見出し画像

『新版 日本ロケット物語』3タイプのイ号爆弾(日本の歴史)

 日本のロケット開発はペンシルロケットからはじまったとうのが、歴史に刻まれているが、実は、戦中に50種類以上のロケット開発が行われていたことはほとんど知られていない。その事実を確認するために読んだのが本書だ。ロケット特攻機「桜花」、「奮龍」「イ号無線誘導弾」「秋水」などが代表的なものだ。

 本書により、イ号爆弾には「甲」「乙」「丙」の3つの種類があったことが確認できる。甲乙は、目標11km手前で700mから900mの高度から投下される。投下後0.5秒後に安定装置が作動し、1.5秒後にロケット推進がはじまる。その後、高度7m前後で飛行を続け、爆弾を運ぶ母機は目標の約4km手前までイ号誘導弾を追いかけながら無線誘導を続ける。目視で誘導弾が目標に命中するまで無線で操縦するものだ。

  • イ号1型甲:三菱重工、母機は飛龍

  • イ号1型乙:川崎航空機、母機は九九式双発軽爆撃機

 有名なのは、イ号1型乙の2回目の投下試験が神奈川県真鶴海岸で実施され、横方向安定性不足と無線機故障のため、熱海の温泉「玉ノ井旅館」の女湯に突入したことだ。それにより、浴客2名、女性従業員2名が犠牲になり、旅館と近隣の家を全焼したことから「エロ爆弾」と呼ばれた。甲乙ともに液体燃料が推進薬だったことから、ロケットの一種である。(ロケットエンジンは燃料を燃やす酸化剤にロケットに積む液体酸素を使い、ジェットエンジンは大気中の酸素を使う)

  • イ号1型丙:糸川英夫作 

 3つのイ号爆弾のうち「丙」は、糸川さんが試作したものだ。この頃の糸川さんは、東京大学第二工学部の助教授だったが、陸軍に現場徴用されていた。

 このミサイルは甲乙とは違い無動力なのでロケットではない。全長3.5m、直径0.5mの魚雷型胴体に十文字の主翼と尾翼をもち、触角1個と衝撃波の音響高周波(3〜5Hz)に感応するマイクロフォン1個を組み合わせた衝撃感応ホーミン装置で目標に攻撃するものだ。

 甲乙の量産機は1945年(敗戦の年)の6月下旬までに150機に達していたが、6月22日、26日、7月7日のB-29による空襲で明石工場は壊滅的な状態に追い込まれ、生産中止となった。甲乙は敵防御システムの前に母機が撃墜される可能性が強いという理由で実戦には投入されず、7月中に計画が中止された。

 糸川さんの「丙」は、7月に6機の衝撃感応ホーミング装置を外した投下実験が琵琶湖で実施され、ジャイロ安定機能試験は完全な成功を収めた。実験舞台は残り14機に衝撃感応ホーミング装置を取り付け、投下実験の準備をしている最中に敗戦となった。航空本部は、無線誘導が必要な甲乙に対し、打ちっ放しができる丙が有望だと結論づけていたという。

 このことを『東京大学第二工学部』(講談社)では、次のように紹介している。

 昭和18年(1943年)ごろに戦局が危うくなり、軍から東大第二工学部の助教授だった糸川さんに、特攻用の飛行機をつくってくれと依頼があった。陸軍参謀本部と、海軍司令部の両方から依頼が来たようが、糸川さんはこれを断った。特攻機よりはエレクトロニクスを使い、艦船の出す赤外線をキャッチし、そこに誘導して命中させる爆弾を作ればいいと逆提案したのだ。いまのミサイルと原理は同じだが、当時は誘導弾と呼んでいた。目標を米国の第58機動部隊200隻(この米海軍の部隊は「殺戮者の群れ」と呼ばれ恐れられていた)とすれば、誘導弾を200個作れば全滅できる「一発一艦」という目標だ。

 この誘導弾は糸川さんの「イ」をとってイ号爆弾と名づけられ開発がはじまった。イ号爆弾は最後のテスト段階で、琵琶湖の軍艦島を仮想目的に飛行機から爆弾を命中させるテストを行うところまで研究は進んでいた。しかし、実験をやっている最中に米軍の空襲を受けてメンバー二人が死亡したという。1945年(昭和20年)の8月のはじめに軍からの指令で急遽東京に帰ることとなり、1週間もしないうちに広島に原爆が落とされた。(当時の糸川さんは陸軍に現場徴用されていた)

