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『共同幻想論』総合性と現在性こそが吉本隆明の強み(日本の歴史)

 以前から、ユングの集合的無意識が、民族というくくりに収まるケースと人類というくくりに収まるケースに違いがあるとしたら、アフリカから世界に分散した人類の無意識の中にある幻想の遠い記憶ではないかという問題意識を抱いていた。そのときに、共同幻想と言うキーワードが頭に引っかかり、吉本隆明さんの「共同幻想論」を読んでみた。吉本隆明さんは戦前から戦後にかけての国家の変貌と、60年代安保という対国家活動を体験した上でこの本を書いたと言う前提がある。そして、古事記などの神話や遠野物語のような民俗学的な書物をベースに、以下の3つをベースに考察している。

1)自己幻想:個人と個人の関係。芸術など
2)対幻想:個人と他者とのプライベートな関係。家族・友人・恋人など
3)共同幻想:人間同士の公的な関係。国家・法律・企業・経済・株式・組合 など。宗教は、個人の内面に収まる限りは自己幻想に当たるが、教団を結成し、布教を開始すれば、共同幻想としている。(これは、聖俗を分離しているキリスト教や仏教などを前提としていて、イスラームにははまらない)

 しかし、吉本隆明さんの分析は、国家を超越した宗教組織などと国家を共同幻想としてひとくくりにしている点で、適応できるのが日本しかないのではないかという限界的制約を感じてしまう。マックス・ウェーバーの定義から血縁共同体としての民族=種族、文化共同体=民族、政治共同体=国民という分類と、以下のようなアラビア語による帰属意識の分類から考察すると、共同幻想を国家論として捉えるのではなく、集合的無意識として捉えた方が整理できるのではないだろうか。

 a)カウム:血縁、民族的概念
 b)ワタン:地縁的概念
 c)ウンマ:宗教的概念
 d)ダウラ:政治組織・単位
 e)バラド:心理的、情緒的同胞意識

 吉本隆明さんが自らのことを、学問という領域の外にあり、非学問の場所から学問をみる。非学問という場所は総合性をいつも頭においている場所なので、いつも総合性ということが潜在的な課題になるとしている。そして、いつでも大衆的な現象、現実に文化現象に絶えず接触している場所からの意見だということが前提にあり、アカデミックな訓詁の学をもっぱらとするのでなく、総合性と現在性の両面から検討を進めるところに自己の本領の発揮を構想している、と自己の強みをアピールしていることろが非常に面白い。比べるレベルにはないと思うが、このスタンスは私とまったく同じで、「総合性」ではなく、「システム工学的に」と、「現在性」ではなく、「マスクドニード」と表現しているという違いがあるだけだ。

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。