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『なんじ自身のために泣け』一度会ってみたかった人物(世界の歴史)

 著者の関岡英之氏は1961年生まれなので、私と同年代。
 就職したのは東京銀行。当時の東京銀行は日本の銀行の中で唯一、海外支店もっていたグローバルな銀行だ。北京支店に勤務したようだが、学生時代にバックパッカーだったこともあり、有給休暇でベトナム、カンボジア、ビルマ(ミャンマー)、タイ、インド、イランなどを旅した紀行がこの本。

 途中、アラビア語を勉強するため、東京でアラビア語が無料で学べる学校に通ったとあった。この学校はおそらく元麻布のアラブイスラム学院(今は新入生募集は停止中)だろう。3回通って3回挫折したとある。私も2000年代に通って挫折したので、彼は先輩になる。

 読み進めていくと、北京に住んでいる新疆ウイグル地区のムスリムの話や、イランの聖地コム、ゾロアスター教の聖地ヤズドなど、イスラームへの親近感が感じられる記載が多々見られる。ご出身が慶応大学なので、井筒俊彦さんの存在ももちろんご存知のようだが、イスラームの捉え方が私と似ている。

 欧米中心の観点から見れば、イスラームは時代錯誤で不合理極まりない、前近代的遺物に過ぎないかもしれない。しかし、それではなぜイスラームは、かくも急激に復興しつつあるのか。むしろ合理性や効率性を超越した彼岸にこそ、イスラーム復興の源泉があるのではないか。私はもう一度、イスラーム復興の歴史的意味を問いかけたい。イスラームはいまや欧米的近代合理主義的価値観に対抗する唯一最大の『他社』として、世界史に屹立しつつある。そしてヨーロッパ、ロシア、中国、さらにはアメリカの内部においてさえも、それぞれの社会への同化を拒み、イスラーム独自の価値観を強く主張する他者として増殖しつつある。
 イスラームは、経済的な反映からは取り残されているが、なぜか強烈な誇りと自負心に満たされているように見える。その揺るぎのない確信を前にすると、もしかしたら間違っているのは我々の側ではないか、という気がしてくるのは、私だけだろうか。

 関岡氏は2019年に58才で亡くなっているが、本書を読む限り、妙な親近感が湧く。本書の後の「大川周明の大アジア主義」「防共回廊」がアジア三部作とのことだが、イスラームに寄り添う気持ちと中国の人権を無視した民族浄化に憤りを感じていたのだろう。

 憲法論など議論すると喧嘩になりそうだが、一度会ってみたかった人物だ。

Creative Organized Technology をグローバルなものに育てていきたいと思っています。