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桜井政成『コミュニティの幸福論ー助け合うことの社会学』を読んで余白の必要性を感じたという話

読んだ経緯

 社会人になってもうすぐ3年目になる。仕事や1人暮らしをする中で「コミュニティ」が少なくなっていることに気づいた。このまま死ぬのはもったいないと思い、何かのコミュニティに所属して人生の幅を広げようと思う一方で、出費や「無駄になったらどうしよう」という雑念が邪魔して足を踏み出せない。 そこでとりあえず、元々趣味である読書で体系的な知識を得たいと思い、「居場所」や「サードプレイス」に関しての文献を読み始めた。

 そこで出会ったのが『コミュニティの幸福論』である。本書ではコミュニティの研究者である著者が「コミュニティで人が幸福に生きるには?」という問いについて、様々な形態のコミュニティや最新の研究群を踏まえながら論じている。

 今まで社会学について学ぶ機会はなかった(無視してきた)自分にとって、リオタールのポストモダン思想の話や日本の幸福に関する傾向の話は非常に興味深かった。これらの話は自身の生活環境や、なんとなくで見ていた現代社会について、視点をリフレーミングしてくれた。

余白を敢えて作る

 中でも本書を読んで私が感じたのは、余白の重要性である。 余白とは「字や絵などが書いてある紙面で、何も記されないで白く残っている部分。」(デジタル大辞泉)という意味であるが、ここでは多義的に「余っている、余らせている部分。間、スキマ。」という意味で用いる。

 結論から述べると、「余白を敢えて作る」ことが人生を豊かにし、幸福につながるのではないかというのが、私が本書を読んで思った仮説だ。本書でも様々な側面からそれを裏付けるような主張がされているように思う。例えば、都市運動家ジェイコブズの主張「理路整然と計画された都市よりも、自然発生的な街並みのほうがコミュニティは活発になる」(『コミュニティの幸福論』2022年,p96)と述べているが、これは自然発生的な街並みの方が余白が多く存在し、人が交流する場が発生しやすいことを示すものだ。理路整然と計画された街並みは、一見生活しやすいように見える。しかしそこは全ての人間の動きが制御され、交流するにもぎこちなくなるのではないだろうか。(現在進んでいる渋谷地域の再開発も例に漏れないように思う)

余白を受け入れる

 余白に関して作ることも重要だが、作られた余白を「受け入れる」ことも同様に重要であると思う。本書で述べられていた当事者の境界線に関する議論がそれに該当する。人は往々にして、「〇〇の当事者」として誰かを紹介したりするが、それでは人と人との間に分断を生むと同時に、曖昧な当事者(余白)を排除してしまう。

 本来人は「当事者」と「当事者以外」で区別できる単純な存在ではなく、無数にグラデーションがあるように思う。さらに集団内にとどまらず個人の中にも時間軸でグラデーションが存在する。何かに対して賛成だった者が、時間が経って思考が習熟し反対へと意見を変化させることもあるだろう。このように人のアイデンティティを捉えた際、書き換えられる余地が常に存在するという意味で、人は永遠に余白が存在すると言える。この余白を受け入れ、常に自分を書き換えていくことが、自身の心の安寧につながるのであろう。これは本書の当事者に関する議論の最後に述べられる「アイデンティティ形成過程の自己再帰性」の話に対応している。

現代人は余白がなくなっているのでは


 さて、このように本書をもとにコミュニティを余白の観点から捉えてきた。余白のない自分を戒めながら読み進めていたが、いざマクロに社会を捉えたとき、「現代人って全然余白ないのでは?」と思い怖くなった自分がいた。

 サブスクで映画を観る際は「倍速視聴」し、バイトもスキマ時間で行い、TikTokで1分の動画コンテンツが流行るようになった中、余白はどんどんそれらに領地を奪われている。可処分時間を奪い合うサービスが群雄割拠する中で、人はそれらに翻弄され、余白が埋まっていく。 それは「タイパ」を重視する価値観が生んだ一つの生活スタイルである。それを否定することは躊躇われるが、間違いなく社会の大きな潮流は、人々に対して「余白を埋める」ことを図らずも要請している。

 そんな社会に対して、本書はそれに対して1つ生き方の解を提示してくれているように思う。それはパッチワーク型コミュニティである。終章にて、筆者は今後の日本で重要なコミュニティのあり方としてパッチワーク型コミュニティを提案している。それは一枚絵ではなく、それぞれのコミュニティが重なり合うようなコミュニティのあり方で、「いい意味でスキマがあるからこそ、多くの人がそこに関わることができる」と述べている。この主張は「余白を敢えて作る」ことと根底の思想は同じであるように思う。

 本書はコミュニティと幸福に関する文献であったが、余白とそれがない現代社会についても思考を伸ばして考えられるような裾野の広い一冊だった。


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