ファッション絶望したくない!

月曜日。また、新しい1週間が始まる。
にもかかわらず、校舎に入ってきた小学生の少年Aくんはやけに憂いを帯びた表情をしていた。

「どうした?なんでそんなテンション低い?」

聞けば、塾のテキストの終わりが見えないことに絶望しているらしい。

「塾のテキスト、まだこんなにある…」

そりゃ、始まったばっかりだしな。新学期。

「学校の宿題も多いんだよな…」

それはお気の毒に。頑張ってくれ。

「なんで僕はこんな毎日を生きているのか……」

おいおい。そこまで人生に絶望するには早すぎんか。まだ小学生じゃないか。数年しか生きてないじゃないか。そう思っているとAくんの姉がやってきて、「まだ小学生だろ。小生意気め」と彼の脇腹をつついた。わたしはほっとする。しかし彼の表情は依然として晴れることはなかった。

授業が終わると彼は一転、にこやかに帰っていった。
なんなんだ。勉強が嫌だったんじゃないか。
そう笑いつつも、自らについて考える。


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この前観た映画のタイトルは、「メランコリック」。
人生のバイブルは「何もかも憂鬱な夜に」と「人間失格」。
座右の銘は、「炭鉱のカナリアたれ」。

駄目じゃないか。あまりにも暗すぎる。なんでこんなに暗鬱としてるんだ。
それにしても残念なのは、あまりネタにもならなそうな、まぁまぁの暗さである、ということである。

悲観的(ペシミスティック)も一周回れば、ネタになる。栗原類さんや、指原莉乃さんらが代表格だろうか。わたしのどうともしがたい点は、振り切れた暗さ、というわけではなく、かと言って根っから明るい訳では無いので、どっちつかずに見えてしまうところにある。表面上は、あくまで明るい人間を取り繕っている。というより、取り繕いつつ生きているうちに、大抵のことは楽観的に乗り越えられるようになってしまったというのも事実だ。世間は底抜けの絶望(を、客観的に見られる環境)、程々の前向きさ、そしてごくたまに底抜けの明るさを求めている。ちょうど良い、ぬるま湯のような諦観など誰も
求めてなどいない。だから、そこまで落ちぶれている訳でもないわたしは、さも清く正しく、明るい人間「かのように」、振る舞う必要がある。ただし、根っこの部分はやっぱりそれなりに暗いので、自分に刺さる作品に他者が共感してくれるとは思っていないし、むしろおすすめを聞かれると「えっと…」とついつい万人受けしそうな無難な回答を探してしまう。それゆえ、必然的に無意味な一線を引く行為が多くなり、「プライベートな部分はちょっとよく分からない、変な人」というなんとも微妙な立ち位置に落ち着いてしまうのだ。

そして厄介なところは、このように普段から進んで不幸集めをし、ネタにするかのように生きていると、自分で自分を卑しめて他人に縋ろうとする、どこか下卑た雰囲気になってしまうことだ。そしてそれでも息を吸って吐くように絶望絶望と言っていると、本当にどうしようもなくなってしまった時に、誰の助けも得られなくなり文字通り望みが耐えてしまう。真に恐るべきは、常に絶望状態にギアを入れているとき、他者から「ファッション絶望」と思われてしまうことだ。勿論、何か目に見えて不幸があった人に対しては、誰も絶望を気取っているなどとは思わないだろう。しかし何もないように見えてずっと厭世観のようなものを漂わせているだけだと、ただ面倒な人になってしまう。それだけは避けたい。

わたしは、「ファッション絶望」をするために、緩やかに薄暗い性格をしている訳では無いのだ。だからこそ、なんとなくの部分を大切にしていきたい。


なんとなく、好き。心地いい。
なんとなく、嫌い。嫌だ。

なんとなくの行為や感情が、世の中には溢れかえっている。わたし自身にも。そのぼんやりとした部分を明瞭にし、緻密に言語化することで、この薄暗いどっちつかずなわたしの解像度を高められないか。


わたしはまだ、わたしに当てはまる言葉を探している。

新しいキーボードを買います。 そしてまた、言葉を紡ぎたいと思います。