悪に陥る前に、今日は早めに眠ろう。

結論 わたしは考えすぎる

わたしは何事にも考えすぎる。「体で覚えるんだよ!」というのが、理屈で分かっていても、「いや、覚えるのは脳だしな…」とまた考えてしまう。けれども厄介なのは、いつまでも考えすぎる自分でいたいと思っていることである。熟慮は時として短慮よりも浅はかなことがある。色々なことに気を巡らせながら、考えて丁寧な言葉を紡いでいくよりほかないと思う。

いやー、改めて、想像力を過不足なく働かせたいと思う、今日この頃です。
想像力って難しい。


「想像力を過不足なく働かせる」ことについてはこちらでも。

「普通」ってどうなの?って学生のころから言ってた。全然最近じゃない。



新しいキーボードを買います。 そしてまた、言葉を紡ぎたいと思います。