 糸川さんによるとこのプロジェクトは戦後、米国が非常に興味をもって、ずいぶん調べに来たという。しかし、敗戦の翌日に書類はすべて焼いてしまって、モノはバラバラにし東京湾に放り込んで処分してしまったようだ。前述の『東京大学第二工学部』(講談社)では、糸川さんが語った‶秘話″として、次のように書いている。

「あのころ、松岡洋右(元外相)の使いがきて‶イ号爆弾は完成する見込みがあるか″と聞くんです。使者は、‶完成の見込みがあるならば、陛下に奏上してポツダム宣言の受諾を延ばしてもらうつもりだ″と、松岡の口上を伝えるので、一晩寝ないで考えましたよ。技術的には自信があったが、工場がみんな山の中に疎開していて、生産力がほとんどゼロの状態だったから、大量生産はほとんど不可能な状態なんですね。それで、‶試作はできても、いまの戦争には間に合わない″と返事をしました。その1週間後に敗戦(1945年8月15日)になるわけです」

『東京大学第二工学部』(講談社)

 また、糸川さんはケ号爆弾(マルケプロジェクト)の開発にも携わっている。

  • イ号1型丙:音響誘導による誘導弾

  • ケ号爆弾:赤外線による誘導弾

 『東京大学第二工学部』祥伝社新書)によると、ケ号爆弾開発研究会は陸軍が1944年(昭和19年)5月から開発に着手したもので、熱誘導(赤外線)により敵艦を爆破することを目的にしたものだ。高所から投下されたケ号爆弾は、高度2,000メートル程度で敵機を探索し、敵艦船から熱源を発見すると、その方向に機体を進め敵艦を爆撃する。決戦兵器の「ケ」をとり、ケ号爆弾と呼ばれた。

 これは軍産プロジェクトで、東芝、日本電気、理化学研究所、東大航空研究所、東大、京大、東北大、筑波大(文理大)などが参加した。糸川さんは、東大航空研究所の肩書で爆弾の空力設計に携わっていた。このプロジェクトには、後のファナックの創設メンバーである稲葉清右衛門氏(東大第二工学部精密工学科卒業)、日本電気の小林宏治氏も参加している。ケ号爆弾開発研究会には東芝の他に、電子部品を納入する企業の技術者も参加していた。

 たとえば、海軍の技術中尉だった盛田昭夫と測定器の技術者だった井深大は、この研究会で知己を得て、戦後にソニーの前身である東京通信工業株式会社を設立することになったのである。なんと、ソニーの原点はケ号爆弾開発研究会にあったのだ。

 糸川さんの関わったイ号1型丙、ケ号爆弾はスマート爆弾と呼ばれるもので、ロケットではないが、その他のイ号1型甲乙などは液体燃料ロケットだった。

 本書には、当時の日本のロケットの技術水準をV2ミサイルに代表されるドイツに次ぐ水準にあった。1945年8月15日までは世界最高水準の開発能力を示した日本のロケット技術は、振り出しに戻ってしまい、戦後のペンシルロケットが逆に、世間に注目されることになってしまった。第二次大戦中に日本が開発着手したロケット兵器は50種以上、構想段階のものを含めると100種類を超えていたとある。

 糸川さんは、東大第二工学部時代である1941年(真珠湾攻撃)から1945年(敗戦)までの期間、何を行っていたかを自らの著作(記録)に一切残していない。しかし『私の履歴書』にだけ、次の1文を残している。

「後年は、特攻機という、非人道的な技術への反発から、無人誘導弾の研究試作に没頭した。ホーミング、ビームライダー、コマンド、慣性誘導など、今日世界中の軍備システムに組み込まれた技術はほとんど手がけている」

『私の履歴書』(日本経済新聞)

 つまり、糸川さんは戦中にはロケットには関わらず、無人誘導弾の開発に没頭していた。そして戦後に、朝鮮戦争に使われていた2.6インチ対戦車ロケット弾(通称「バズーカ砲」)の溶剤圧伸式ダブルベース推進薬(在庫が日本油脂にあった)を使ってペンシルロケットを生み出したのである。

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。