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『日本人の知恵「三分一湧水」』(旅をする)

 2010年11月3日の文化の日に念願だった「三分一湧水」を見学した。八ヶ岳の裾野にはたくさんの湧水がある。そのひとつに「三分一湧水」がある。ひとつの湧水を3つに分け、6つの村でこの水を水田の灌漑に使っていたという。400年以上前から3つに分割した水を6つの村の3方向の3地域に分配していたそうだ。なぜ、3つに分割したのか。八ヶ岳南麓標高1100m付近は湧水が多く、下の台地に水田の灌漑に見合うだけの水量をまかなえる湧水や河川がない。江戸時代から労力と費用をかけて水路を作り、水を確保してきたのは、このためだ。しかし、どれほど労力をかけても、水が水田にたどり着くまでに、途中で水漏れがあったり、他の村に水を取られたり。そして村同士の争いに…。米を作る農家にとって水は死活問題なのだ。そこでひとつの湧水を3つに分割する「分水池」を作り、池の中央に「水分石」という3角柱の石をおき、水の流れすらも可視化し、公平に分配した。「水分石」を少しづつ移動しながら3地域の人たちに納得してもらえる「公平に分配できる位置」に置かれたそうだ。そして、「分水池」は皆で交代に水番を決め見回りをしました。(エンボケックのホテル用の水源で、砂漠の強烈な暑さの中ベトウィンの人が水番をしていたことを思い出しました)

 Webサイトなどで「三分一湧水」は見たことがあるが、この「分水石」には気がつかなかった。やはり、実際に現地で実物を自分の目で見ないと分からないものだ。「三分一湧水」の地主である坂本家は1772年から2002年に長坂町のものになるまで「水元」として管理をしていたそうなので、民間の人が水元だったのだ。

 3つのうちのひとつは7メートルの落差で水力発電が行われて電灯などを照らしているが、今でも農業に使われており、この「システム」は400年以上も機能してきた。

 これには感動しました。
 三角柱の「分水石」の知恵にも驚きです。
 すごいぞ、日本人!

 その後、「三分一湧水記念館」で三分一湧水の水と土からアウトプットされた野菜を購入。

 そして、武田信玄が長野を攻めるためのルートとして開拓した「棒道」から小淵沢駅まで3時間弱のウォーキング。ついでにサントリーの白州工場で工場見学。

 秋の山梨の澄んだ空気 三分一湧水の知恵 雄大な八ヶ岳の風景 久しぶりのシングルモルト                

 感動の休日でした。

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。